桜尾城跡(さくらおじょうあと)・その1
●登城日 2009年4月4日
●所在地 島根県邑智郡邑南町市木
●標高 360m
●備考 1342年以降、吉川氏が築城
●別名 堀城
●遺構 郭、空堀、竪堀、石積み井戸、堀切他
◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」その他)
所在地は、浜田自動車道の瑞穂ICのすぐそばにある。浜田自動車道の東沿道という位置になるが、当然ながら自動車道から直接は行かれないので、いったんICを降り、北へ市木の町並みが続く狭い道から登る。
ちなみに、そのまま北へ向かっていくと、「石見三門」の一つ「浄泉寺」がある(石見三門のもう一つは、2009年3月23日に取り上げた、邑南町阿須那にある口羽氏建立の「西蓮寺」)。
島根県遺跡データベースによると、この桜尾城付近には、北に近接して「滝ノ尾城跡」「高城跡」「陣ヶ丸城跡」などがある。この場所から南東に向かい三坂峠を越えると、すぐに安芸の国に入り、「駿河丸城」や「小倉山城」などがあり、国境の重要な位置であったことがうかがわれる。
【写真左】桜尾城遠望
市木の街道筋からみたもの
◆現地に設置してあった説明板より
“桜尾城由来
鎌倉時代(1100年代)、石見に国府が置かれてのち、益田氏の所領となり、川本と市木に別府(役所)が置かれ、石見の守りを固めていた。
益田氏系の福屋兼宗が浄泉寺の裏山に高城(昔の桜尾城)を築いた。南北朝時代の暦応4年(1341)、福屋氏と周布氏は南朝方で、北朝方の安芸新庄の吉川氏が、雲月山や三坂を越えて攻め込み、高城から福屋氏を追い落とした。
その後、吉川氏の家老の一人堀氏が、高城から東南700mのこの地に堀城(現在の桜尾城)を築いた。山の上からは観音寺原・大町原・猪子山が南に広がり、北に麦尾の谷が望まれる好位置にある。
天文18年(1549)、毛利・吉川の家督争いを疎んじた堀小太郎重利は、吉川氏の支配を離れ、福屋氏に組した。その13年後(1562)、毛利元就、吉川元春の軍勢に攻められ、三坂の戦いに敗れ桜尾城内で討ち死にした。
平成15年11月 市木自治会”
【写真左】登城口付近
付近には正式な駐車場がないので、確実なのは浄泉寺で駐車した方がいいかもしれない。
【写真左】登城路から100m程度入ったところ
この日登城し始めたのが、夕方の6時を回っていたため、全体に暗く、写真もあまり鮮明でない。
道幅は歩くのには十分あるが、この日は全体に湿度があり、このあたりは完全に陰になっていることから、薄暗い。
【写真左】「馬ずり登り」といわれている個所
当時の登城路だろうが、竪堀のような遺構を思わせる。
この道を馬に乗ったまま登ったのだろうか。現在ではとてもできない芸当だろう。
なお、別の個所では「馬ずり下り」という個所もあり、登りと下りの道を区別して使用していたようだ。
【写真左】井戸跡
現地の説明板より
“井戸の概略
井戸は補修したものですが、直径は元石に合わせてあります。上部は石垣になっていて、下部は土をたたき水を溜めていたと思われます
平成15年11月 市木町自治会”
直径はかなりあり、2m近いのではないかと思われる。
【写真左】本丸付近からみた城下の市木小学校
東麓部にあるが、当時は本丸付近の雑木はなく、特に南方向は相当奥の方まで見渡せたと思える。
【写真左】本丸付近
縄張り図などがないため、確証はないが、この小屋のある辺りが本丸と思われる。
【写真左】本丸付近から北に伸びる腰郭を見る
全体に管理はいい方だが、特に北に伸びる郭周辺は遺構が分かりやすい。
北方向には、郭が2段程度あったと記憶しているが、この写真の郭が一番大きい。
【写真左】上記郭から本丸を見る
高低差がかなりあり、6~7m程度はあると思われる。
●登城日 2009年4月4日
●所在地 島根県邑智郡邑南町市木
●標高 360m
●備考 1342年以降、吉川氏が築城
●別名 堀城
●遺構 郭、空堀、竪堀、石積み井戸、堀切他
◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」その他)
所在地は、浜田自動車道の瑞穂ICのすぐそばにある。浜田自動車道の東沿道という位置になるが、当然ながら自動車道から直接は行かれないので、いったんICを降り、北へ市木の町並みが続く狭い道から登る。
ちなみに、そのまま北へ向かっていくと、「石見三門」の一つ「浄泉寺」がある(石見三門のもう一つは、2009年3月23日に取り上げた、邑南町阿須那にある口羽氏建立の「西蓮寺」)。
島根県遺跡データベースによると、この桜尾城付近には、北に近接して「滝ノ尾城跡」「高城跡」「陣ヶ丸城跡」などがある。この場所から南東に向かい三坂峠を越えると、すぐに安芸の国に入り、「駿河丸城」や「小倉山城」などがあり、国境の重要な位置であったことがうかがわれる。
【写真左】桜尾城遠望
市木の街道筋からみたもの
◆現地に設置してあった説明板より
“桜尾城由来
鎌倉時代(1100年代)、石見に国府が置かれてのち、益田氏の所領となり、川本と市木に別府(役所)が置かれ、石見の守りを固めていた。
益田氏系の福屋兼宗が浄泉寺の裏山に高城(昔の桜尾城)を築いた。南北朝時代の暦応4年(1341)、福屋氏と周布氏は南朝方で、北朝方の安芸新庄の吉川氏が、雲月山や三坂を越えて攻め込み、高城から福屋氏を追い落とした。
その後、吉川氏の家老の一人堀氏が、高城から東南700mのこの地に堀城(現在の桜尾城)を築いた。山の上からは観音寺原・大町原・猪子山が南に広がり、北に麦尾の谷が望まれる好位置にある。
天文18年(1549)、毛利・吉川の家督争いを疎んじた堀小太郎重利は、吉川氏の支配を離れ、福屋氏に組した。その13年後(1562)、毛利元就、吉川元春の軍勢に攻められ、三坂の戦いに敗れ桜尾城内で討ち死にした。
平成15年11月 市木自治会”
【写真左】登城口付近
付近には正式な駐車場がないので、確実なのは浄泉寺で駐車した方がいいかもしれない。
【写真左】登城路から100m程度入ったところ
この日登城し始めたのが、夕方の6時を回っていたため、全体に暗く、写真もあまり鮮明でない。
道幅は歩くのには十分あるが、この日は全体に湿度があり、このあたりは完全に陰になっていることから、薄暗い。
【写真左】「馬ずり登り」といわれている個所
当時の登城路だろうが、竪堀のような遺構を思わせる。
この道を馬に乗ったまま登ったのだろうか。現在ではとてもできない芸当だろう。
なお、別の個所では「馬ずり下り」という個所もあり、登りと下りの道を区別して使用していたようだ。
【写真左】井戸跡
現地の説明板より
“井戸の概略
井戸は補修したものですが、直径は元石に合わせてあります。上部は石垣になっていて、下部は土をたたき水を溜めていたと思われます
平成15年11月 市木町自治会”
直径はかなりあり、2m近いのではないかと思われる。
【写真左】本丸付近からみた城下の市木小学校
東麓部にあるが、当時は本丸付近の雑木はなく、特に南方向は相当奥の方まで見渡せたと思える。
【写真左】本丸付近
縄張り図などがないため、確証はないが、この小屋のある辺りが本丸と思われる。
【写真左】本丸付近から北に伸びる腰郭を見る
全体に管理はいい方だが、特に北に伸びる郭周辺は遺構が分かりやすい。
北方向には、郭が2段程度あったと記憶しているが、この写真の郭が一番大きい。
【写真左】上記郭から本丸を見る
高低差がかなりあり、6~7m程度はあると思われる。
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