丸山城跡(まるやまじょうあと)
●所在地 島根県川本町田窪古市
●登城日 2008年3月12日
●築城主 小笠原長旌(ながはた)
●標高 480m
●遺構 郭、虎口、郭、石塁、カマド、礎石建物
●遺物 銭貨(洪武通宝)、青磁(15世紀)、白磁、備前焼、美濃陶器、兜等
●備考 円山城
◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」「サイト:川本町」その他)
石見小笠原氏の出自は、弘安の役(1281)により阿波小笠原氏の長経の孫・長親が、その功によって石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされている。具体的にこの地に入ったのは、その14年後の永仁3年(1295)頃とされている。
【写真左】丸山城遠望
入部した地である邑智郡村之郷は、現在の美郷町内にあり、そこに山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)を築く。長親の子・長胤の代になる南北朝期には、南山城より北方2キロに宮内城も築いているが、おそらく南山城の支城の一つであったと思われる。
南北朝期には、長胤は武家方として宮方(後醍醐派)と戦い、その功によって、現在の川本町内にある温湯城と、赤城(赤城山城)を賜る。本城としたのは温湯城で、以後小笠原氏の拠点となる。 その後しばらくは他の一族と同様、同氏一族の惣領家と庶子家が分裂や抗争を繰り返してきたらしく、詳細は不明である。
【写真左】二の丸と本丸の間にある井戸跡
戦国期になって同氏の名前が度々出てくるのは、長雄である。この地域ではげしい攻防が繰り返された目的は、何といっても「石見銀山」の支配である。
弘治元年(1555)毛利元就が陶晴賢を降し、大内氏支配下の石見銀山を同3年に占領する。一方、尼子晴久は、佐田・高櫓城(島根県出雲市佐田町反辺慶正)の本城経光を石見に向けさせ、奪取を試みる。このとき長雄は尼子方に与して、銀山の守城・山吹城(島根県大田市大森銀山)を攻略する。
しかし、翌永禄2年(1559)5月20日、毛利元就は長雄の拠る温湯城を攻撃。さらに7月に本城経光を城番とする山吹城も攻撃。8月25日、温湯城に立てこもった小笠原長雄は、尼子の支援を受ける間もなく毛利元就に降伏する。
【写真左】二の丸入口付近
おそらく虎口と思われる。
本来なら降伏した段階で、城主は自刃をし、その代償として家臣の命を救うという処置が多いが、長雄は元就の意向で死を免れ、隠居する。
所領については当然のことながら没収される。川本や江の川南方の地を没収、その代わりとして江の川北方の旧領や、毛利氏が支配していた元福屋氏所領の伊田(井田)・波積を新給地としてあてがわれる。
【写真左】本丸跡 二の丸もかなりの大きさを持つが、本丸はさらに広い
その後、息子である長矩が家督を継ぎ、天正11年(1583)から同13年にかけて、川本町三原に丸山城を築いたとある。 父長雄が蟄居されてから24年後のことである。
なお、この間に残る記録としては、天正7年(1579)、長旌・元枝両名が石見国武明八幡宮を修復し、翌年同宮に田地を寄進、天正10年には、元枝・元扶名によって、石見国大家大宮神主職を大宮公旧に安堵とある。
この後、天正12年の武明八幡宮の寄進では、元枝・元扶名で、翌13年、すなわち丸山城が築城完成した年には、8月10日付で、小笠原長旌が日御碕社造営に対し、自領の棟別段銭の進上を国司元武に伝えたとある。
ところで、長矩と長旌という名前が混在しているが、おそらく同一人物と思われる。また、元枝や元扶については兄弟という説が有力だが、はっきりしない。また武明八幡宮は丸山城下北東部にある。
丸山城を築いた頃に、小笠原氏はこのほか周辺に4,5カ所の出城を設け、小規模な領域ながら石見銀山南西部の扶植を図っていく。
【写真左】本丸に立つ石碑
小笠原氏15代長旗公の末裔・松本宗太郎という人のもので、昭和46年4月吉日となっている。
しかし、それから10年後、毛利輝元によって出雲神西に移封される。どういう理由なのか不明だが、輝元がこうした処置を行った事例は、出雲・石見地域でもかなりの数に上る。
特に元・尼子方だった一族に対してその傾向が強く、以前取り上げた三刀屋氏などは改易されている。またそれと期を合わせるように、文禄4年(1595)に輝元が出雲・石見・隠岐での大掛かりな検地を実施していることから、できるだけ毛利方の息のかかった武将に、本領安堵させたかったのかもしれない。
【写真左】大就寺
国道9号線の神西湖付近に設置されている。
なお、小笠原氏が出雲神西に移封されたとあるが、「神西村史」によると、
「1545年ごろ(天文14年)、長雄が毛利元就の命により、湖陵町三部に「横尾山日出城」を築き、その鬼門に当たる大島の地に祈願寺として建てた」
とする「大就寺(左写真参照)」がある。
となると、もともとこの地域は長雄がすでに領有し、しかも元就がこの地域まで押さえていたということになる。このころ、尼子晴久は杵築大社や日御碕社などに対し、支配権を有していたが、前段の記録から考えると、そのすぐ南方である湖陵地域までは、完全に支配下に治めていなかったことになる。
しかし、軍勢図的に見ても、また当時の毛利・尼子合戦史から考えても、同史の「天文14年」という時期にはいささか疑問が残る。
【写真左】丸山城本丸付近その1
【写真左】同上石垣
【写真左】大手口付近
【写真左】丸山城森林公園の看板
支柱が腐食して看板が地面に落ちている。
●所在地 島根県川本町田窪古市
●登城日 2008年3月12日
●築城主 小笠原長旌(ながはた)
●標高 480m
●遺構 郭、虎口、郭、石塁、カマド、礎石建物
●遺物 銭貨(洪武通宝)、青磁(15世紀)、白磁、備前焼、美濃陶器、兜等
●備考 円山城
◆解説(参考文献「島根県遺跡データーベース」「サイト:川本町」その他)
石見小笠原氏の出自は、弘安の役(1281)により阿波小笠原氏の長経の孫・長親が、その功によって石見国邑智郡村之郷を賜ったのが初期とされている。具体的にこの地に入ったのは、その14年後の永仁3年(1295)頃とされている。
【写真左】丸山城遠望
入部した地である邑智郡村之郷は、現在の美郷町内にあり、そこに山南城(島根県邑智郡美郷町村之郷)を築く。長親の子・長胤の代になる南北朝期には、南山城より北方2キロに宮内城も築いているが、おそらく南山城の支城の一つであったと思われる。
南北朝期には、長胤は武家方として宮方(後醍醐派)と戦い、その功によって、現在の川本町内にある温湯城と、赤城(赤城山城)を賜る。本城としたのは温湯城で、以後小笠原氏の拠点となる。 その後しばらくは他の一族と同様、同氏一族の惣領家と庶子家が分裂や抗争を繰り返してきたらしく、詳細は不明である。
【写真左】二の丸と本丸の間にある井戸跡
戦国期になって同氏の名前が度々出てくるのは、長雄である。この地域ではげしい攻防が繰り返された目的は、何といっても「石見銀山」の支配である。
弘治元年(1555)毛利元就が陶晴賢を降し、大内氏支配下の石見銀山を同3年に占領する。一方、尼子晴久は、佐田・高櫓城(島根県出雲市佐田町反辺慶正)の本城経光を石見に向けさせ、奪取を試みる。このとき長雄は尼子方に与して、銀山の守城・山吹城(島根県大田市大森銀山)を攻略する。
しかし、翌永禄2年(1559)5月20日、毛利元就は長雄の拠る温湯城を攻撃。さらに7月に本城経光を城番とする山吹城も攻撃。8月25日、温湯城に立てこもった小笠原長雄は、尼子の支援を受ける間もなく毛利元就に降伏する。
【写真左】二の丸入口付近
おそらく虎口と思われる。
本来なら降伏した段階で、城主は自刃をし、その代償として家臣の命を救うという処置が多いが、長雄は元就の意向で死を免れ、隠居する。
所領については当然のことながら没収される。川本や江の川南方の地を没収、その代わりとして江の川北方の旧領や、毛利氏が支配していた元福屋氏所領の伊田(井田)・波積を新給地としてあてがわれる。
【写真左】本丸跡 二の丸もかなりの大きさを持つが、本丸はさらに広い
その後、息子である長矩が家督を継ぎ、天正11年(1583)から同13年にかけて、川本町三原に丸山城を築いたとある。 父長雄が蟄居されてから24年後のことである。
なお、この間に残る記録としては、天正7年(1579)、長旌・元枝両名が石見国武明八幡宮を修復し、翌年同宮に田地を寄進、天正10年には、元枝・元扶名によって、石見国大家大宮神主職を大宮公旧に安堵とある。
この後、天正12年の武明八幡宮の寄進では、元枝・元扶名で、翌13年、すなわち丸山城が築城完成した年には、8月10日付で、小笠原長旌が日御碕社造営に対し、自領の棟別段銭の進上を国司元武に伝えたとある。
ところで、長矩と長旌という名前が混在しているが、おそらく同一人物と思われる。また、元枝や元扶については兄弟という説が有力だが、はっきりしない。また武明八幡宮は丸山城下北東部にある。
丸山城を築いた頃に、小笠原氏はこのほか周辺に4,5カ所の出城を設け、小規模な領域ながら石見銀山南西部の扶植を図っていく。
【写真左】本丸に立つ石碑
小笠原氏15代長旗公の末裔・松本宗太郎という人のもので、昭和46年4月吉日となっている。
しかし、それから10年後、毛利輝元によって出雲神西に移封される。どういう理由なのか不明だが、輝元がこうした処置を行った事例は、出雲・石見地域でもかなりの数に上る。
特に元・尼子方だった一族に対してその傾向が強く、以前取り上げた三刀屋氏などは改易されている。またそれと期を合わせるように、文禄4年(1595)に輝元が出雲・石見・隠岐での大掛かりな検地を実施していることから、できるだけ毛利方の息のかかった武将に、本領安堵させたかったのかもしれない。
【写真左】大就寺
国道9号線の神西湖付近に設置されている。
なお、小笠原氏が出雲神西に移封されたとあるが、「神西村史」によると、
「1545年ごろ(天文14年)、長雄が毛利元就の命により、湖陵町三部に「横尾山日出城」を築き、その鬼門に当たる大島の地に祈願寺として建てた」
とする「大就寺(左写真参照)」がある。
となると、もともとこの地域は長雄がすでに領有し、しかも元就がこの地域まで押さえていたということになる。このころ、尼子晴久は杵築大社や日御碕社などに対し、支配権を有していたが、前段の記録から考えると、そのすぐ南方である湖陵地域までは、完全に支配下に治めていなかったことになる。
しかし、軍勢図的に見ても、また当時の毛利・尼子合戦史から考えても、同史の「天文14年」という時期にはいささか疑問が残る。
【写真左】丸山城本丸付近その1
【写真左】同上石垣
【写真左】大手口付近
【写真左】丸山城森林公園の看板
支柱が腐食して看板が地面に落ちている。
0 件のコメント:
コメントを投稿