2018年7月24日火曜日

長門・由利城(山口県美祢市大嶺町東分字中村)

長門・由利城(ながと・ゆりじょう)

●所在地 山口県美祢市大嶺町東分字中村
●別名 茶臼山城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 由利氏
●高さ H:149m(比高60m)
●形態 丘城
●遺構 郭・土塁
●登城日 2016年2月11日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、『益田市史』等)
 JR美祢線の美祢駅より西方へ凡そ400m程むかった位置に北から伸びた緩やかな舌陵丘陵がある。この先端部を中心としたエリアに鎌倉時代の後半に築城された由利城がある。別名茶臼山城ともいわれている。
【写真左】由利城遠望
 東南方向から遠望したもの。由利城の南側にはJR美祢線が走り、由利城の北側尾根筋には美祢市立病院(右の白い建物)や、団地が建ち並んでいる。



由利氏

 築城者といわれるのが由利氏である。由利氏はもともと奥州出羽国由利郡(現在の秋田県由利本荘市周辺)を本貫地とし、のちに「由利十二頭」といわれた豪族であったという。

 ただ、由利氏が当地を治めていたのは頼朝による奥州合戦後で、その後和田合戦で大井氏が地頭として入部していることから、由利氏はこのころその庶流が長門に下向したのではないかと考えられる。
【写真左】南東麓側から遠望
 中央に見える高い箇所が主郭と思われる。
南東麓には現在団地などが点在しているが、近世のころは緩やかな勾配を保った田畑が広がっていたものと思われる。



 長門における由利氏の初見の記録としては、元弘の役において、厚東氏の配下として南朝方に加わっていることが見える。このとき由利氏以外には、伊佐・河越・厚の大領地頭らである。

 豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも述べたが、南北朝期の元弘3年(1333)3月、長門探題の北条時直は、倒幕方の吉見・高津両石見軍の南進攻勢を知り、長門の厚東武美及び、豊田胤藤(種藤)の二将をして迎撃させたが、同月29日大嶺の戦いに敗れた。
 このため、大峰(嶺)の地頭由利氏、伊佐の地頭伊佐氏ら一族は率先して帰順、厚東武美も霜降城(山口県宇部市厚東末信)を落とされ、ついに恭順の意を表した。
【写真左】散逸した五輪塔等
 登城口付近にあったもので、下段で紹介している由利氏関連のものかもしれない。
 






由利氏関連の解明

 由利氏に関する遺跡として挙げられるのは、写真でも示した五輪塔関連のものだが、この他、由利城から北へ凡そ1キロほど向かった下領八幡宮境内の仏堂の傍らにある宝篋印塔や、基壇等の数多い墓石があり、さらに北方に向かった上領八幡宮の付近は「土井の前」という名が残り、これらが由利氏の屋敷跡といわれている。
【写真左】南斜面
 この斜面だけは綺麗に伐採され、見通しがよくなっている。
 登城道は右側に設置されているが、狭い道なので、歩いて登る。
 自然地形の斜面で、手が加えられた形跡はない。


 ところで、これらの場所については管理人は訪れていないが、『日本城郭体系』にもあるように、同氏が鎌倉末期から南北朝時代、さらには室町期に至って大内氏の支配下にあって当地の豪族として名を残していながら、同氏に関わる具体的な調査研究による解明が未だ手つかず状態であるのは残念なことである。
【写真左】忠魂碑が建つ主郭付近
 下段でも紹介しているように、広々とした削平地になっている。

 おそらく中世にはこの辺りが主郭をはじめとする郭段や犬走りなどがあったのかもしれない。


 『日本城郭体系』では、
「……大正末年から昭和の初めにかけて頂上に忠魂碑を建てる工事が進められ、頂上の旧平地は拡張され旧時のままではないが、中世山城であったことは確かである。
 と記されている。

 ただ、左側の名簿を見ると先の大戦(第二次世界大戦)時に亡くなった方が多いので、中央の石碑が昭和初期に建立されたものかもしれない。
【写真左】忠魂碑から南を望む。
 奥行は50m以上あるかもしれない。
【写真左】先端部から麓を俯瞰する。
【写真左】先端部の東側
 道は東側にあるが、全体がなだらかなスロープになっているので、どこからでも登れる。
 このあと縁周辺に向かう。
【写真左】西側斜面
 整備されていない西側斜面だが、削平地する際盛土されたため切崖状の構造となったのかもしれない。
【写真左】土塁
 当城の中で唯一遺構と思われる土塁。

 記憶がはっきりしないが、西側の最深部(北側)だったと思われる。
 高さ0.5~1.0m前後の規模。
【写真左】五輪塔群
 下山途中に見つけた複数の五輪塔。かなりバラバラになっていたのをこの箇所に集めた感じだ。

 民家奥の片隅にあり、手前には祠らしきものがあったので、地元の人が普段から供養しているようだ。
【写真左】団地側から遠望
 再び南側におりて遠望したもの。
【写真左】正隆寺
 南麓には正隆寺という浄土真宗派寺院がある。

 当院は江戸時代に伊能忠敬ら測量隊が日本地図作成のため宿泊したところで、境内奥にはその資料館があるという。

 残念ながら当日は探訪していないが、珍しい資料も残されているという。
 因みに、忠敬らが当院に宿泊したのは、文化8年(1811)1月18日と記録されている。当時この地区は大嶺村と呼ばれていた。

2018年7月20日金曜日

長門・飯塚城(山口県下関市豊田町大字手洗)

長門・飯塚城(ながと・いいつかじょう)

●所在地 山口県下関市豊田町大字手洗
●高さ 83m(比高50m)
●築城期 不明
●築城者 飯塚氏か
●城主 飯塚氏
●遺構 郭
●登城日 2016年2月11日

◆解説
 前稿の長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)から木屋川と並行して走る県道34号線を凡そ4キロほど下ると、道路の右側(北側)に独立した小丘が見える。
 探訪したこの日(2016年2月11日)、頂部から南斜面にかけて伐採された景色が目に入った。長門・飯塚城(以下「飯塚城」とする。)である。
 標高80m余りで、南麓部には集落があるが、ほぼ田圃に囲まれた状況で、山城としてはかなり小規模な部類に入る。
【写真左】飯塚城遠望
 東から南麓にかけて走る国道34号線から見たもの。右奥に見える山は、長門国の霊山といわれた華山(げざん)。





 飯塚城については、しばしば参考にしている『日本城郭体系 第14巻』にも記載されておらず、詳細は不明である。ただ、写真にもあるように当地名を名乗る飯塚氏が開祖とあり、築城者も同氏と思われる。
【写真左】北側から登城開始
 周辺部には案内標識のようなものは一切ないため、伐採作業にともなって設置された道路の入口から向かった。
 場所は北端部に当たる。



 また、所在する豊田町の大字手洗(三野和手洗・三野和飯塚)は、南隣の菊川町に入る入口付近でもあることから、飯塚氏は豊田氏一族と関わっていたことされ、一説には同氏は豊田氏の家臣であったとも伝えられている。

 また、長生寺城の稿でも触れているが、菊川町に向かう街道、即ち小月街道には、関所を設け城戸とした、とあるので、当城(飯塚城)はそれ(城戸)とセットになっていたのかもしれない。
【写真左】頂部(主郭)が見えてきた。
 比高50m前後のため、簡単に登れると思っていたが、前日降った雨のため、泥濘に足を取られる。





遺構の状況

 写真にもあるように、最近かなりの範囲にわたって伐採作業が行われ、この作業のための重機などが移動できるように作業道が設置された。このため、遺構は殆ど消滅している。唯一石碑が祀られている最高所の主郭付近に郭の面影が残る。
【写真左】北東部
 この日探訪したときは、主に北東部の斜面が伐採され、斜面の要所に作業用の仮設道路が設置されていた。
 写真で見る限り、この辺りの傾斜は険しくなっている。

 奥に見えるのは木屋川で、南の菊川町へ流下している。
【写真左】東南部から振り返る。
 北側から登り、東斜面伝いに南に向かっていった。
 途中で振り返ってみたものだが、写真中央部には郭段のようなものがあったように思える。
 ただ、伐採のため大胆に土砂が移動しているため判断できない。
【写真左】最高所に建立された石碑
 上段部には横書きの文字が筆耕されているようだが、判読不能。

 中央に縦書きで次のように記されている。
飯塚開祖 飯塚三郎之碑
 この飯塚というは、先述したように地元手洗にある三野和・飯塚の地名から名乗ったものと思われる。
【写真左】横から見たもの
【写真左】祠
 石碑の隣には祠が祀られている。
【写真左】祠と燈籠
 祠の南側には燈籠や石柱も建立されている。
この石柱には文字が筆耕されているが、大分劣化していて判読が困難。

 ただ、「…陸軍曹長 竹杉…」という文字があり、先の大戦もしくは日清日露戦争時の忠魂碑かもしれない。
【写真左】三角点
 100mにも満たない山だが三角点が設置されている。
 左奥には電波塔らしき設備があるが、稼働してないような状況に見える。
【写真左】北から西の方へ向かう。
 伐採されていない西側に少し向かう。当時はこの方向が大手だったのかもしれない。
【写真左】南側の切崖
 かなりの急傾斜となっている。
【写真左】主郭付近から北方に長生寺城を遠望する。
 下山途中に見えたもので、豊田氏居城の長生寺城が確認できる。

 この位置から双方で狼煙などをあげていたのかもしれない。
【写真左】北東麓を見る。
 正面に見る田圃や、奥の丘陵地が小字名の三野和飯塚という地区になる。

 飯塚城は、東麓に本流木屋川が流れ、北側にはその支流・本浴川(数軒建っている手前の川)、南麓には同じく支流・江良川が流れているので、三本の川に囲まれるように位置している。
 ことから、これらが三本の川が濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】最初に登ってきた段
 重機で改変されているが、当時の二の丸的機能を有していたのかもしれない。

2018年7月17日火曜日

長生寺城(山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園)

長生寺城(ちょうしょうじじょう)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷長正司公園
●別名 長正寺城
●高さ H:90m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 豊田種藤
●城主 豊田氏
●遺構 郭・土塁・犬走り等
●備考 神西氏追悼墓碑
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、HP「城郭放浪記」等)
 前稿向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも触れたように、豊田氏が大内氏に対する防衛上の観点から、それまで拠った同町一ノ瀬の一ノ瀬城から豊田盆地の北部側に築いたのが長生寺城である。
 なお、当城は別名、長正寺城とも記録されている。
【写真左】長生寺城遠望・その1
 西側から見たもので、西麓には旧肥中街道に沿った国道435号線が走る。
【写真左】長生寺城遠望・その2
 前稿で紹介した東八幡宮から遠望したもので、北西方向へ直線距離でおよそ900m程の位置に所在する。
 東から南麓にかけて木屋川が流れ、西麓には木屋川の支流・山田川が濠の役目をしていたものと思われる。




大内氏による厚東・豊田両氏攻略

 南北朝期、13代種藤のとき、大内氏は弘世が勢力を広げてきた。この間の流れとしては、陶氏居館(山口県周南市大字下上字武井)の稿で述べているように、弘世は当初北朝方即ち尊氏派に属していたが、観応の擾乱が勃発すると、足利直冬に属し、さらには南朝方に転じた。
 この間、弘世は霜降城(山口県宇部市厚東末信)の厚東氏を攻略、次の矛先を豊田氏に向けた。延文3年(1358)のことである。
【写真左】長生寺城に向かう。
 写真にみえる道路は国道436号線で、奥の道路脇には「長正司公園 大藤棚」と書かれた看板が見える路地から向かう。


 
 
  この後、大内氏が豊田氏を攻め滅ぼしたという記録が見えるのは、『防長風土注進案』という史料に「…応永年中大内家の為に亡ぼし由古来より申伝候…」とあるのみで、これ以外に詳しい記録は残っていない。

 ただ、向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)の稿で、13代種藤の庶子種治が御幣司に居を構え(東殿)、嫡子種秀が西殿を居館として14代を名乗り、その子・種世が15代を継嗣していることが記録されている。

 そして戦国期に至り、20代房種のとき大内義長(大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)から追放され、弘治2年(1556)4月自決するまで続いている。このことから、おそらく、最後の当主であった房種は、このとき大内氏から離れ、毛利氏に転じようとしていたのだろう。
【写真左】東斜面から上を見上げる。
 この日登城したとき、公園のエリア付近はご覧のように下草が刈られていた。

 ただ長生寺城を示すような案内板はなく、ここからは凡その見当をつけて主郭を目指した。



長生寺城の支城

 ところで、種藤が新たに長生寺城を居城とした際、種藤はこの他に数か所の支城を築いている。配置した場所は何れも当時の街道筋で、大内氏が進軍する可能性のあるルートを事前に予想して築いたものである。

 当時豊田地域で交差していた主な街道は、深川街道・道滝(滝部)街道・山口街道・小月街道・厚狭街道があった。そして、深川街道には大河内の郷に大河内城を、滝部街道には、八道(やじ)と鷹ノ子の境に鷹ノ子城を、萩原から美禰郡口の通路字城四郎峠にも築き、大手となる小月街道の菊川町方面入口付近には関所を設け、城戸とした。

 厚狭街道には稲光に稲光城、また前稿で旧城であった一ノ瀬城を廃止と記しているが、おそらくこの段階では支城として未だ使われていたものと思われる。
【写真左】郭か
 下草が刈られていた一番上部の位置で、おそらく郭として機能していたものと思われる。

 ここから先は整備されていないが、可能な限り上を目指す。
【写真左】帯郭か
 西側にあるもので、左側の一段下がった郭は奥の方(北側)まで繋がっている。
 このまま先に向かう。
【写真左】北の谷へ
 長正寺城は北から伸びてきた尾根の先端部で構成されているが、城域そのものは途中から西に向きを変えた尾根の丘陵先端部に当たる。

 このため、この写真の位置は、西に変えた尾根の北側にある谷に下っていく部分に当たる。
【写真左】上の段
 帯郭の段から上にある段に上がると、前方に低い土塁が奥まで繋がっている。
【写真左】奥に伸びる郭
 上の段から奥へは東方向に伸びている。削平は丁寧な仕上がりだが、その先からは雑木が多いため向かっていない。
【写真左】途中から振り返る。
 北側には最初に見た犬走りがここまで繋がっている。

 この先には向かっていないが、これだけ長いフラットな削平地があることを考えると、居館らしきものもあったのかもしれない。
【写真左】先端部から豊田の街並みを俯瞰する。
 南方を望んだもので、木屋川がこの方向に下り、菊川町に繋がる。中央に見える山は豊ヶ岳(382m)、残念ながら山城ではない。



神西三基の墓

 ところで、長正寺城の登り口付近には「神西三基の墓」が祀られている。神西とは、管理人の地元出雲の神西城(島根県出雲市東神西)の城主であった神西氏のことである。
【写真左】神西三基の墓
右から神西三郎左衛門国通(元通)、中央が小野高通、左が神西景通の墓で、いずれも供養塔と思われる。



 神西氏については、当該城の稿で既に紹介しているが、現地には次のように記されている。

 現地の説明板より

“神西三基の墓

神西三郎左衛門国通(元通)の墓


   戦国時代末期、神西城(出雲市東神西町)第12代城主であった神西三郎左衛門国通(元通)は、尼子氏の重臣として仇敵毛利氏と幾度となく激戦を交わしましたが、元禄9年(1566)、尼子氏の主城富田城が終えんすると一時毛利氏の軍門にくだりました。
 しかし、尼子氏再興に情熱を燃やす国通は、山中鹿之助らとはかり新宮党の尼子誠久の遺児勝久を擁し、わずか3千の兵力で上月城にたてこもりました。攻める毛利方は3万の大軍で城を包囲しました。
 勝算のない籠城戦を強いられた国通らは、勇猛果敢に戦いを挑みましたが、天正6年(1578)7月3日遂に上月城は終えんしました。 


 この時、国通は自らの命と引き換えに城兵の助命を嘆願し、並みいる軍士の前で堂々とみずから命をたったということです。
 平成9年7月6日、終えんの地上月城跡に国通(元通)の追討碑が建立されました。
 碑文は、西尾理弘出雲市長によります。420余年もたち、無償の愛で2千名もの人命を救ったとしてみとめられました。 


神西国通の妻・貴子姫

 彼女は当時国通と共に上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)にあって、国通が自刃する際、夫のあとを追うつもりだったが、国通に生きのびて尼になるように勧められ、乳母と共に京都に逃れ、夫の供養のため読経の生活を送っていた。
【写真左】神西貴子(孝子)姫佛果之塔
 三基の隣には神西国通の妻孝子の仏果塔も建立されている。





 しかし、美人であったがために、織田信長の家臣・不破将監に見初められ、再婚を強要されたが、拒み続け最後は乳母と一緒に桂川の露と消えたという。その後、おさいという下女も二人のあとを追い、誓願寺の貞安上人によって三人の墓が建てられたという。

 因みに、孝子は尼子家臣であった枡形城主森脇市正の姉に当たる。枡形城というのは出雲・熊野城(島根県松江市八雲町熊野)から意宇川を4キロ下った同町森脇にあった山城である。
【写真左】枡形(山)城遠望
 所在地 島根県松江市八雲町森脇
 南側から見たもの。


小野高通の墓
 雲州 神門郡神西邑 十楽寺開基(手書き) 


 神西家の初代は、鎌倉の御家人小野高通だといわれています。彼は承久の乱(1221)後、新補地頭として神西の地にやってきました。以来12代国通まで350余年、神西家は神西城の城主としてこの地方を治めました。城主は代々三郎左衛門を名乗っています。 

神西12代 

 高通―元通―景通―時景―貞景―清通―惟通―為通―廣通―連通―久通―国通 

神西景通の墓 


上月城終えんの後、母と共に京都に逃れ、その後山口村(豊田町)で帰農したと伝えられます。
          文責 西村酉典(なかよし) 平成10年10月18日”
【写真左】神西城近影
 現在進められている山陰自動車道の延伸工事で、橋脚が神西城の直下(南側)まで敷設され、西に向かって伸びるようだが、城域ではトンネルもしくは、切土による法面の姿も散見されるかもしれない。
 写真:南側にある五輪塔から見た神西城
撮影日 2018年7月。


 以上が現地にあった説明板のおもな内容だが、これを読むと、最終的に貴子が亡くなったあと、嫡男・景通が当地(豊田町)に赴いたということだろう。おそらく彼(景通)をこの豊田町に導いた人物がいたのだろうが、詳しいことは分からない。

2018年7月9日月曜日

向山豊田氏館・西殿(山口県下関市豊田町大字殿敷)

向山豊田氏館・西殿
   (むかいやま とよたしやかた・にしどの)

●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷
●形態 居館
●高さ 標高50m
●築城期 鎌倉時代後期
●築城者 豊田種藤
●遺構 土壇等
●登城日 2016年2月10日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、日本城郭体系等)
 前稿に続いて豊田氏関連の史跡を紹介したい。向山豊田氏館・西殿(以下『西殿』とする)は、前稿の豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)が所在する一ノ瀬城から北の峠を越えて北西に約3キロほど向かい、木屋川の支流・殿敷川を1キロほど遡った丘陵地の麓に所在する。
【写真左】豊田氏西殿付近
 周辺部は現在宅地が点在し、館跡付近は更地になっているが、雑草が繁茂し部分的に湿地帯となっているため、これ以上奥には入っていないが、この奥のあたりにも遺構が残っている(後段参照)。


現地の説明板より

“向山(むかえやま)豊田氏館跡(西殿) 

(1) 豊田氏居住の経歴 
 豊田氏は応徳年代(1084~86)関白藤原道隆より出で、輔長(すけなが)が初代で2代輔平の時一ノ瀬に定住し豊田氏を称した。 

 鎌倉時代の花園天皇の頃(1308頃)、種藤(たねふじ)(後に13代となる)は、一ノ瀬の12代種長・種本父子と別れて、この殿敷を知行地として分立し、房種まで8代、約250年間居を構えたのがこの地である。 
 種藤の庶子種治は御幣司(ごへいじ)に居を構え東殿(ひがしどの)と称し、嫡子種秀は14代西殿と称した。 

 種秀の後、種世・種家兄弟のうち、種家は伊予の二神島に移り二神氏を称し、種世が豊田氏15代となった。 
 後、代々継いで20代房種の時、大内義長から追放され、翌弘治2年(1556)4月、自決して豊田氏は滅亡した。 

(2) 地名 
 豊田氏の住居跡であるから、古くは「豊田殿屋敷」といわれ、略されて「殿屋敷」となり、更に略されて「殿敷」となって村名にもなった。 
【左図】案内図
 説明板に付図されていた配置図だが、下方が北を示す配置になっていたのを管理人によって上方を北に示す図に変更している。
 また、文字などがかすれていたため、管理人によって加筆修正を加えている。

 それぞれの箇所については、下の説明文を参照していただきたい。








区域

 東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 
 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地。

(1)水車橋
(2)大堰
(3)土堀(昭和30年代まで一部残っていた)
(4)堀の段
(5)諏訪神社跡(現在西八幡宮に移転して現存)
(6)庭跡 (右)境内庭で池の中島に弁天が真鶴れていた
(ママ)と言われている)
(7)毱の庭(西殿と東殿が蹴毱を楽しんだ所と言われている)
(8)大所(東殿の館跡)
(9)祇園社跡(一ノ瀬居館より移転、現在楢原に現存)

平成5年(1993)4月 ◇日
              下関市教育委員会
               寄贈者
                                  広島市佐伯区  二神種弘氏“

【写真左】道路側から遠望する。
 現地は殆ど手つかず状態で雑種地のような光景になっている。

 奥に見える林の中には「毱の庭」や、さらに東方に「東殿(大所)」があった。



 西殿の範囲は掲示した案内図全体を指すものだが、写真で示した箇所は(4)の堀の段付近に当たる。

 説明板には、「東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地」、とあるので、南西から北東方向に長径900m、短径70~80mと細長く、その面積は凡そ6万㎡となる。
 ところで、西(西端)は外堀(安白川)沿線までとあるが、この安白川は現在の殿敷川で、木屋川の北に大堰を設け、そこから引きこんでいる。

豊田氏菩提所知行寺跡

 西殿より北西方向に400m程向かうと、木屋川本流に達するが、この位置の南岸には豊田氏の菩提寺・知行寺があったとされる。
【写真左】豊田氏菩提所知行寺跡
 現地は大幅に改変され遺構は全く残っていない。
 道路脇にご覧の石碑と説明板が設置されているのみである。


現地の説明板より

“豊田氏菩提所知行寺跡

 豊田氏の13代長門守種藤は南北朝時代の中頃(1350年代頃)、一ノ瀬から殿敷の向山に移った。
 それと共にこの地点に豊田氏の菩提寺知行寺を建立した。この前の路面の下はその寺院のあった所で、種藤以降、弘治2年(1556)の五郎房種までの、各代々の墓石があった。
    下関市教育委員会”
【写真左】脇に残る墓石の一部
 宝篋印塔の上部になる隅飾りと相輪部だけが残っている。
【写真左】周辺部
 前を走っている道路は県道34号線で、下関の市街地に繋がり、ここから450m程向かうと、右に県道435号線が接続し、豊北町に向かう。
 また、旧街道といわれのが下段の肥中街道(下段参照)である。


肥中街道

 肥中(ひじゅう)街道というのは、現在の山口市役所南の道場門前を起点とし、西へ美祢市~豊田町を経由し、豊北町(下関市)の響灘(日本海)に面した肥中港を終点としていた旧街道である。
【写真左】肥中港
 所在地 山口県下関市豊北町大字神田
 奥行500m、幅100m余りの狭い湾を利用して造られた港で、現在港には数十の漁船が停泊している。
 周辺部はリアス式海岸で、南には特牛(こっとい)港や、角島大橋などがある。
 写真は西側から見たもの。
撮影日 2018年7月16日


 往時山口の大内氏が中国・朝鮮との貿易を盛んに行った際の陸路の一つで、この街道を開設したのは、大内盛見(1377~1431)(益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)といわれている。
 総延長凡そ60キロほどで、豊田は南方の小月(下関市)方面との分岐点になる。
【写真左】「肥中街道」と書かれた看板
 知行寺跡の反対側(北側)には木屋川が流れているが、この川を横断する、即ち渡河するルートが肥中街道の一つである。
 ここから降りて川岸まで向かう。
【写真左】川岸に立つ。
 この辺りは岩塊が露出し、川幅も狭くなっている。写真にもあるように手前には大きな岩があり、川向いにも石垣のようなものが見える。

 大内氏時代には橋が架けられていたのかもしれない。
なお、対岸に渡ると楢原地区に至る。


東八幡宮と西八幡宮

 ところで冒頭で紹介した西殿の配置図には描かれていないが、薄緑で着色した南西端には東八幡宮が祀られている。
 縁起などは不明だが、西殿のエリアに入っていると思われるので、豊田氏と何らかの関わりのあった社だろう。
【写真左】東八幡宮・その1
  傾斜のある階段を登っていくと、ご覧の拝殿が建っている。
【写真左】東八幡宮・その2
 本殿












 これと相対する神社が、豊田氏時代の諏訪神社を移転した西八幡神社である。丁度この東八幡宮の参道を登りきったところから北西方向に目を転ずると、赤い屋根で覆われた西八幡神社が遠望できる(下段参照)。
【写真左】東八幡宮から西八幡宮を望む。
 東八幡宮の鳥居下参道から奥にほぼ直線方向に見ると、西八幡宮が鎮座しているのが確認できる。

 こうしたことから、東西両八幡宮は殿敷という豊田氏の本拠地を両側から挟むような配置となっている。
【写真左】東八幡宮から長生寺城を遠望する。
 長生寺城は次稿で紹介する予定だが、種藤の代にそれまでの居城であった一ノ瀬城を廃止し、大内氏に対する防衛拠点として木屋川の西岸に長生寺(長正司)城を築いた。