向山豊田氏館・西殿
(むかいやま とよたしやかた・にしどの)
●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷
●形態 居館
●高さ 標高50m
●築城期 鎌倉時代後期
●築城者 豊田種藤
●遺構 土壇等
●登城日 2016年2月10日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、日本城郭体系等)
前稿に続いて豊田氏関連の史跡を紹介したい。向山豊田氏館・西殿(以下『西殿』とする)は、前稿の豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)が所在する一ノ瀬城から北の峠を越えて北西に約3キロほど向かい、木屋川の支流・殿敷川を1キロほど遡った丘陵地の麓に所在する。
【写真左】豊田氏西殿付近
周辺部は現在宅地が点在し、館跡付近は更地になっているが、雑草が繁茂し部分的に湿地帯となっているため、これ以上奥には入っていないが、この奥のあたりにも遺構が残っている(後段参照)。
現地の説明板より
“向山(むかえやま)豊田氏館跡(西殿)
(1) 豊田氏居住の経歴
豊田氏は応徳年代(1084~86)関白藤原道隆より出で、輔長(すけなが)が初代で2代輔平の時一ノ瀬に定住し豊田氏を称した。
鎌倉時代の花園天皇の頃(1308頃)、種藤(たねふじ)(後に13代となる)は、一ノ瀬の12代種長・種本父子と別れて、この殿敷を知行地として分立し、房種まで8代、約250年間居を構えたのがこの地である。
種藤の庶子種治は御幣司(ごへいじ)に居を構え東殿(ひがしどの)と称し、嫡子種秀は14代西殿と称した。
種秀の後、種世・種家兄弟のうち、種家は伊予の二神島に移り二神氏を称し、種世が豊田氏15代となった。
後、代々継いで20代房種の時、大内義長から追放され、翌弘治2年(1556)4月、自決して豊田氏は滅亡した。
(2) 地名
豊田氏の住居跡であるから、古くは「豊田殿屋敷」といわれ、略されて「殿屋敷」となり、更に略されて「殿敷」となって村名にもなった。
【左図】案内図
説明板に付図されていた配置図だが、下方が北を示す配置になっていたのを管理人によって上方を北に示す図に変更している。
また、文字などがかすれていたため、管理人によって加筆修正を加えている。
それぞれの箇所については、下の説明文を参照していただきたい。
区域
東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。
(むかいやま とよたしやかた・にしどの)
●所在地 山口県下関市豊田町大字殿敷
●形態 居館
●高さ 標高50m
●築城期 鎌倉時代後期
●築城者 豊田種藤
●遺構 土壇等
●登城日 2016年2月10日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、日本城郭体系等)
前稿に続いて豊田氏関連の史跡を紹介したい。向山豊田氏館・西殿(以下『西殿』とする)は、前稿の豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)が所在する一ノ瀬城から北の峠を越えて北西に約3キロほど向かい、木屋川の支流・殿敷川を1キロほど遡った丘陵地の麓に所在する。
【写真左】豊田氏西殿付近
周辺部は現在宅地が点在し、館跡付近は更地になっているが、雑草が繁茂し部分的に湿地帯となっているため、これ以上奥には入っていないが、この奥のあたりにも遺構が残っている(後段参照)。
現地の説明板より
“向山(むかえやま)豊田氏館跡(西殿)
(1) 豊田氏居住の経歴
豊田氏は応徳年代(1084~86)関白藤原道隆より出で、輔長(すけなが)が初代で2代輔平の時一ノ瀬に定住し豊田氏を称した。
鎌倉時代の花園天皇の頃(1308頃)、種藤(たねふじ)(後に13代となる)は、一ノ瀬の12代種長・種本父子と別れて、この殿敷を知行地として分立し、房種まで8代、約250年間居を構えたのがこの地である。
種藤の庶子種治は御幣司(ごへいじ)に居を構え東殿(ひがしどの)と称し、嫡子種秀は14代西殿と称した。
種秀の後、種世・種家兄弟のうち、種家は伊予の二神島に移り二神氏を称し、種世が豊田氏15代となった。
後、代々継いで20代房種の時、大内義長から追放され、翌弘治2年(1556)4月、自決して豊田氏は滅亡した。
(2) 地名
豊田氏の住居跡であるから、古くは「豊田殿屋敷」といわれ、略されて「殿屋敷」となり、更に略されて「殿敷」となって村名にもなった。
説明板に付図されていた配置図だが、下方が北を示す配置になっていたのを管理人によって上方を北に示す図に変更している。
また、文字などがかすれていたため、管理人によって加筆修正を加えている。
それぞれの箇所については、下の説明文を参照していただきたい。
区域
東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。
南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地。
(1)水車橋
(2)大堰
(3)土堀(昭和30年代まで一部残っていた)
(4)堀の段
(5)諏訪神社跡(現在西八幡宮に移転して現存)
(6)庭跡 (右)境内庭で池の中島に弁天が真鶴れていた(ママ)と言われている)
(7)毱の庭(西殿と東殿が蹴毱を楽しんだ所と言われている)
(8)大所(東殿の館跡)
(9)祇園社跡(一ノ瀬居館より移転、現在楢原に現存)
平成5年(1993)4月 ◇日
下関市教育委員会
寄贈者
広島市佐伯区 二神種弘氏“
【写真左】道路側から遠望する。
現地は殆ど手つかず状態で雑種地のような光景になっている。
奥に見える林の中には「毱の庭」や、さらに東方に「東殿(大所)」があった。
西殿の範囲は掲示した案内図全体を指すものだが、写真で示した箇所は(4)の堀の段付近に当たる。
説明板には、「東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地」、とあるので、南西から北東方向に長径900m、短径70~80mと細長く、その面積は凡そ6万㎡となる。
ところで、西(西端)は外堀(安白川)沿線までとあるが、この安白川は現在の殿敷川で、木屋川の北に大堰を設け、そこから引きこんでいる。
豊田氏菩提所知行寺跡
西殿より北西方向に400m程向かうと、木屋川本流に達するが、この位置の南岸には豊田氏の菩提寺・知行寺があったとされる。
【写真左】豊田氏菩提所知行寺跡
現地は大幅に改変され遺構は全く残っていない。
道路脇にご覧の石碑と説明板が設置されているのみである。
現地の説明板より
“豊田氏菩提所知行寺跡
豊田氏の13代長門守種藤は南北朝時代の中頃(1350年代頃)、一ノ瀬から殿敷の向山に移った。
それと共にこの地点に豊田氏の菩提寺知行寺を建立した。この前の路面の下はその寺院のあった所で、種藤以降、弘治2年(1556)の五郎房種までの、各代々の墓石があった。
下関市教育委員会”
【写真左】脇に残る墓石の一部
宝篋印塔の上部になる隅飾りと相輪部だけが残っている。
【写真左】周辺部
前を走っている道路は県道34号線で、下関の市街地に繋がり、ここから450m程向かうと、右に県道435号線が接続し、豊北町に向かう。
また、旧街道といわれのが下段の肥中街道(下段参照)である。
肥中街道
肥中(ひじゅう)街道というのは、現在の山口市役所南の道場門前を起点とし、西へ美祢市~豊田町を経由し、豊北町(下関市)の響灘(日本海)に面した肥中港を終点としていた旧街道である。
【写真左】肥中港
所在地 山口県下関市豊北町大字神田
奥行500m、幅100m余りの狭い湾を利用して造られた港で、現在港には数十の漁船が停泊している。
周辺部はリアス式海岸で、南には特牛(こっとい)港や、角島大橋などがある。
写真は西側から見たもの。
撮影日 2018年7月16日
往時山口の大内氏が中国・朝鮮との貿易を盛んに行った際の陸路の一つで、この街道を開設したのは、大内盛見(1377~1431)(益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)といわれている。
総延長凡そ60キロほどで、豊田は南方の小月(下関市)方面との分岐点になる。
【写真左】「肥中街道」と書かれた看板
知行寺跡の反対側(北側)には木屋川が流れているが、この川を横断する、即ち渡河するルートが肥中街道の一つである。
ここから降りて川岸まで向かう。
【写真左】川岸に立つ。
この辺りは岩塊が露出し、川幅も狭くなっている。写真にもあるように手前には大きな岩があり、川向いにも石垣のようなものが見える。
大内氏時代には橋が架けられていたのかもしれない。
なお、対岸に渡ると楢原地区に至る。
東八幡宮と西八幡宮
ところで冒頭で紹介した西殿の配置図には描かれていないが、薄緑で着色した南西端には東八幡宮が祀られている。
縁起などは不明だが、西殿のエリアに入っていると思われるので、豊田氏と何らかの関わりのあった社だろう。
【写真左】東八幡宮・その1
傾斜のある階段を登っていくと、ご覧の拝殿が建っている。
【写真左】東八幡宮・その2
本殿
これと相対する神社が、豊田氏時代の諏訪神社を移転した西八幡神社である。丁度この東八幡宮の参道を登りきったところから北西方向に目を転ずると、赤い屋根で覆われた西八幡神社が遠望できる(下段参照)。
【写真左】東八幡宮から西八幡宮を望む。
東八幡宮の鳥居下参道から奥にほぼ直線方向に見ると、西八幡宮が鎮座しているのが確認できる。
こうしたことから、東西両八幡宮は殿敷という豊田氏の本拠地を両側から挟むような配置となっている。
【写真左】東八幡宮から長生寺城を遠望する。
長生寺城は次稿で紹介する予定だが、種藤の代にそれまでの居城であった一ノ瀬城を廃止し、大内氏に対する防衛拠点として木屋川の西岸に長生寺(長正司)城を築いた。
(1)水車橋
(2)大堰
(3)土堀(昭和30年代まで一部残っていた)
(4)堀の段
(5)諏訪神社跡(現在西八幡宮に移転して現存)
(6)庭跡 (右)境内庭で池の中島に弁天が真鶴れていた(ママ)と言われている)
(7)毱の庭(西殿と東殿が蹴毱を楽しんだ所と言われている)
(8)大所(東殿の館跡)
(9)祇園社跡(一ノ瀬居館より移転、現在楢原に現存)
平成5年(1993)4月 ◇日
下関市教育委員会
寄贈者
広島市佐伯区 二神種弘氏“
【写真左】道路側から遠望する。
現地は殆ど手つかず状態で雑種地のような光景になっている。
奥に見える林の中には「毱の庭」や、さらに東方に「東殿(大所)」があった。
西殿の範囲は掲示した案内図全体を指すものだが、写真で示した箇所は(4)の堀の段付近に当たる。
説明板には、「東側の山麓より、西は外堀(安白川)沿線まで。 南は水車橋より、御幣司入口まで。北は木屋川土堰までの丘陵地」、とあるので、南西から北東方向に長径900m、短径70~80mと細長く、その面積は凡そ6万㎡となる。
ところで、西(西端)は外堀(安白川)沿線までとあるが、この安白川は現在の殿敷川で、木屋川の北に大堰を設け、そこから引きこんでいる。
豊田氏菩提所知行寺跡
西殿より北西方向に400m程向かうと、木屋川本流に達するが、この位置の南岸には豊田氏の菩提寺・知行寺があったとされる。
【写真左】豊田氏菩提所知行寺跡
現地は大幅に改変され遺構は全く残っていない。
道路脇にご覧の石碑と説明板が設置されているのみである。
現地の説明板より
“豊田氏菩提所知行寺跡
豊田氏の13代長門守種藤は南北朝時代の中頃(1350年代頃)、一ノ瀬から殿敷の向山に移った。
それと共にこの地点に豊田氏の菩提寺知行寺を建立した。この前の路面の下はその寺院のあった所で、種藤以降、弘治2年(1556)の五郎房種までの、各代々の墓石があった。
下関市教育委員会”
【写真左】脇に残る墓石の一部
宝篋印塔の上部になる隅飾りと相輪部だけが残っている。
【写真左】周辺部
前を走っている道路は県道34号線で、下関の市街地に繋がり、ここから450m程向かうと、右に県道435号線が接続し、豊北町に向かう。
また、旧街道といわれのが下段の肥中街道(下段参照)である。
肥中街道
肥中(ひじゅう)街道というのは、現在の山口市役所南の道場門前を起点とし、西へ美祢市~豊田町を経由し、豊北町(下関市)の響灘(日本海)に面した肥中港を終点としていた旧街道である。
【写真左】肥中港
所在地 山口県下関市豊北町大字神田
奥行500m、幅100m余りの狭い湾を利用して造られた港で、現在港には数十の漁船が停泊している。
周辺部はリアス式海岸で、南には特牛(こっとい)港や、角島大橋などがある。
写真は西側から見たもの。
撮影日 2018年7月16日
往時山口の大内氏が中国・朝鮮との貿易を盛んに行った際の陸路の一つで、この街道を開設したのは、大内盛見(1377~1431)(益富城(福岡県嘉麻市中益)参照)といわれている。
総延長凡そ60キロほどで、豊田は南方の小月(下関市)方面との分岐点になる。
【写真左】「肥中街道」と書かれた看板
知行寺跡の反対側(北側)には木屋川が流れているが、この川を横断する、即ち渡河するルートが肥中街道の一つである。
ここから降りて川岸まで向かう。
【写真左】川岸に立つ。
この辺りは岩塊が露出し、川幅も狭くなっている。写真にもあるように手前には大きな岩があり、川向いにも石垣のようなものが見える。
大内氏時代には橋が架けられていたのかもしれない。
なお、対岸に渡ると楢原地区に至る。
東八幡宮と西八幡宮
ところで冒頭で紹介した西殿の配置図には描かれていないが、薄緑で着色した南西端には東八幡宮が祀られている。
縁起などは不明だが、西殿のエリアに入っていると思われるので、豊田氏と何らかの関わりのあった社だろう。
【写真左】東八幡宮・その1
傾斜のある階段を登っていくと、ご覧の拝殿が建っている。
【写真左】東八幡宮・その2
本殿
これと相対する神社が、豊田氏時代の諏訪神社を移転した西八幡神社である。丁度この東八幡宮の参道を登りきったところから北西方向に目を転ずると、赤い屋根で覆われた西八幡神社が遠望できる(下段参照)。
【写真左】東八幡宮から西八幡宮を望む。
東八幡宮の鳥居下参道から奥にほぼ直線方向に見ると、西八幡宮が鎮座しているのが確認できる。
こうしたことから、東西両八幡宮は殿敷という豊田氏の本拠地を両側から挟むような配置となっている。
【写真左】東八幡宮から長生寺城を遠望する。
長生寺城は次稿で紹介する予定だが、種藤の代にそれまでの居城であった一ノ瀬城を廃止し、大内氏に対する防衛拠点として木屋川の西岸に長生寺(長正司)城を築いた。
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