2018年7月24日火曜日

長門・由利城(山口県美祢市大嶺町東分字中村)

長門・由利城(ながと・ゆりじょう)

●所在地 山口県美祢市大嶺町東分字中村
●別名 茶臼山城
●築城期 鎌倉時代
●築城者 由利氏
●高さ H:149m(比高60m)
●形態 丘城
●遺構 郭・土塁
●登城日 2016年2月11日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第14巻』、『益田市史』等)
 JR美祢線の美祢駅より西方へ凡そ400m程むかった位置に北から伸びた緩やかな舌陵丘陵がある。この先端部を中心としたエリアに鎌倉時代の後半に築城された由利城がある。別名茶臼山城ともいわれている。
【写真左】由利城遠望
 東南方向から遠望したもの。由利城の南側にはJR美祢線が走り、由利城の北側尾根筋には美祢市立病院(右の白い建物)や、団地が建ち並んでいる。



由利氏

 築城者といわれるのが由利氏である。由利氏はもともと奥州出羽国由利郡(現在の秋田県由利本荘市周辺)を本貫地とし、のちに「由利十二頭」といわれた豪族であったという。

 ただ、由利氏が当地を治めていたのは頼朝による奥州合戦後で、その後和田合戦で大井氏が地頭として入部していることから、由利氏はこのころその庶流が長門に下向したのではないかと考えられる。
【写真左】南東麓側から遠望
 中央に見える高い箇所が主郭と思われる。
南東麓には現在団地などが点在しているが、近世のころは緩やかな勾配を保った田畑が広がっていたものと思われる。



 長門における由利氏の初見の記録としては、元弘の役において、厚東氏の配下として南朝方に加わっていることが見える。このとき由利氏以外には、伊佐・河越・厚の大領地頭らである。

 豊田氏館(山口県下関市豊田町大字殿敷)でも述べたが、南北朝期の元弘3年(1333)3月、長門探題の北条時直は、倒幕方の吉見・高津両石見軍の南進攻勢を知り、長門の厚東武美及び、豊田胤藤(種藤)の二将をして迎撃させたが、同月29日大嶺の戦いに敗れた。
 このため、大峰(嶺)の地頭由利氏、伊佐の地頭伊佐氏ら一族は率先して帰順、厚東武美も霜降城(山口県宇部市厚東末信)を落とされ、ついに恭順の意を表した。
【写真左】散逸した五輪塔等
 登城口付近にあったもので、下段で紹介している由利氏関連のものかもしれない。
 






由利氏関連の解明

 由利氏に関する遺跡として挙げられるのは、写真でも示した五輪塔関連のものだが、この他、由利城から北へ凡そ1キロほど向かった下領八幡宮境内の仏堂の傍らにある宝篋印塔や、基壇等の数多い墓石があり、さらに北方に向かった上領八幡宮の付近は「土井の前」という名が残り、これらが由利氏の屋敷跡といわれている。
【写真左】南斜面
 この斜面だけは綺麗に伐採され、見通しがよくなっている。
 登城道は右側に設置されているが、狭い道なので、歩いて登る。
 自然地形の斜面で、手が加えられた形跡はない。


 ところで、これらの場所については管理人は訪れていないが、『日本城郭体系』にもあるように、同氏が鎌倉末期から南北朝時代、さらには室町期に至って大内氏の支配下にあって当地の豪族として名を残していながら、同氏に関わる具体的な調査研究による解明が未だ手つかず状態であるのは残念なことである。
【写真左】忠魂碑が建つ主郭付近
 下段でも紹介しているように、広々とした削平地になっている。

 おそらく中世にはこの辺りが主郭をはじめとする郭段や犬走りなどがあったのかもしれない。


 『日本城郭体系』では、
「……大正末年から昭和の初めにかけて頂上に忠魂碑を建てる工事が進められ、頂上の旧平地は拡張され旧時のままではないが、中世山城であったことは確かである。
 と記されている。

 ただ、左側の名簿を見ると先の大戦(第二次世界大戦)時に亡くなった方が多いので、中央の石碑が昭和初期に建立されたものかもしれない。
【写真左】忠魂碑から南を望む。
 奥行は50m以上あるかもしれない。
【写真左】先端部から麓を俯瞰する。
【写真左】先端部の東側
 道は東側にあるが、全体がなだらかなスロープになっているので、どこからでも登れる。
 このあと縁周辺に向かう。
【写真左】西側斜面
 整備されていない西側斜面だが、削平地する際盛土されたため切崖状の構造となったのかもしれない。
【写真左】土塁
 当城の中で唯一遺構と思われる土塁。

 記憶がはっきりしないが、西側の最深部(北側)だったと思われる。
 高さ0.5~1.0m前後の規模。
【写真左】五輪塔群
 下山途中に見つけた複数の五輪塔。かなりバラバラになっていたのをこの箇所に集めた感じだ。

 民家奥の片隅にあり、手前には祠らしきものがあったので、地元の人が普段から供養しているようだ。
【写真左】団地側から遠望
 再び南側におりて遠望したもの。
【写真左】正隆寺
 南麓には正隆寺という浄土真宗派寺院がある。

 当院は江戸時代に伊能忠敬ら測量隊が日本地図作成のため宿泊したところで、境内奥にはその資料館があるという。

 残念ながら当日は探訪していないが、珍しい資料も残されているという。
 因みに、忠敬らが当院に宿泊したのは、文化8年(1811)1月18日と記録されている。当時この地区は大嶺村と呼ばれていた。

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