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2022年6月1日水曜日

桂城(広島県安芸高田市吉田町桂)

 桂城(かつらじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町桂
●別名 中山城、三笠山城、三笠城
●高さ H:295m(比高80m)
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明(桂広澄か)
●城主 桂氏
●遺構 土塁、郭、堀等
●登城日 2017年11月16日

解説(参考資料 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド』安芸高田市歴史民俗博物館編、HP『戦国大名探究武将家出自事典』等)

 桂城は前稿鈴尾城(広島県安芸高田市吉田町福原)の西方可愛川を挟んで1キロほどの位置に築かれた城郭である。
【写真上】桂城遠望
 2007年に登城した安芸・星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)から見たもの。


 現地の説明板より

桂城跡
         町史跡指定 1968(昭和43)年91
 桂城跡は、標高295m・比高80mで中山城または三笠山城とも呼ばれていた。毛利氏譜代の桂氏の居城で、16世紀初頭頃坂氏から分家した広澄がこの城に入ったとされる。

 城郭は、西・中央・東の三群に分かれる。
 西郭群は、背後を堀切で区切って北・南西方向に延びる尾根上に小郭を配したもので、小規模な城の体裁をなしている。
 中央郭群は、独立丘陵の最高所に位置し、北東に延びる尾根上に堀切と郭を並べており、見張所的なものと考えられる。
              1996(平成8)年7
                            吉田町教育委員会“
【写真左】駐車場所
 西側を走る国道54号線脇に、安芸・星ヶ城の看板があり、その近くに駐車スペースがあったのでここに停める。
 桂城はこの写真では左側の54号線を渡った方向にある。


桂氏

 桂氏は説明板にもあるように、坂氏から分家した広澄を始祖とし、当地桂に移り桂氏を名乗ったとされる。

【上図】桂氏関係略系図
 坂広秋の孫・広澄が桂氏の始祖となっているが、同じ孫としては志道氏から分かれ、後に毛利家四家老の一人といわれ、実務に長けた口羽通良(琵琶甲城(びわこうじょう)(島根県邑南町下口羽))参照)がいる。


元就の家督相続

 以前にも述べたが、毛利元就が毛利家を継いだのは大永3年(1523)8月のことである。  
 兄興元が亡くなり、その嫡男幸松丸が跡を継いだものの、9歳で病死、この事態に宿老間で次の後継者を選ぶ協議がなされた。このとき、元就を推挙したのが、下段に示した重臣15名である。

(一族)
  志道広良、福原広俊、桂元澄、坂広秀
(譜代家人)
  渡辺勝、粟屋元秀、赤川元助(元保)、赤川就秀、飯田元親
(国人領主)
  中村元明、井上就在、井上元盛、井上元貞、井上元吉、井上元兼

 もっともこの前には、元就を家督継承者とする意見と、尼子家から養子を迎えようという意見があったが、結果として、一族の志道広良、福原広俊、そして桂元澄らが、尼子家から養子を迎えると、毛利家は乗っ取られるとして衆議がまとまった。
【写真左】桂広澄の墓
当城の東側麓には桂広澄の墓が祀られている。








 この家督相続に絡んで、もう一人の候補者で元就の異母弟・元綱や、坂氏及びその一族であった桂広澄も誅殺や自刃に追い込まれている。しかし、広澄の嫡男・元澄は毛利氏の重臣として活躍していく。
【写真左】桂城の看板
 国道54号線の東側に設置されている。写真の右側に桂城が見える。ここから少し歩くと、この看板とは別に、➡のついたもう一つの看板があり、そこから向かう。


桂元澄

 彼の主な実績としては、安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園)の稿で紹介したように、天文24年・弘治元年(1555)の厳島合戦がある。この戦いで敵方・陶晴賢に偽の内応書を送り、陶軍を厳島に導き寄せることに成功した。その後元澄は桜尾城主となり、永禄12年没した。墓は洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)にある。
【写真左】桂城略図
 桂城は東西700m前後の丘陵地に3か所分散して遺構が残っている。このうち、東端部は館跡ともいわれ、中央のものが主郭と思われ、西端部は主に物見櫓のきのうがあったものといわれている。
【写真左】尾根にたどり着く。
 上の略図にある「現在地」付近で、西の郭と東(中央)主郭の間の位置に当たる。
 先ず、西の郭に向かう。
【写真左】堀切
略図には示されていないが、東側から尾根伝いに進むと、最初に堀切が見えてくる。この堀切は二条あり、写真の右(北側)にも堀切の延長上に横堀らしき遺構が確認できる。
 このあと上に登って行く。
【写真左】土塁
西郭の最高所となる箇所で、東側に土塁が組まれている。
【写真左】西側から見る。
郭は丁寧な普請となっている。奥に先ほどの土塁が見える。
【写真左】矢竹
この付近には質のいい矢竹が生えている。
【写真左】帯郭
中央の郭から南側に降りると帯郭があり、西に回り込んで囲繞している。
 なお、写真には紹介していないが、南側のさらに下に下がった位置にも2,3段の小郭が配置されている。また、西側の鉄塔が建っている箇所にも小規模な堀切が2条残る。
このあと、再び分岐点まで戻り、中央の郭(主郭)に向かう。
【写真左】可愛川(江の川)が見える。
主郭に向かう途中の道は尾根幅が狭くなり、特に南側が険峻な切岸となっている。
 途中で視界が開けた場所から可愛川が見えた。おそらく、戦国期はこの川が桂城の南麓直下を流れていたのだろう。
【写真左】奥の左側に郭が見えてきた。
【写真左】主郭か
 略図にもあるように、中央の郭群は手前に段を設けず、いきなり郭が最高所に設置されている。
【写真左】主郭の東側
 削平は丁寧だが、この郭だけ石ころがやけに多い。石積された基壇のような遺構があったのかもしれない。
【写真左】主郭からさらに北に向かう。
 主郭を起点にして尾根は北に向きを変えて伸びる。北端部まで進んでみる。
【写真左】北端部の土塁
北端部の郭幅は狭められて細くなっているが、その短い外周部には土塁が設けられている。
【写真左】堀切
 北端部から下を覗くと堀切が見える。降りてみる。
【写真左】堀切
 上から見ていた堀切で、主郭は左側の切岸を登ったところにある。
 このあとさらに右に進む。
【写真左】北に伸びる郭
 地形上段々と尾根幅は狭くなるが、奥行は予想以上にある。
【写真左】次の段が見える。
 降りてみる。
【写真左】次の堀切
 降りてみると、やはりこの個所にも堀切が介してある。
【写真左】振り返る
 それぞれの段との比高差は平均すると4,5mはあるだろう。
【写真左】次の段に進む。
 結局主郭下から北に伸びる郭段は連郭式で4から5段程度で構成されている。
【写真左】桂城遠望
 南西麓側から見たもので、略図にもあった東端部の郭群は踏査していない。この場所は館跡ともいわれ、現在桂大仙神社が祀られている。
 写真で言えば、右側の先端部に当たる。
【写真左】桂城周辺の史跡配置図
 文字が小さいため分かりにくいが、桂城が中央に記されている。



2022年5月19日木曜日

鈴尾城(広島県安芸高田市吉田町福原)

 鈴尾城(すずおじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町福原
●別名 福原城
●高さ 316m(比高110m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 永徳元年・弘和元年(1381)
●築城者 福原広世
●城主 福原氏
●遺構 郭、石垣、土塁、堀、井戸
●登城日 2017年11月7日、及び16日

解説(参考資料 『知将 毛利元就』池亨著、『日本城郭体系 第13巻』等)
  随分前から安芸の山城探訪する際、鈴尾城の近くを度々通っていたのだが、当時は他の山城の方を優先していたため、なかなか登城する機会が持てなかった。
 鈴尾城は毛利氏の居城・吉田郡山城から南西へおよそ6キロほど隔てた可愛川(江の川)東岸に築かれた福原氏の居城である。別名福原城ともいう。
【写真左】鈴尾城遠望
 北側の吉田町福原側から見たもので、写真には写っていないが、右側には可愛川(江の川)が流れている。
【写真左】登城開始
 当日は下段で紹介している楞厳寺跡を先に探訪し、そのあと鈴尾城を目指した。






福原氏居館跡

 鈴尾城の麓には、福原氏の平時の住まいがあったとされる居館跡がある。登城し始めると、最初にこの居館跡が見えてくる。
【左図】鈴尾城・居館・楞厳寺の配置図
 現在地と書かれている箇所が福原氏居館跡になる。









現地の説明板より ①

‟福原氏居館跡
 福原氏の居城であった鈴尾城は、別名福原城とも呼ばれ、永徳元年(1381)に福原広世が築城した。福原氏は、代々毛利氏の重臣であり、特に9代貞俊の妹は、毛利弘元の妻で、興元、元就を生んだ。
【写真左】福原氏居館跡
 脇には休憩小屋などが建っている。








 この地は、福原氏の居館跡(別名土居の壇)と伝えられ、本丸からは東側の谷の中腹に位置し、長さ約50m、幅約20mの広大な敷地を有している。
 さらにこの東側下部には、小さな平地があるが、これらも居館の一部と使用されたもののようである。
 昭和13年(1938)に、毛利元就生誕の碑が建てられた。
 さらに東側に福原氏の菩提寺楞厳寺(りょうごんじ)跡がある。福原広俊ら8基の墓がある。
平成3年3月”
【写真左】毛利元就生誕の碑
 現在でいう「里帰り出産」ということだろう。
 元就がこの地で生まれたのは間違いないようだが、兄興元もここで生まれたのかはっきりしない。

 元就が生まれて3年後の明応9年(1500)、父弘元は長男興元に家督を譲り、隠居を決意、幼い松寿丸(元就)とともに、多治比・猿掛城(広島県安芸高田市吉田町多治比)へ移った。

鈴尾城

 居館跡を一通り見たあと、いよいよ本丸目指して登城開始する。当城についても現地に詳細な説明板が設置してある。

現地の説明板より 

‟鈴尾(福原)城跡 (毛利元就誕生伝説地)
県史跡指定 1940(昭和15)年11月10日

 鈴尾城は、吉田盆地南の可愛川(えのがわ)に面する丘陵上に築かれた山城で、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めて築いた城で、16世紀元俊に至るまでの219年間福原氏の居城と伝えられている。
【写真左】登城道
 九十九折れの道が続き、距離は短いものの傾斜は結構ある。




 天文9年(1540)の郡山合戦には広俊がこの城に籠って吉田盆地の南の守りとした。
 鈴尾城は、標高316m、比高110mで、三方を急峻な崖と背後を空堀で区切ることによって要害としている。郭は機能的に、頂部を輪状にめぐる中央部の郭群と北側の支尾根上につながる小郭群、さらに東側の谷近くにある居館跡の3群に分けられる。
【写真左】鈴尾城略図
 現地に設置してあるもので、図にははいっていないが、下方には更に堀切が2か所ある。





 頂上部の郭は、南北18m、東西12mの広さを持ち、その中央部には櫓だったと思われる高さ1m、上幅1.5mの石垣がある。
 城の眼下には、可愛川があり、これを扼す要衝の地として戦国動乱期の吉田盆地を守る南の要であった。

1995(平成7)年3月
吉田町教育委員会“
【写真左】五合目
 要所にはこうした標柱が建っている。
【写真左】分岐点
 最初の段に到達すると、左に本丸、右に井の壇の標識がある。
【写真左】井の壇・その1
 井戸がある壇のことで、北側の尾根筋上に設置してある。
【写真左】井の壇・その2
 井戸の径はさほど大きくないようだ。なお、この位置から本丸方向を見上げたが、かなりの高低差がある。また、この尾根筋の先には堀切が配置されている。
【写真左】八合目
【写真左】長い郭
 本丸がある尾根筋にたどり着くと、北西から南東方向に長軸をとる形で郭が連なる。

 写真は北西方向に伸びる尾根に築かれた郭で、この下にも左右に腰郭がそれぞれ付随している。
【写真左】本丸側を見る。
 先ほどの位置から反対方向に目を転ずると、基壇を配した本丸が見える。
【写真左】本丸・その1
自然石なのか石積なのか分からないが、この個所だけ石が露出している。
【写真左】本丸・その2
 反対側から見たもの。

【写真左】毛利元就生誕五百年記念の碑
平成9年(1997)1月に、「福原城顕彰会」と「可愛商工会」が建立したと記されている。
【写真左】腰郭
本丸の南東部にあるもので、ここを下って更に尾根筋を進む。
【写真左】堀切
 堀切は3本あるが、写真はそのうち最初のもので一番大きい。








安芸・福原氏

 鈴尾城の福原氏は説明板でも紹介されているように、永徳元年(1381)に毛利元春の五男広世が福原の地に移り、姓を福原と改めたのに始まる。

 毛利元春はその曾祖父・時親(大江時親邸(大阪府河内長野市加賀田)参照)の代から足利尊氏に終始従っており、このこともあって13歳の元服の折、尊氏の執事高師直の兄弟・師泰(金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)から一字をもらい、師親と名乗っている。

 しかし、師泰が正平6年(1351)没落すると、名を元春と改名している。因みに、戦国期毛利元就の次男・吉川元春の元春は、この毛利元春からつけたものといわれている。

 広世の兄弟としては、長兄・広房を筆頭に、庶家となる元房、広内(麻原氏)、忠広(中馬氏)と続き、五男・広世が福原の地を領した。








【上図】毛利家と福原家の関係図
 元就の母は福原8代当主広俊の女で、弘元に嫁いでいる。

福原氏墓所

 同墓所は鈴尾城の東麓にあった楞厳寺跡に所在するもので、現地の説明板では次のように記されている。

‟福原氏墓所
   町史跡指定 1968(昭和43)年9月1日

 楞厳寺(りょうごんじ)は、10代広俊の菩提寺で、開山は僧真如厳甫による禅寺である。防長移封により現在萩市にあり、13代元俊によって故郷の地名を山号として福原山徳隣寺と改称されている。下の段の竹藪東端が境内であったという。左の釈迦堂は11代貞俊が先祖を祀った信仰の御堂という。
【写真左】楞厳寺配置図
 西墓所は東墓所から少し上がったところにある。




 福原氏の墓所は、芸藩通志によると八基とされているが、福原氏末裔の墓誌によると東西の墓所に五基とある。

 東墓所を右からの墓誌によると、「福原大江朝臣広俊」(10代)の墓で、次は「福原大江朝臣貞俊」(11代)の墓であり、次は「祥室妙吉禅尼墳墓跡」で、毛利弘元の妻であり元就の母の墓跡である。大正10年に毛利、福原両氏の協議によって多治比の弘元の墓地に改葬された。
【写真左】楞厳寺跡
 東墓所の下にあり、建物などはないが削平された跡が残り、数か所に小規模な五輪塔などが残されている。




 西墓所は50m離れた所にあり、右から「福原広俊息女」の墓であり、左が「福原大江朝臣元俊」(12代)の墓である。
   1995(平成7)年3月
     吉田町教育委員会”
【写真左】東墓所
【写真左】西墓所
 東墓所から少し登り、右に行くと西墓所がある。