安芸・桜尾城(あき・さくらおじょう)
●所在地 広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園
●高さ 標高15m(比高8m)
●形態 海城
●築城期 鎌倉期
●築城者 吉見氏か
●城主 藤原氏、桂元澄、穂田元清
●指定 廿日市市指定史跡
●遺構 殆ど消滅
●備考 桜尾公園
●登城日 2015年5月10日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』、HP「いにしえのロマンの郷 はつかいち」等)
桜尾城は、広島湾西方の廿日市桜尾本町に所在する平城である。当城については、以前取り上げた能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)、及び宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも少し触れているが、戦国期厳島神社と深くかかわった城砦である。
【写真左】「桜尾城址 桂公園」と刻銘された石碑
現在桂公園となっているところで、この坂を登っていくと公園(城址)にたどり着く。
この日はグランドゴルフ大会のようなものがあったため、駐車場は満車で、坂の途中に車を停め、歩いて向かう。
周防前司(藤原)親実
桜尾城が築かれたのは鎌倉時代といわれ、築城したのは吉見氏とされる。ただ、『神主職根本之次第』によれば、藤原親実が承久3年(1221)に厳島神社の神主になっていることを論拠として、桜尾城を根拠城としている可能性があるとし、その後320年余にわたって子孫が本城を中心に活動していたと推論している(『日本城郭体系 第13巻』)。
【写真左】桂公園碑
公園の入口付近には「桂公園碑」と刻銘された石碑が建つ。
大勲位公爵 桂太郎書とされ、大正元年11月、衆議院 勲四等荒川五郎撰、廿日市町長 正八位勲等 石田久雄書と付記されている。
後段でも示すように、厳島合戦ののち、当城には桂元澄が入ることになるが、その末裔である元陸軍大臣で、のちに内閣総理大臣を務めた桂太郎が、この土地(島)を買収し、当時の廿日市町に寄附した。その後公園としてこの年(大正元年)桂公園として開園している。
安芸・武田氏の桜尾城攻略
桜尾城から北東に15キロ離れた安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)主・武田大膳太夫信賢(のぶかた)は、室町幕府から厳島の神領であった佐伯郡を賜ったとして、永享12年(1440)、当地に侵入してきた。これに対し、厳島神社の禰宜佐伯左近将監親春をはじめとする厳島の社官や神領衆たちが桜尾城に立て籠もり、武田氏の侵入を防いだ。
【写真左】厳島神社
厳島神社(宮島)から桜尾城までは、直線距離で6キロほどになる。
今稿の桜尾城や、以前とりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)などが絡む戦さは殆ど船戦さの形態だったと思われる。
しかし、それから16年後の康正3年(1457)、再び武田氏が将軍足利義政から再度賜ったとして、義政の命を受けて加勢した備後・安芸の国人領主らを引連れ、桜尾城を包囲した。これに対し、周防の大内左京大夫教弘が大軍を率いて桜尾城を支援したため、武田氏は再び敗退したという。
安芸武田氏による執拗なまでの桜尾城及び厳島神社に対する干渉があった背景には、おそらく厳島神社という特殊な神領地に対しても、武田氏にとって、鎌倉時代から続く安芸守護職としての権限を周知さ、服従させる意味もあったのだろう。
【写真左】桂公園内のグランド
南東側から見たもので、ごらんのように現在はかなり大きな運動場が中央にできている。
ちなみに、周囲の樹木も含めた公園の現在の大きさは、南北150m×東西180mの変形した五角形の形を残している。
資料によれば、桜尾城の最高所は30m余りで、現在その半分の高さ(15m前後)となっていることから、主郭を中心として大規模に掘削されたことになる。
神主家断絶と友田氏、小方氏の対立
大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)の稿でも述べたが、永正4年(1507)の暮れ、山口の大内義興は足利義稙を奉じて入京を図った。このとき、厳島神社の主家藤原興親は翌年、畿内において病死した。興親という名でもわかるように、興親は義興から偏諱を受けたものと思われる。
興親討死によって藤原神主家は断絶することになる。そして、同家に仕えていた二人の重鎮、小方加賀守と友田上野介興藤との間で相続を巡り対立が勃発、桜尾城の地元では友田氏に味方した宍戸治部少輔は当城に立て籠もり、対する小方側では新里若狭守は藤掛尾城(串度城)に拠って長期の戦いが繰り広げられた。なお、藤掛尾城は現在遺構はないが、今の国道2号線と247号線が交わる串度付近で、ここから北東へ約1.5キロ向かった位置に桜尾城がある。
永正15年(1518)8月、10年もの長い間在京していた大内義興が帰国した。友田氏と小方氏による相続争いに業を煮やしたのだろう、義興は両氏どちらの相続も認めず、新たに桜尾城には島田越中守を城番として置き、のちには大藤加賀守、毛利下野守を入れた。
【写真左】東端部・その1
この辺りの斜面は北から南にかけて凡そ100mにわたって削られており、当時は東側に突出した丘陵部があったものと思われる。
下の駐車場との比高差は10mある。
大内氏に対する友田氏の抵抗
この処置に激怒したのが友田興藤である。興藤は永享年間には敵対していた安芸銀山城の武田光和と手を結び、大永3年(1523)閏4月、大内氏に反旗を翻し、佐伯郡内の諸城を攻め落とし、桜尾城に拠った。こうして一時は神主家の跡を継ぐ形を取った。
これに対し、大内氏は陶興房と弘中武長を大将として派遣し、猛攻撃を開始、戦いは膠着状態が続き、その結果翌4年10月、大内氏の家臣吉見頼興が仲介し、友田興藤が大内氏に臣従することで一先ず収拾した。
【写真左】東端部・その2
柵から身を乗り出して斜面を撮ったもので、このあたりにある住宅などは当時は海浜だったものと思われる。
尼子氏安芸攻め
しかし、友田興藤の大内氏に対する臣従は表向きで、面従腹背の姿勢を持っていた。能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)でも述べたように、天文9年から翌10年にかけて、尼子氏は安芸吉田郡山城及び、銀山城を攻撃するが、その直前友田興藤は尼子氏と盟約を結んでいる。しかし、この時の尼子軍による吉田城攻めは周知の通り大敗を喫した。
大内氏は天文10年正月から桜尾城の攻撃を開始している。このころ友田興藤は伊予能島村上水軍の警固船を味方につけ、厳島を占有していたが、尼子氏敗退の報を耳にした興藤の家臣達は戦意を喪失し、4月5日の夜半逃亡し、残った興藤は桜尾城とともに落城・自刃したした。
【写真左】北東部
桂公園の外周部のうち、東から北にかけては樹木が生い茂っており、上段の箇所にあるような造成工事の痕跡は少ない。
このため、この区域は唯一遺構の痕跡を残している箇所と思われる。
厳島合戦とその後
このあと、大内氏は桜尾城に重臣鷲頭氏(長門・亀山城(山口県長門市東深川)参照)を城番として入れたが、天文20年(1551)9月、陶晴賢が主君大内義隆を自刃に追い込むに及んで、鷲頭氏は本城を明け渡し、代わりに新里式部、毛利与三が入った。
その後、陶晴賢と毛利氏は敵対し、天文23年(1554)の5月、いわゆる「防芸引分」の決断を毛利氏が行い、厳島合戦へと向かうことになっていくが、その前段で元就が先手を打ったのが、陶氏の手薄な諸城の接収である。具体的には、銀山城(安佐南区)、己斐城(西区)、草津城(西区)、そして桜尾城である。桜尾城には直臣の桂元澄(星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)参照)を入れた。
なお、桜尾城主・桂元澄はその後永禄12年(1569)7月に亡くなるが、このころは九州の大友宗麟と烈しい戦いを行っていたため、直ぐに元澄亡きあと、元就四男の穂田元清(佐井田城(岡山県真庭市下中津井)参照)を城主としていれている。
【写真左】切崖
先ほどの箇所からさらに北に向かったところで、このあたりはあまり改変されていないようだ。
このあと、ぐるっと反時計回りに回り西側に向かう。
【写真左】傾斜のついた段
西側には中段部で傾斜のついた段がある。当時のものか近代になって加工されものか分からないが、当城が海城であったことを考えると、外周部の一角には船着き場のような低い削平地があったと考えられるので、この箇所もそれに付随したものかもしれない。
【写真左】西方に見える小丘
桜尾城から西へ200mほどの位置にあたり、現在この小丘には正蓮寺、荘覺院、蓮教寺といった寺院が建っている。
このため、丘の半分以上が墓地として造成されているが、最高所が25m前後で、桜尾城時代の標高とほぼ同じである。
桜尾城が当時海城であったことを考えると、干潮時にはこの小丘を結んで浜ができており、この附近が船溜まりとして利用されていた可能性もある。
また、この写真の右側(北側)を300mほど進むと、「城内」という地区(広島宮島線と山陽本線に挟まれた箇所)がある。このことから、後半期には桜尾城の中心地は山側のほうへ移っていったのかもしれない。
このあと、西側に坂道があったので、この道を下る。
【写真左】西側の段
西側の斜面にはご覧の歩道があり、そこを下がっていくと、左側に削平地がある。
以前建物があったような痕跡があるが、当初からこの段はあったものかもしれない。
【写真左】西側の段
手前には太陽光発電の設備があり、その奥には竹林が見える。
【写真左】妙見社・その1
坂道を下っていくと、途中に社が見える。
これは妙見社といわれ、藤原氏時代つながりの深かった大内氏が、氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀し、桜尾城の守護神として勧請したものといわれている。
【写真左】妙見社・その2
この中にある本尊妙見菩薩像は、右手に宝剣を持って亀甲の上に立ち、足元には白蛇がどくろを巻いている姿だというが、外からは暗くてよく見えない。
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●指定 廿日市市指定史跡
●遺構 殆ど消滅
●備考 桜尾公園
●登城日 2015年5月10日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』、HP「いにしえのロマンの郷 はつかいち」等)
桜尾城は、広島湾西方の廿日市桜尾本町に所在する平城である。当城については、以前取り上げた能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)、及び宮尾城(広島県廿日市市宮島町)の稿でも少し触れているが、戦国期厳島神社と深くかかわった城砦である。
【写真左】「桜尾城址 桂公園」と刻銘された石碑
現在桂公園となっているところで、この坂を登っていくと公園(城址)にたどり着く。
この日はグランドゴルフ大会のようなものがあったため、駐車場は満車で、坂の途中に車を停め、歩いて向かう。
周防前司(藤原)親実
桜尾城が築かれたのは鎌倉時代といわれ、築城したのは吉見氏とされる。ただ、『神主職根本之次第』によれば、藤原親実が承久3年(1221)に厳島神社の神主になっていることを論拠として、桜尾城を根拠城としている可能性があるとし、その後320年余にわたって子孫が本城を中心に活動していたと推論している(『日本城郭体系 第13巻』)。
【写真左】桂公園碑
公園の入口付近には「桂公園碑」と刻銘された石碑が建つ。
大勲位公爵 桂太郎書とされ、大正元年11月、衆議院 勲四等荒川五郎撰、廿日市町長 正八位勲等 石田久雄書と付記されている。
後段でも示すように、厳島合戦ののち、当城には桂元澄が入ることになるが、その末裔である元陸軍大臣で、のちに内閣総理大臣を務めた桂太郎が、この土地(島)を買収し、当時の廿日市町に寄附した。その後公園としてこの年(大正元年)桂公園として開園している。
安芸・武田氏の桜尾城攻略
桜尾城から北東に15キロ離れた安芸の銀山城(広島市安佐南区祇園町)主・武田大膳太夫信賢(のぶかた)は、室町幕府から厳島の神領であった佐伯郡を賜ったとして、永享12年(1440)、当地に侵入してきた。これに対し、厳島神社の禰宜佐伯左近将監親春をはじめとする厳島の社官や神領衆たちが桜尾城に立て籠もり、武田氏の侵入を防いだ。
【写真左】厳島神社
厳島神社(宮島)から桜尾城までは、直線距離で6キロほどになる。
今稿の桜尾城や、以前とりあげた仁保城(広島県広島市南区黄金山町)などが絡む戦さは殆ど船戦さの形態だったと思われる。
しかし、それから16年後の康正3年(1457)、再び武田氏が将軍足利義政から再度賜ったとして、義政の命を受けて加勢した備後・安芸の国人領主らを引連れ、桜尾城を包囲した。これに対し、周防の大内左京大夫教弘が大軍を率いて桜尾城を支援したため、武田氏は再び敗退したという。
安芸武田氏による執拗なまでの桜尾城及び厳島神社に対する干渉があった背景には、おそらく厳島神社という特殊な神領地に対しても、武田氏にとって、鎌倉時代から続く安芸守護職としての権限を周知さ、服従させる意味もあったのだろう。
【写真左】桂公園内のグランド
南東側から見たもので、ごらんのように現在はかなり大きな運動場が中央にできている。
ちなみに、周囲の樹木も含めた公園の現在の大きさは、南北150m×東西180mの変形した五角形の形を残している。
資料によれば、桜尾城の最高所は30m余りで、現在その半分の高さ(15m前後)となっていることから、主郭を中心として大規模に掘削されたことになる。
神主家断絶と友田氏、小方氏の対立
大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)の稿でも述べたが、永正4年(1507)の暮れ、山口の大内義興は足利義稙を奉じて入京を図った。このとき、厳島神社の主家藤原興親は翌年、畿内において病死した。興親という名でもわかるように、興親は義興から偏諱を受けたものと思われる。
興親討死によって藤原神主家は断絶することになる。そして、同家に仕えていた二人の重鎮、小方加賀守と友田上野介興藤との間で相続を巡り対立が勃発、桜尾城の地元では友田氏に味方した宍戸治部少輔は当城に立て籠もり、対する小方側では新里若狭守は藤掛尾城(串度城)に拠って長期の戦いが繰り広げられた。なお、藤掛尾城は現在遺構はないが、今の国道2号線と247号線が交わる串度付近で、ここから北東へ約1.5キロ向かった位置に桜尾城がある。
永正15年(1518)8月、10年もの長い間在京していた大内義興が帰国した。友田氏と小方氏による相続争いに業を煮やしたのだろう、義興は両氏どちらの相続も認めず、新たに桜尾城には島田越中守を城番として置き、のちには大藤加賀守、毛利下野守を入れた。
【写真左】東端部・その1
この辺りの斜面は北から南にかけて凡そ100mにわたって削られており、当時は東側に突出した丘陵部があったものと思われる。
下の駐車場との比高差は10mある。
大内氏に対する友田氏の抵抗
この処置に激怒したのが友田興藤である。興藤は永享年間には敵対していた安芸銀山城の武田光和と手を結び、大永3年(1523)閏4月、大内氏に反旗を翻し、佐伯郡内の諸城を攻め落とし、桜尾城に拠った。こうして一時は神主家の跡を継ぐ形を取った。
これに対し、大内氏は陶興房と弘中武長を大将として派遣し、猛攻撃を開始、戦いは膠着状態が続き、その結果翌4年10月、大内氏の家臣吉見頼興が仲介し、友田興藤が大内氏に臣従することで一先ず収拾した。
【写真左】東端部・その2
柵から身を乗り出して斜面を撮ったもので、このあたりにある住宅などは当時は海浜だったものと思われる。
尼子氏安芸攻め
しかし、友田興藤の大内氏に対する臣従は表向きで、面従腹背の姿勢を持っていた。能島城・その2(愛媛県今治市宮窪町・能島)でも述べたように、天文9年から翌10年にかけて、尼子氏は安芸吉田郡山城及び、銀山城を攻撃するが、その直前友田興藤は尼子氏と盟約を結んでいる。しかし、この時の尼子軍による吉田城攻めは周知の通り大敗を喫した。
大内氏は天文10年正月から桜尾城の攻撃を開始している。このころ友田興藤は伊予能島村上水軍の警固船を味方につけ、厳島を占有していたが、尼子氏敗退の報を耳にした興藤の家臣達は戦意を喪失し、4月5日の夜半逃亡し、残った興藤は桜尾城とともに落城・自刃したした。
【写真左】北東部
桂公園の外周部のうち、東から北にかけては樹木が生い茂っており、上段の箇所にあるような造成工事の痕跡は少ない。
このため、この区域は唯一遺構の痕跡を残している箇所と思われる。
厳島合戦とその後
このあと、大内氏は桜尾城に重臣鷲頭氏(長門・亀山城(山口県長門市東深川)参照)を城番として入れたが、天文20年(1551)9月、陶晴賢が主君大内義隆を自刃に追い込むに及んで、鷲頭氏は本城を明け渡し、代わりに新里式部、毛利与三が入った。
その後、陶晴賢と毛利氏は敵対し、天文23年(1554)の5月、いわゆる「防芸引分」の決断を毛利氏が行い、厳島合戦へと向かうことになっていくが、その前段で元就が先手を打ったのが、陶氏の手薄な諸城の接収である。具体的には、銀山城(安佐南区)、己斐城(西区)、草津城(西区)、そして桜尾城である。桜尾城には直臣の桂元澄(星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)参照)を入れた。
なお、桜尾城主・桂元澄はその後永禄12年(1569)7月に亡くなるが、このころは九州の大友宗麟と烈しい戦いを行っていたため、直ぐに元澄亡きあと、元就四男の穂田元清(佐井田城(岡山県真庭市下中津井)参照)を城主としていれている。
【写真左】切崖
先ほどの箇所からさらに北に向かったところで、このあたりはあまり改変されていないようだ。
このあと、ぐるっと反時計回りに回り西側に向かう。
【写真左】傾斜のついた段
西側には中段部で傾斜のついた段がある。当時のものか近代になって加工されものか分からないが、当城が海城であったことを考えると、外周部の一角には船着き場のような低い削平地があったと考えられるので、この箇所もそれに付随したものかもしれない。
【写真左】西方に見える小丘
桜尾城から西へ200mほどの位置にあたり、現在この小丘には正蓮寺、荘覺院、蓮教寺といった寺院が建っている。
このため、丘の半分以上が墓地として造成されているが、最高所が25m前後で、桜尾城時代の標高とほぼ同じである。
桜尾城が当時海城であったことを考えると、干潮時にはこの小丘を結んで浜ができており、この附近が船溜まりとして利用されていた可能性もある。
また、この写真の右側(北側)を300mほど進むと、「城内」という地区(広島宮島線と山陽本線に挟まれた箇所)がある。このことから、後半期には桜尾城の中心地は山側のほうへ移っていったのかもしれない。
このあと、西側に坂道があったので、この道を下る。
【写真左】西側の段
西側の斜面にはご覧の歩道があり、そこを下がっていくと、左側に削平地がある。
以前建物があったような痕跡があるが、当初からこの段はあったものかもしれない。
【写真左】西側の段
手前には太陽光発電の設備があり、その奥には竹林が見える。
【写真左】妙見社・その1
坂道を下っていくと、途中に社が見える。
これは妙見社といわれ、藤原氏時代つながりの深かった大内氏が、氏神である氷上山興隆寺妙見社を分祀し、桜尾城の守護神として勧請したものといわれている。
【写真左】妙見社・その2
この中にある本尊妙見菩薩像は、右手に宝剣を持って亀甲の上に立ち、足元には白蛇がどくろを巻いている姿だというが、外からは暗くてよく見えない。
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