生田・高橋城(いけだ・たかはしじょう)
●所在地 広島県安芸高田市美土里町生田
●登城日 2010年5月14日
●築城期 不明
●築城者 高橋氏
●城主 生田(池田)右馬頭等
●比高 50m前後(標高不明)
●遺構 郭・土塁等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」「石見町誌」等)
写真右に見える道路は、国道433号線から分かれた吉田邑南線(6号線)で、写真奥が南を示す。
手前に向かうと島根県邑南町にたどり着くが、県境付近の「智教寺」という所には、以前紹介した天下墓(広島県美土里町)がある。
当城に関する資料は手元にあまりないが、築城者は高橋氏とされている。現地の登城口付近には「毛利元就の兄・興元の正室・雪の方の実家」という看板が立っている。
【写真左】登城口付近
上記写真の位置から、右に見える狭い道(農道)を 数百メートル登っていくと、左側に御覧の坂道が出てくる。ここからは徒歩で登るが、城域までは10分程度でたどり着く。なお、この場所には案内板などはない。
石見・高橋氏
高橋氏については、戦国期毛利氏や尼子氏との抗争の中で、一時的にその戦歴が語られることはあるが、両氏の間にあって重要な存在であったにも関わらず、これまで注目度としては低いものがあった。
限られた記録からたどっていくと、もともと南北朝期に高師直・師泰に与していた高橋光国をその祖とし、庶流の一人高橋師光が正平6年(1351)、備中松山城(岡山県高梁市内山下)から石見に入部したのが、石見・高橋氏の始まりとされている。
【写真左】郭跡など
高橋城は南西方向に伸びた舌状丘陵に築かれているが、規模は長さ250~300m、幅30m前後の細長い構図となっている。
写真左に立つ社殿のような建物付近がおそらく主郭と思われ、その奥はかなり急峻な切崖(大堀切と思われる)が施工されている。この場所から一旦低い郭段を設け、先端部に向かって約10m程度の高さを保った長い郭が伸びる。
石見に移住した直接のきっかけは、足利尊氏・直義の内訌に巻き込まれたことからとされ、旧佐波氏の領地であった阿須那郷・口羽地域(島根県邑南町周辺)に、地頭の形で補任されたという。
その後、正平13年(1358)に尊氏が没し、足利直冬が石見を支配し始めると、師光は直冬に与し、次第に領地を拡大していった。
正平16年、師光・貞光父子は直冬の命によって、阿須那の西方出羽(旧瑞穂町付近)に進出し、当時治めていた出羽氏を攻略し始めた。このとき主だった合戦城としては、以前紹介した二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)や、下出羽(邑南町下和田)の別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)などがある。
なお、前後するが高橋氏が当時本拠とした居城は、藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)であったが、出羽氏の攻略が一段落すると、貞光の代になってから居城を「二つ山城」の西方に聳える「本城城」(サイト:「城格放浪記」参照)に移している。
本来ならば、移城として最もふさわしいのは、出羽氏が拠った二ツ山城の方が時間的にも、経済的にも一番利用しやすいと思われるが、なぜ、わざわざ新しく本城城を築城したのか理由が分からない。ただ、二つ山城や別当城などは、同氏の支城として使われていたことは記録されている。
その後、同氏はこの地域を拠点として、南方の隣国安芸の国にも進出していった。
【写真左】先端部に伸びる郭
先端部に行く従い幅は狭くなっているが、奥行きは相当長い。なお、先端部の先にも数段の郭が構成され、看板の設置してあった位置まで施工されていたかもしれないが、現状は雑木などで覆われ確認はできない。
なお、写真に見える場所には、10数体の地蔵が配置されている。地元の人によって公園化されていたのかもしれない。
雪の方
「雪の方」については、一般にその父を高橋久光としている。前記した貞光から三代目にあたり、孫になるが、「石見町誌」では別の系図を紹介している。すなわち、久光の弟といわれる清光がおり、清光には4人の子(元光、重光、盛光、家光)があった。その中の重光の子に、第一子・長女であったのが「雪の方」としている。また「雪の方」の弟には、興光がおり、彼は後に毛利元就の謀略によって殺害されることになる。
なお、清光の長男・元光の子には、常光があり、彼が以前にも紹介した「本城常光」としている。本城常光の出自で明確に記した文献では、管理人の知る限り、この「石見町誌」が初めてである。
【写真左】高橋城から西麓の生田の集落を見る
写真正面の山並みを越えると、西隣の山県郡北広島町になり、前稿の小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)が控える。
ところで、「雪の方」が嫁いだ先が、毛利弘元の長男・興元である。興元は明応元年(1492)に生まれ、永正13年(1516)に亡くなっているので、わずか25年という短い生涯だった。
おそらく、彼女が嫁いだ時期は、永正6,7年頃と思われる。というのも、永正7年(1510)3月5日、高橋元光(「雪の方」の叔父になる)が、益田宗兼に誓紙を送り(益田家文書)、相前後して同年三次市にある比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉氏を攻めている。
このころの毛利氏は、高橋氏に比べると全くの弱小国人領主であり、高橋氏とすれば、当時最も恐れていたのは、東方備後国の三吉氏だった。このため、高橋氏は、三吉氏を四囲から攻めるため、益田氏や毛利氏と盟約を結ぶ作戦を立てた。その一つの策が「雪の方」の婚儀ではなかったと思われる。
【写真左】高橋城遠望
高橋城のある丘陵地の西隣に聳える山頂(名称不明)に、「美土里平和仏舎利塔」という寺院が建立されており、この位置から見たもの。
高橋城は、写真中央の杉林付近の尾根伝いに見える。またこの写真の奥の山並みを越えると、江の川本流が流れ、左側(北側)付近は島根県になる。
◎関連投稿
安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)
藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)
藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)
鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)
阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)
●所在地 広島県安芸高田市美土里町生田
●登城日 2010年5月14日
●築城期 不明
●築城者 高橋氏
●城主 生田(池田)右馬頭等
●比高 50m前後(標高不明)
●遺構 郭・土塁等
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」「石見町誌」等)
西麓を走る6号線(吉田邑南線)から見る(2011年6月15日撮影)
広島県を流れる江の川の支流・生田(いけだ)川の上流部にある美土里町(安芸高田市)の北部・生田地区にある小規模な山城である。
【写真左】道路脇に立つ高橋城の看板写真右に見える道路は、国道433号線から分かれた吉田邑南線(6号線)で、写真奥が南を示す。
手前に向かうと島根県邑南町にたどり着くが、県境付近の「智教寺」という所には、以前紹介した天下墓(広島県美土里町)がある。
当城に関する資料は手元にあまりないが、築城者は高橋氏とされている。現地の登城口付近には「毛利元就の兄・興元の正室・雪の方の実家」という看板が立っている。
【写真左】登城口付近
上記写真の位置から、右に見える狭い道(農道)を 数百メートル登っていくと、左側に御覧の坂道が出てくる。ここからは徒歩で登るが、城域までは10分程度でたどり着く。なお、この場所には案内板などはない。
石見・高橋氏
高橋氏については、戦国期毛利氏や尼子氏との抗争の中で、一時的にその戦歴が語られることはあるが、両氏の間にあって重要な存在であったにも関わらず、これまで注目度としては低いものがあった。
限られた記録からたどっていくと、もともと南北朝期に高師直・師泰に与していた高橋光国をその祖とし、庶流の一人高橋師光が正平6年(1351)、備中松山城(岡山県高梁市内山下)から石見に入部したのが、石見・高橋氏の始まりとされている。
【写真左】郭跡など
高橋城は南西方向に伸びた舌状丘陵に築かれているが、規模は長さ250~300m、幅30m前後の細長い構図となっている。
写真左に立つ社殿のような建物付近がおそらく主郭と思われ、その奥はかなり急峻な切崖(大堀切と思われる)が施工されている。この場所から一旦低い郭段を設け、先端部に向かって約10m程度の高さを保った長い郭が伸びる。
石見に移住した直接のきっかけは、足利尊氏・直義の内訌に巻き込まれたことからとされ、旧佐波氏の領地であった阿須那郷・口羽地域(島根県邑南町周辺)に、地頭の形で補任されたという。
その後、正平13年(1358)に尊氏が没し、足利直冬が石見を支配し始めると、師光は直冬に与し、次第に領地を拡大していった。
正平16年、師光・貞光父子は直冬の命によって、阿須那の西方出羽(旧瑞穂町付近)に進出し、当時治めていた出羽氏を攻略し始めた。このとき主だった合戦城としては、以前紹介した二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)や、下出羽(邑南町下和田)の別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)などがある。
なお、前後するが高橋氏が当時本拠とした居城は、藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)であったが、出羽氏の攻略が一段落すると、貞光の代になってから居城を「二つ山城」の西方に聳える「本城城」(サイト:「城格放浪記」参照)に移している。
本来ならば、移城として最もふさわしいのは、出羽氏が拠った二ツ山城の方が時間的にも、経済的にも一番利用しやすいと思われるが、なぜ、わざわざ新しく本城城を築城したのか理由が分からない。ただ、二つ山城や別当城などは、同氏の支城として使われていたことは記録されている。
その後、同氏はこの地域を拠点として、南方の隣国安芸の国にも進出していった。
【写真左】先端部に伸びる郭
先端部に行く従い幅は狭くなっているが、奥行きは相当長い。なお、先端部の先にも数段の郭が構成され、看板の設置してあった位置まで施工されていたかもしれないが、現状は雑木などで覆われ確認はできない。
なお、写真に見える場所には、10数体の地蔵が配置されている。地元の人によって公園化されていたのかもしれない。
雪の方
「雪の方」については、一般にその父を高橋久光としている。前記した貞光から三代目にあたり、孫になるが、「石見町誌」では別の系図を紹介している。すなわち、久光の弟といわれる清光がおり、清光には4人の子(元光、重光、盛光、家光)があった。その中の重光の子に、第一子・長女であったのが「雪の方」としている。また「雪の方」の弟には、興光がおり、彼は後に毛利元就の謀略によって殺害されることになる。
なお、清光の長男・元光の子には、常光があり、彼が以前にも紹介した「本城常光」としている。本城常光の出自で明確に記した文献では、管理人の知る限り、この「石見町誌」が初めてである。
【写真左】高橋城から西麓の生田の集落を見る
写真正面の山並みを越えると、西隣の山県郡北広島町になり、前稿の小倉山城(広島県山県郡北広島町新庄字小倉山)が控える。
ところで、「雪の方」が嫁いだ先が、毛利弘元の長男・興元である。興元は明応元年(1492)に生まれ、永正13年(1516)に亡くなっているので、わずか25年という短い生涯だった。
おそらく、彼女が嫁いだ時期は、永正6,7年頃と思われる。というのも、永正7年(1510)3月5日、高橋元光(「雪の方」の叔父になる)が、益田宗兼に誓紙を送り(益田家文書)、相前後して同年三次市にある比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉氏を攻めている。
このころの毛利氏は、高橋氏に比べると全くの弱小国人領主であり、高橋氏とすれば、当時最も恐れていたのは、東方備後国の三吉氏だった。このため、高橋氏は、三吉氏を四囲から攻めるため、益田氏や毛利氏と盟約を結ぶ作戦を立てた。その一つの策が「雪の方」の婚儀ではなかったと思われる。
【写真左】高橋城遠望
高橋城のある丘陵地の西隣に聳える山頂(名称不明)に、「美土里平和仏舎利塔」という寺院が建立されており、この位置から見たもの。
高橋城は、写真中央の杉林付近の尾根伝いに見える。またこの写真の奥の山並みを越えると、江の川本流が流れ、左側(北側)付近は島根県になる。
◎関連投稿
安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)
藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)
藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)
鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)
阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)
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