浜田城(はまだじょう)
●所在地 島根県浜田市殿町古城山
●別名 亀山城
●登城日 2010年5月29日
●築城期 元和6年(1620)11月
●築城者 古田重治
●標高 68m
●形式 平山城
●遺構 郭、腰郭、石垣、堀切、虎口、櫓台等
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」「図説 島根県の歴史」等)
浜田城は、中世山城ではなく、近世城郭として江戸初期の元和6年に築城された城郭である。
【写真左】浜田城復元CGI
【写真左】浜田城遠望(2012年2月28日撮影)
西側の高尾山から見たもので、写真中央部の高いところに本丸がある。
おそらく江戸期にはこの中央部から天守閣が見えていたのだろう。
現在の遺構としては、天守をはじめとする礎石建物はほとんど消滅しているが、近世城郭として一般的に備わった施設は概ね有していた。
現地の説明板より
“島根県指定史跡 浜田城跡
指定 昭和37年6月12日
浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城です。
元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城および城下町が整ったようです。
本丸の北西隅には、高さ14mの三重櫓の天守があり、二の丸には焔硝(えんしょう)蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中の門外の三の丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。
城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。
浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(1866)7月に第2次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。”
上記の説明板のように、元和5年(1619)2月13日、伊勢国松坂藩(三重県)第二代藩主だった古田重治は、幕府より石見国浜田に禄高5万4000石余を譲渡される。
【写真左】伊勢松坂城
古田重治が居城とした伊勢の松阪城(三重県松阪市殿町)
同年8月17日、重治入部し、滝山一学・古市久馬らと当地に築城すべく、領内を巡視、浜田鴨山を城地とすることを決める。このとき鴨山を縁起のいい「亀山」という名称に改称する。
なお、浜田の地に決める前に当初候補地として挙がったのが、益田の七尾城だったという。七尾城の前の禄高は12万石であったことから、古田重治にとって、とても倍以上の禄を維持することは困難だということからこの浜田城になったともいわれている。
【写真左】三の丸付近の石垣
この付近は明治34~36年にかけて郭の石垣を撤去して階段を整備しているという。
翌年(元和6年)2月に浜田城の普請工事が開始され、11月には地普請が完了。城用瓦工棟梁として、大坂より富島吉右衛門を招き、浅井村に住まいを用意させ永住させる。
元和8年、城下の片庭に並樹松を植え、浜田城の構えとした、とあるので天守を含めた建物の竣工は、説明板にもあるように、この年前後だったのだろう。
築城主・古田重治は、その後元和9年5月に隠居して、兵部少輔・重恒に譲り、本人は江戸に住んだが、寛永2年(1625)11月25日、当地で亡くなった。享年48歳。
【写真左】二の門付近
手前に二の門があり、枡形虎口を設けている。
跡を継いだ重恒は慶安元年(1648)6月16日に亡くなり、嗣子がいなかったため、改易となり、3日後の19日に浅野因幡守長治・亀井能登守茲政が在番を命じられる。
その後、8月には浜田城引き渡しがあり、10月28日、浜田藩が隣の石見銀山と同じく、一時的に天領に編入された。
翌年の慶安2年(1649)8月24日、播磨国宍粟(しそう)より松平周防守康映(やすてる)が入部し、10月はじめ、引渡書を受取り、知行高は、5万1,291石余りとなった。
【写真左】本丸手前の階段
二の門から本丸にかけての高低差はあまりなく、この階段も6,7段程度である。
ちなみに、第一次長州征伐の命令が松江藩に届いたのは、元治元年(1864)7月23日であるが、このとき松江藩では藩内の屈強な若者を多数集めている。
【写真左】本丸
本丸は30間四方とかなり広い。説明板にもあるように、上段の西方に三層の櫓を建て、天守閣を設けていたという。
そして周囲には高い石垣を築き、塀をめぐらせ、丸、三角、四角形の窓(ザマ)を79カ所あけていたという。
【写真左】焔硝蔵から本丸方向を見る。
三の丸の東側下段には焔硝蔵というかなり広い郭がある。ここからは北西方向に見ると、三の丸・二の丸・本丸方向が控えている。
撮影 2016年6月10日
【写真左】本丸跡から北方に「外の浦の湊」を見る
松江藩の中でも出雲部については、おそらく郡奉行の下に募集をかけたと思われるが、管理人の先祖・初代(文右衛門)の息子・善次郎も、口伝によればこの中に従軍し、戦地での負傷が原因で、2年後の慶応2年(1866)9月26日、死去している。享年18歳。
●所在地 島根県浜田市殿町古城山
●別名 亀山城
●登城日 2010年5月29日
●築城期 元和6年(1620)11月
●築城者 古田重治
●標高 68m
●形式 平山城
●遺構 郭、腰郭、石垣、堀切、虎口、櫓台等
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」「図説 島根県の歴史」等)
浜田城は、中世山城ではなく、近世城郭として江戸初期の元和6年に築城された城郭である。
【写真左】石州浜田之図(1759~69年)本多家時代の浜田城下町絵図
現地に設置された絵図であるが、当時は当城東麓には堀や、沼があったことが記されている。現在はほとんど埋め立てられている。【写真左】浜田城復元CGI
【写真左】浜田城遠望(2012年2月28日撮影)
西側の高尾山から見たもので、写真中央部の高いところに本丸がある。
おそらく江戸期にはこの中央部から天守閣が見えていたのだろう。
現在の遺構としては、天守をはじめとする礎石建物はほとんど消滅しているが、近世城郭として一般的に備わった施設は概ね有していた。
現地の説明板より
“島根県指定史跡 浜田城跡
指定 昭和37年6月12日
浜田城跡は別名亀山城とも呼ばれ、北の松原湾と南から西にかけて流れる浜田川によって囲まれた標高68mの独立丘陵上に築かれた平山城です。
元和5年(1619)に伊勢松坂から古田重治が5万4千余石の藩主としてこの地に移り、元和6年(1620)2月に築城工事に着手、同年11月には地普請が終わり、元和9年(1623)5月には城および城下町が整ったようです。
本丸の北西隅には、高さ14mの三重櫓の天守があり、二の丸には焔硝(えんしょう)蔵、本丸常番所、時打番所などが配置され、中の門外の三の丸には御殿、諸役所、御用米蔵などがありました。
城下町は、城の周囲に武家屋敷を、浜田川以南に町家を設けています。
【写真左】城門
この下にある二の丸の護国神社から少し上がり、本丸に向かう最初の階段部に設置されている。
この門は、浜田城と関係がなく、元々津和野藩庁にあったものを明治初年、浜田県庁舎を建てた時に県庁の門にするために移した。その後、現在に移したものであるが、まったく違和感がないほど調和している。浜田城主は、古田家(2代・30年)から、松平周防守家(5代・111年)、本多家(3代・11年)、再び松平周防守家(4代・68年)、そして松平右近将監家(4代・31年)と変わり、慶応2年(1866)7月に第2次長州征伐で自焼退城となり、その役割を終えました。”
上記の説明板のように、元和5年(1619)2月13日、伊勢国松坂藩(三重県)第二代藩主だった古田重治は、幕府より石見国浜田に禄高5万4000石余を譲渡される。
【写真左】伊勢松坂城
古田重治が居城とした伊勢の松阪城(三重県松阪市殿町)
同年8月17日、重治入部し、滝山一学・古市久馬らと当地に築城すべく、領内を巡視、浜田鴨山を城地とすることを決める。このとき鴨山を縁起のいい「亀山」という名称に改称する。
なお、浜田の地に決める前に当初候補地として挙がったのが、益田の七尾城だったという。七尾城の前の禄高は12万石であったことから、古田重治にとって、とても倍以上の禄を維持することは困難だということからこの浜田城になったともいわれている。
【写真左】三の丸付近の石垣
この付近は明治34~36年にかけて郭の石垣を撤去して階段を整備しているという。
翌年(元和6年)2月に浜田城の普請工事が開始され、11月には地普請が完了。城用瓦工棟梁として、大坂より富島吉右衛門を招き、浅井村に住まいを用意させ永住させる。
元和8年、城下の片庭に並樹松を植え、浜田城の構えとした、とあるので天守を含めた建物の竣工は、説明板にもあるように、この年前後だったのだろう。
築城主・古田重治は、その後元和9年5月に隠居して、兵部少輔・重恒に譲り、本人は江戸に住んだが、寛永2年(1625)11月25日、当地で亡くなった。享年48歳。
【写真左】二の門付近
手前に二の門があり、枡形虎口を設けている。
跡を継いだ重恒は慶安元年(1648)6月16日に亡くなり、嗣子がいなかったため、改易となり、3日後の19日に浅野因幡守長治・亀井能登守茲政が在番を命じられる。
その後、8月には浜田城引き渡しがあり、10月28日、浜田藩が隣の石見銀山と同じく、一時的に天領に編入された。
翌年の慶安2年(1649)8月24日、播磨国宍粟(しそう)より松平周防守康映(やすてる)が入部し、10月はじめ、引渡書を受取り、知行高は、5万1,291石余りとなった。
【写真左】本丸手前の階段
二の門から本丸にかけての高低差はあまりなく、この階段も6,7段程度である。
長州征伐
その後、本多家、松平(松井)家、松平(越智)家と度々城主が代わった。
最後の松平武聡は徳川慶喜の実弟でもあったが、慶応2年(1866)6月、長州征伐(第2次)の戦いで幕軍が大敗すると、武聡は病気療養でもあったため、深夜に密かに浜田城から日本海へ脱出。
その報が後に城内に残っていた家臣らの耳に入り、このため戦意を喪失させ、同月18日、彼らは自ら浜田城に火をつけて退去した。
最後の松平武聡は徳川慶喜の実弟でもあったが、慶応2年(1866)6月、長州征伐(第2次)の戦いで幕軍が大敗すると、武聡は病気療養でもあったため、深夜に密かに浜田城から日本海へ脱出。
その報が後に城内に残っていた家臣らの耳に入り、このため戦意を喪失させ、同月18日、彼らは自ら浜田城に火をつけて退去した。
ちなみに、第一次長州征伐の命令が松江藩に届いたのは、元治元年(1864)7月23日であるが、このとき松江藩では藩内の屈強な若者を多数集めている。
【写真左】本丸
本丸は30間四方とかなり広い。説明板にもあるように、上段の西方に三層の櫓を建て、天守閣を設けていたという。
そして周囲には高い石垣を築き、塀をめぐらせ、丸、三角、四角形の窓(ザマ)を79カ所あけていたという。
【写真左】焔硝蔵から本丸方向を見る。
三の丸の東側下段には焔硝蔵というかなり広い郭がある。ここからは北西方向に見ると、三の丸・二の丸・本丸方向が控えている。
撮影 2016年6月10日
天然の地形を利用した風待港で、1672年以降、瀬戸内海から北陸を結ぶ中継点として、諸国の廻船が多数入港し、浜田藩の産業の拠点ともなった。
松江藩の中でも出雲部については、おそらく郡奉行の下に募集をかけたと思われるが、管理人の先祖・初代(文右衛門)の息子・善次郎も、口伝によればこの中に従軍し、戦地での負傷が原因で、2年後の慶応2年(1866)9月26日、死去している。享年18歳。
素晴らしい
返信削除ありがとうございます。
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