2019年9月10日火曜日

千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)

千早城(ちはやじょう)

●所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
●別名 楠木詰城・金剛山城・千早の隠れ城
●高さ 673m(比高 175m)
●指定 国指定史跡
●築城期 鎌倉時代末期
●築城者 楠木正成
●城主 楠木氏
●遺構 郭、空堀
●登城日 2016年10月12日

◆解説(参考資料 『千早赤阪の文化遺産』㈳千早赤阪楠公史跡保存会編等)
  前稿上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) から西麓を流れる千早川を遡っていくと、千早川渓谷とその支流で抉られた谷との間に屹立した山塊が現れる。実際にはその尾根後背は金剛山から延びる尾根と繋がっており、三方のみが谷を介している。別名「千早のかくれ城」ともいわれた楠木正成築城の千早城である。
【写真左】千早城の石碑
 現地に建立されている「史蹟 千早城址」の石碑。昭和14年に建立されている。






 現地の説明板より

‟史跡 千早城跡  
     所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早
     所有者 千早神社 他
     管理者 千早赤阪村長

 元弘2年(1332年)楠木正成が構築し翌年5月まで100日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。

 標高約660mで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷(ふろんたに))、西(大手口=現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150m。東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。
 五百数十段の石段を登ると、四の丸があり、それより本丸までの奥行が約300m、その比高は約30mである。

 太平記に、敵は百万騎、味方は僅かに千人足らずにて「誰ヲ憑(たの)ミ何(いつ)ヲ待共ナキニ城中二コラヘテ防ギ戦イケル楠木が心の程コソ不敵ナレ」とある。

    昭和9年3月13日 史跡指定
        文化庁
        大阪府教育委員会
        千早赤阪村教育委員会”
【写真上】案内図・その1
   金剛山に向かう「千早森屋狭山線(富田林五條線(705号線)」を南下していくと、「日本名城(千早城)」の登り口の標識があり、近くには専用の駐車場も設置されている。


護良親王の令旨

 後醍醐天皇が笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) で幕府軍の猛攻の前に敗れると、天皇は隠岐に、宗良親王(尊澄)は讃岐へ、尊良(たかよし)親王は土佐にそれぞれ流罪された。元弘2年・正慶元年(1332)のことである。
【写真左】登城口付近
中央部が登城口になる。手前の広場は駐車場、右に行けば金剛山ロープウェイの千早駅に繋がる。




 しかし、帝の長子・護良親王(もりよししんのう)(尊雲)は、ひそかに十津川周辺からしきりに令旨を発し、挙兵を呼び掛けた。これに対し、大和・河内・和泉の土豪・悪党が動き出すことになる。

 特に、楠木正成は上赤阪城(大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪) などが落城したあと、一旦落ち延び、紀伊・和泉あたりで活動を開始、幕府側の御家人たちを次々と打ち破り、天王寺周辺を支配下に収めつつあった。これに対し、幕府はこうした正成を中心とする畿内の動きを抑えるべく、軍を三方に振り分けた。
【写真左】登城開始
 初っ端から階段で始まる。登城道はほとんどこうした階段になっている。







 正面から打って出る河内道の大将には阿曽治時、護良親王が活動する大和には大仏家時、そして紀伊街道筋には名越元心をそれぞれ配置した。
 因みに、幕府軍の一員として参戦した者の中には、阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕) の高橋貞春がいる。
【写真左】延々と続く階段
 四の丸までこうした階段が途切れなく続く。しかも途中では蹴上高がかなり高くなったりするので、何度も休憩をとった。
 体力的な負担を軽くするために階段が設置されているのだが、結構膝に堪える。




千早城の籠城

 正成がこのとき一旦落城した上赤阪城にいつ頃戻っていたのかはっきりしないが、千早城における戦いの前、吉野にあった護良親王は元弘2年11月、ついに挙兵の旗を挙げた。
 そして正成自身はそれに合わせるかのように千早城に拠った。この段階では上赤阪城でも正成方の与軍は幕府方と交戦している。しかし、翌元弘3年2月、上赤阪城はついに落城、ついに詰の城である千早城にて最後の決戦が繰り広げられることになる。
【写真左】千早城案内図・その2
 上段の案内図と重複するが、この図には「四の丸」「三の丸」「二の丸」及び「本丸」と表記されている。
 縄張図ではないため、詳細な遺構は書かれていないが、およその位置関係が把握できる。


 一方、吉野(城)に立て籠った護良親王は元弘3年閏2月1日落城し、親王は高野山に奔った。千早城に籠った軍勢は『太平記』によれば、吉野・宇陀・内(宇智)の野武士ども7千余騎だったという。

 吉野・宇陀・内(内智)は千早城のある南河内郡から金剛山系の一つ久留野峠を越えた大和国の現在の五條市や、吉野郡大淀町に当たり、おそらく千早城に籠った大半は、もともと護良親王と吉野で戦った者たちだったのだろう。 
【写真左】四の丸
 五百数十段の階段を上がりきると、四の丸が出てくる。
 奥行30m前後とかなり広い。茶屋とかトイレが併設されている。
 ここからさらに三の丸へ向かう。


 さて、千早城は籠城してから3か月余り持ち堪えた。この間、四国でも倒幕の火の手が上がり、畿内・四国の混乱は幕府方にとって更なる脅威となった。

 千早城での籠城戦は正成が当初から予定していた作戦だったのだろう。冒頭でも述べたように当城は三方は囲まれているが、東南方向に伸びる尾根は金剛山系に繋がり、その先は大和国である。金剛山・葛城山を含めたこの山岳地帯は正成たちにとっては普段から往来していた場所で、不利になると、すぐに金剛山や葛城山などへ逃れることができた。まさに地の利を生かした戦略が功を奏したといえるだろう。
【写真左】なだらかな参道
 三の丸までは緩やかな坂道となっており歩きやすい。







 そして戦いを長引かせることによって、この間、畿内はもとより西国の反幕府勢力(三石城(岡山県備前市三石)参照) が蜂起する時間を与えた。この動きは隠岐に配流されていた後醍醐天皇にも知らされ、播磨の赤松一族は千早城での籠城戦の最中の3月、摂津尼崎で六波羅探題を破り、京へ進軍していくことになる。
【写真左】三の丸へ上る階段
 三の丸へは再び傾斜のついた階段を上がることになる。
【写真左】同上の階段
 御覧の傾斜角度で、階段がなかったら厳しい切岸を登らなければならない。
【写真左】三の丸
 先ほどの階段を登ると三の丸に至る。
 現在社務所などが設置されている。
 奥に再び階段があり、その階段を上がると二の丸に繋がる。
【写真左】二の丸
 やっと二の丸にたどり着く。
奥には千早神社が祀られている。
【写真左】境内側から千早神社を見る。
 前段で紹介した案内図(配置図)では、千早神社は二の丸に含まれているが、本殿などは本丸のエリアと重なっているように思われる。
【写真左】千早神社
 本丸跡に祀られている神社で、縁起は次の通り。








❝千早神社
 千早城本丸跡にもと八幡大菩薩を祀って千早城の鎮守として創建する。
 のちに楠木正成卿・正行朝臣・久子刀自を合祀して楠社と称する。
明治7年再建、同12年には更に祠を建て、社名を千早神社とする。
昭和7年現在の社殿・社務所を新築する。


 御祭神
本殿  楠木正成卿
    楠木正行朝臣
    久子刀自(正成御夫人)
 相殿 大市媛命(坂本神社)
    天太王命(下中津神社)
末社  椋木神社「大物主命」
    廣内神社「金山彦命」
    平 神社「応神天皇」❞
【写真左】本殿右奥
 このさきは神域とされ、立ち入ることはできない。
 千早城の最高所である本丸の中心部が神域と思われる。
【写真左】本殿左奥
 同じく左側から見たもので、本殿部分は切岸となって本丸へ向かう道があったものと思われる。
【写真左】本丸左側の切岸
 登城道から本丸に至るまでの尾根左右の斜面は険しい箇所が続くが、本丸部分のこの位置はさらに切り立つ斜面になっている。
【写真左】茶宴台経由金剛山登山道
 本丸(千早神社)の右側には金剛山へ向かう道が繋がっている。

 ただ、あとでわかったが、途中で左に分岐して、本丸の後背を回り込み、北の谷へ降りると、「楠木首塚」及び「楠木正儀墓」に行けたようだ。

 このあと、三の丸まで戻り、裏参道といわれる北側の谷に向かう。
【写真左】裏参道
 三の丸側に接続されている道で、急斜面に九十九折りの道となっている。
【写真左】天険の要害・その1
 この北側斜面の険峻さを目の当たりにすると、『太平記』に描かれている描写があながち大げさでないことがよく分かる。
【写真左】天険の要害・その2
【写真左】天険の要害・その3
 写真の上段部が三の丸に当たる。
【写真左】林道を使って下山
 左側が千早城になる。











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