宮島・勝山城と塔の岡
(みやじま・かつやまじょうととうのおか)
●所在地 広島県廿日市市宮島町
●別名 厳島城・陶全姜陣所
●築城期 大永年間(1524年ごろ)
●築城者 大内義興
●形態 丘城
●高さ 標高15m
●登城日 2011年12月7日
◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』、池了著「毛利元就」等)
勝山城
勝山城は、前稿「宮尾城」で述べた「厳島合戦」の際、陶晴賢軍が陣を構えた(居所)とされる丘城である。
【写真左】勝山城跡遠望
手前が厳島神社で、その奥の丘陵部に現在多宝塔が建っている箇所である。
現地には石碑が建立されているようだが、管理人は当地まで向かっていない。
勝山城の比定地は、現在多宝塔が建つ場所とされているが、管理人は勝山城の比定地を厳島神社を挟んだ反対側の五重塔が建つ場所と思い込んでいたため、当城跡は踏査していない。
築城者は大内義興とされ、大永4年(1524)ごろ安芸侵攻を目指した際築かれたという。この年の5月20日、義興は嫡男義隆と共に安芸国へ侵入、その頃尼子経久が支配していた当地の属城を攻撃していった。
これに対し、同年7~8月にかけて、経久は義興に対抗すべく、毛利元就と連合し、当時大内氏の安芸国支配の拠点であった銀山城(広島市安佐南区祇園町)を攻撃している。
【写真左】勝山城と塔の岡配置図
現地案内板をもとに作図したものだが、勝山城と塔の岡を挟むように厳島神社が位置している。
尼子・新宮党の族滅
下って弘治元年(1555)、厳島合戦において大内氏の家臣・陶晴賢を毛利元就は破り、中国地方の覇者の第一歩を歩むことになるが、元就が厳島合戦に集中できたのも、その前年の尼子氏謀略が功を奏していたからでもあった。
【写真左】新宮党屋敷跡
所在地 島根県安来市広瀬町
新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)は、富田城の北東側宮谷にあったところで、経久の二男国久が党首となって尼子氏を支えた。
その前年(天文23年・1554)11月、元就は尼子氏の内紛に絡んで謀略を計り、結果尼子氏の最強軍団であった新宮党の党首・国久及び誠久(さねひさ)は、当主晴久の手によって誅殺された。これによって、尼子氏は一気に勢力が衰えたため、元就は厳島に集中できたわけである。
塔の岡
塔の岡は、現在五重塔や秀吉が増築したといわれる豊国神社が建っている場所で、陶晴賢軍は後に勝山城からこの場所に移動している。
【写真左】塔の岡・その1
手前の低い場所が厳島神社側で、その向こう側に石垣を組んだ塔の岡がある。
前稿でも述べたように、厳島合戦の前に行った元就の諜報合戦の中で、特に有名なのは「彼我の水軍に差があり、宮尾城を攻撃されても救援は無理だ。宮尾城を築城したのは自分(元就)の大失策だった。今は晴賢が宮尾城を攻撃して来ないことを祈るばかりだ…」というような内容を故意に晴賢側に漏らすようなことをしているというものである。
【写真左】塔の岡・その2
東麓部から見たもので、麓には塔の岡茶屋という店もある。
この話を晴賢が実際に耳にしたかどうかは別にして、ともかく晴賢は厳島を落とすことを決断した。
もちろん晴賢側の全員がその情報を信じていたわけではなく、重臣の弘中隆包(たかかね)などは、元就の「おとり作戦」ではないか、それよりも元就の本拠安芸吉田を目指して、属城を攻めていった方がいいのではないかと進言したが、晴賢は「臆病風に吹かれたか」と、聞く耳を持たず決行したという。
晴賢らは9月21日、厳島に上陸し、最初に勝山城を晴賢の居所とし、その後宮尾城を見下ろす「塔の岡」に本陣を置いた。
【写真左】塔の岡・その3
五重塔
現地の説明板より
“五重塔
一、重要文化財
一、応永14年(1407)建立
一、総高 29.3m
建物の形式は禅宗様に和様を加え、特徴として屋根軒先の反りが大きい(禅宗様)入口の板扉(和様)などにみられる。”
元就が動き出したのはこの晴賢厳島上陸の報を聞いてからであった。草津城についた時は、わずか4千余騎で、このあと元就は援軍を召集すべく、現地から催促を行うことになるが、準備不足の感は否めなかった。
特に水軍力においては晴賢方と大きな開きがあり、この合戦で、村上水軍はほとんど参戦しなかったといわれるが、唯一動いた来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の支援をうけるため、宍戸隆家の娘を小早川隆景の養女とした女を通康に嫁がせた。今まさに戦端が開くという直前の縁談である。
また、直近の水軍領主・乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)にも要請したが、遅々として動きはなかった。
【写真左】塔の岡・その4
豊国神社(千畳閣)
天正15年(1587)豊臣秀吉が戦没者慰霊のため建立したといわれ、857畳分の巨大な広間があったことから「千畳閣」と呼ばれた。秀吉が没したため建物としては竣工しておらず、未完成のまま今日に至っている。
秀吉と加藤清正が祭神とされる。
こうした状況下であったため、宮尾城は次第に孤立化し、このまま手をこまねいていると当城の陥落は目に見えていた。
9月27日、元就はわずかばかりの水軍で厳島上陸を決行、隆景には小早川水軍を正面側から回航させることを命じた。
村上水軍の動きについては、前稿でも少し紹介しているが、厳島合戦で明確に記録に残っているものが少ない。村上水軍が毛利氏に支援をしたという説によれば、あくる28日に来島通康が水軍200~300艘を引き連れて来援したとされ、しかも彼らに支援を要請したのは、元就はもとより、陶軍も誘っていたため、厳島側にあった両者は、どちらに与するか固唾を飲んで見守っていたという。そして来島水軍が廿日市沖に停泊したのを見た毛利方は、どっと喜んだという。
【写真左】塔の岡から勝山城方面を見る。
写真のほぼ中央部に多宝塔が見えるが、この位置に勝山城があった。
これに対し、村上水軍は来援しなかったという説は、もし毛利方に与し功を挙げたのなら、当然毛利氏からの感状など残っているはずだが、今のところ村上水軍側にそうしたものはなく、従って来援しなかったというものである。
陶晴賢の自害
塔の岡に陣を構えていた陶軍は、結局10月1日の卯の上刻(午前5時ごろ)になって初めて毛利方に取り囲まれていることを知った。博奕尾(ばくちのお)の尾根上に本隊2500が塔の岡を見下ろし、海上では厳島神社大鳥居の先に、小早川隆景ら別働隊1500の船団が朝もやの中から姿を現した。元就の合図と共に鬨の声が上がり、ホラ貝が吹かれると、どっと塔の岡めがけて押し寄せた。文字通り「挟み撃ち」である。
兵力の大きさとは別に、陣を見下ろす尾根から逆落としの軍が迫り、浜に出れば海からの攻撃を受け、ほとんど退路を断たれる状況に陥ると、心理的にパニック状態を引き起こす。陶軍の慌てふためいた様子が想像される。
【写真左】厳島神社・その1
干潮時の様子で、奥に大鳥居が見える。
晴賢が声高に「踏みとどまれ!」と叱咤するも、軍勢は抗戦の気概もなく、逃げまどい先を争って船を奪い合い、あげくは同士討ちが始まり、辛うじて乗った船は沈没もするなど、陶軍の惨敗は目を覆うほどだったという。
敗軍の将となった晴賢は、勝敗がほぼ決まった時点で一旦自害を決意したが、側近の三浦房清に制止され、とりあえず殿(しんがり)の弘中隆包が防いでいる間に、厳島神社西南の大元浦から大江浦へと移動した。
しかし、その後青海苔浦に差し掛かったところで、毛利勢に見つかり房清は戦死、それを聞いた晴賢は、ついにこれまで、と覚悟を決め自害して果てた。享年35歳だった。
【写真左】厳島神社側から塔の岡を見る。
豊国神社及び五重塔が見える。
晴賢が自害する際残した辞世の句がある。直情型であったいわれる晴賢は、この時に及んで、まさに諦観の心境であったと思われる。(洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1) 参照)
辞世の句
「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
この有様に 定まれる身に」
毛利方の奇襲作戦によるこの厳島合戦では、陶方があげられた首級は4700余に及んだという。
【写真左】大鳥居
大野瀬戸を挟んで対岸に宮島口が見える。
(みやじま・かつやまじょうととうのおか)
●所在地 広島県廿日市市宮島町
●別名 厳島城・陶全姜陣所
●築城期 大永年間(1524年ごろ)
●築城者 大内義興
●形態 丘城
●高さ 標高15m
●登城日 2011年12月7日
◆解説(参考文献『サイト「城郭放浪記」』、池了著「毛利元就」等)
勝山城
勝山城は、前稿「宮尾城」で述べた「厳島合戦」の際、陶晴賢軍が陣を構えた(居所)とされる丘城である。
【写真左】勝山城跡遠望
手前が厳島神社で、その奥の丘陵部に現在多宝塔が建っている箇所である。
現地には石碑が建立されているようだが、管理人は当地まで向かっていない。
勝山城の比定地は、現在多宝塔が建つ場所とされているが、管理人は勝山城の比定地を厳島神社を挟んだ反対側の五重塔が建つ場所と思い込んでいたため、当城跡は踏査していない。
築城者は大内義興とされ、大永4年(1524)ごろ安芸侵攻を目指した際築かれたという。この年の5月20日、義興は嫡男義隆と共に安芸国へ侵入、その頃尼子経久が支配していた当地の属城を攻撃していった。
これに対し、同年7~8月にかけて、経久は義興に対抗すべく、毛利元就と連合し、当時大内氏の安芸国支配の拠点であった銀山城(広島市安佐南区祇園町)を攻撃している。
【写真左】勝山城と塔の岡配置図
現地案内板をもとに作図したものだが、勝山城と塔の岡を挟むように厳島神社が位置している。
尼子・新宮党の族滅
下って弘治元年(1555)、厳島合戦において大内氏の家臣・陶晴賢を毛利元就は破り、中国地方の覇者の第一歩を歩むことになるが、元就が厳島合戦に集中できたのも、その前年の尼子氏謀略が功を奏していたからでもあった。
【写真左】新宮党屋敷跡
所在地 島根県安来市広瀬町
新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)は、富田城の北東側宮谷にあったところで、経久の二男国久が党首となって尼子氏を支えた。
その前年(天文23年・1554)11月、元就は尼子氏の内紛に絡んで謀略を計り、結果尼子氏の最強軍団であった新宮党の党首・国久及び誠久(さねひさ)は、当主晴久の手によって誅殺された。これによって、尼子氏は一気に勢力が衰えたため、元就は厳島に集中できたわけである。
塔の岡
塔の岡は、現在五重塔や秀吉が増築したといわれる豊国神社が建っている場所で、陶晴賢軍は後に勝山城からこの場所に移動している。
【写真左】塔の岡・その1
手前の低い場所が厳島神社側で、その向こう側に石垣を組んだ塔の岡がある。
前稿でも述べたように、厳島合戦の前に行った元就の諜報合戦の中で、特に有名なのは「彼我の水軍に差があり、宮尾城を攻撃されても救援は無理だ。宮尾城を築城したのは自分(元就)の大失策だった。今は晴賢が宮尾城を攻撃して来ないことを祈るばかりだ…」というような内容を故意に晴賢側に漏らすようなことをしているというものである。
【写真左】塔の岡・その2
東麓部から見たもので、麓には塔の岡茶屋という店もある。
この話を晴賢が実際に耳にしたかどうかは別にして、ともかく晴賢は厳島を落とすことを決断した。
もちろん晴賢側の全員がその情報を信じていたわけではなく、重臣の弘中隆包(たかかね)などは、元就の「おとり作戦」ではないか、それよりも元就の本拠安芸吉田を目指して、属城を攻めていった方がいいのではないかと進言したが、晴賢は「臆病風に吹かれたか」と、聞く耳を持たず決行したという。
晴賢らは9月21日、厳島に上陸し、最初に勝山城を晴賢の居所とし、その後宮尾城を見下ろす「塔の岡」に本陣を置いた。
【写真左】塔の岡・その3
五重塔
現地の説明板より
“五重塔
一、重要文化財
一、応永14年(1407)建立
一、総高 29.3m
建物の形式は禅宗様に和様を加え、特徴として屋根軒先の反りが大きい(禅宗様)入口の板扉(和様)などにみられる。”
元就が動き出したのはこの晴賢厳島上陸の報を聞いてからであった。草津城についた時は、わずか4千余騎で、このあと元就は援軍を召集すべく、現地から催促を行うことになるが、準備不足の感は否めなかった。
特に水軍力においては晴賢方と大きな開きがあり、この合戦で、村上水軍はほとんど参戦しなかったといわれるが、唯一動いた来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)の支援をうけるため、宍戸隆家の娘を小早川隆景の養女とした女を通康に嫁がせた。今まさに戦端が開くという直前の縁談である。
また、直近の水軍領主・乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)にも要請したが、遅々として動きはなかった。
【写真左】塔の岡・その4
豊国神社(千畳閣)
天正15年(1587)豊臣秀吉が戦没者慰霊のため建立したといわれ、857畳分の巨大な広間があったことから「千畳閣」と呼ばれた。秀吉が没したため建物としては竣工しておらず、未完成のまま今日に至っている。
秀吉と加藤清正が祭神とされる。
こうした状況下であったため、宮尾城は次第に孤立化し、このまま手をこまねいていると当城の陥落は目に見えていた。
9月27日、元就はわずかばかりの水軍で厳島上陸を決行、隆景には小早川水軍を正面側から回航させることを命じた。
村上水軍の動きについては、前稿でも少し紹介しているが、厳島合戦で明確に記録に残っているものが少ない。村上水軍が毛利氏に支援をしたという説によれば、あくる28日に来島通康が水軍200~300艘を引き連れて来援したとされ、しかも彼らに支援を要請したのは、元就はもとより、陶軍も誘っていたため、厳島側にあった両者は、どちらに与するか固唾を飲んで見守っていたという。そして来島水軍が廿日市沖に停泊したのを見た毛利方は、どっと喜んだという。
【写真左】塔の岡から勝山城方面を見る。
写真のほぼ中央部に多宝塔が見えるが、この位置に勝山城があった。
これに対し、村上水軍は来援しなかったという説は、もし毛利方に与し功を挙げたのなら、当然毛利氏からの感状など残っているはずだが、今のところ村上水軍側にそうしたものはなく、従って来援しなかったというものである。
陶晴賢の自害
塔の岡に陣を構えていた陶軍は、結局10月1日の卯の上刻(午前5時ごろ)になって初めて毛利方に取り囲まれていることを知った。博奕尾(ばくちのお)の尾根上に本隊2500が塔の岡を見下ろし、海上では厳島神社大鳥居の先に、小早川隆景ら別働隊1500の船団が朝もやの中から姿を現した。元就の合図と共に鬨の声が上がり、ホラ貝が吹かれると、どっと塔の岡めがけて押し寄せた。文字通り「挟み撃ち」である。
兵力の大きさとは別に、陣を見下ろす尾根から逆落としの軍が迫り、浜に出れば海からの攻撃を受け、ほとんど退路を断たれる状況に陥ると、心理的にパニック状態を引き起こす。陶軍の慌てふためいた様子が想像される。
【写真左】厳島神社・その1
干潮時の様子で、奥に大鳥居が見える。
晴賢が声高に「踏みとどまれ!」と叱咤するも、軍勢は抗戦の気概もなく、逃げまどい先を争って船を奪い合い、あげくは同士討ちが始まり、辛うじて乗った船は沈没もするなど、陶軍の惨敗は目を覆うほどだったという。
敗軍の将となった晴賢は、勝敗がほぼ決まった時点で一旦自害を決意したが、側近の三浦房清に制止され、とりあえず殿(しんがり)の弘中隆包が防いでいる間に、厳島神社西南の大元浦から大江浦へと移動した。
しかし、その後青海苔浦に差し掛かったところで、毛利勢に見つかり房清は戦死、それを聞いた晴賢は、ついにこれまで、と覚悟を決め自害して果てた。享年35歳だった。
【写真左】厳島神社側から塔の岡を見る。
豊国神社及び五重塔が見える。
晴賢が自害する際残した辞世の句がある。直情型であったいわれる晴賢は、この時に及んで、まさに諦観の心境であったと思われる。(洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1) 参照)
辞世の句
「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
この有様に 定まれる身に」
【写真左】大鳥居
大野瀬戸を挟んで対岸に宮島口が見える。
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