2020年7月22日水曜日

平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)

平島館(ひらしまやかた)

●所在地 徳島県阿南市那賀川町古津字居
●別名 阿波公方館、平島塁
●築城期 天文3年(1534)
●築城者 足利義維
●城主 足利氏(義冬・義助・義種)、平島氏(義次、義景、平島義辰、義武、義宜、義根)
●遺構 土塁
●備考 阿波公方・民俗資料館
●登城日 2017年3月4日

◆解説
 徳島県を流れる大河として有名なのは吉野川だが、県内区域内でもっとも幹川流路延長が長いのは剣山を源流とする那賀川である。この那賀川沿いに築城された山城としてこれまで紹介したのは、上流部の仁宇城(徳島県那賀郡那賀町仁宇)、そして中流域では上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)があった。
 今稿で紹介するのは、下流域に築かれた館跡とされる阿波・平島館、別名阿波公方館である。
【写真左】平島館
 平島館の所在地である古津という地名からも分かるように、足利義冬が当地に移ったころ(天文年間)、このあたりは多くの中洲状の島が点在していた。

 古津には古津湊があり、その北方の中洲には手島、今津浦、色ヶ島などがあり、さらに北の江野島などに多くの船が往来していた。従って、当時の平島館は海城形態の城館だったことが推測される。
 写真は平島館に残る土塁の一部

現地の説明板より

”阿波(平島)公方

 戦国時代の動乱の中、将軍継承争いに敗れた足利義冬は、阿波の守護細川氏に迎えられ、天文3年(1534)那賀川河口の平島庄(ひらしましょう)に移り住んだ。これが阿波(平島)公方の始まりである。

 平島庄は足利家ゆかりの天龍寺領であった。義冬は上洛の機会をうかがいながらも、病に倒れてしまったが、その子足利義栄(よしひで)がついに上洛を果たし、永禄10年(1568)に征夷大将軍に任じられ、14代将軍となった。しかし、将軍職も織田信長の登場によって、わずかな期間で失い、まもなく阿波の撫養の地で病死した。
【写真左】平島館遠望
 阿波公方民俗資料館がすぐ近くにあり、そこから歩いておよそ100mほど向かった田圃の中に見える。



 江戸時代になると、歴代阿波公方は徳島藩主蜂須賀家の政策により、公方の権威を引き下げられ、圧迫した生活を余儀なくされた。その中にあって、9代公方義根(よしもと)は、漢文学に優れた才能をあらわし、「棲龍閣(せいりゅうかく)詩集」に多くの秀作を残している。

 しかし、公方に対する蜂須賀家の圧迫は一段と厳しくなり、ついに文化2年(1805)に阿波国を退去するに至った。那賀川赤池の西光寺には室町幕府10代、14代将軍をはじめ、歴代阿波公方の墓石を残し、民間に幾多の伝承を伝え、往年の面影をしのばせている。”
【左図】阿波公方系図
 民俗資料館の展示ブースに掲示されていたものを管理人によって少し加工したもの。

 文字が小さいため分かりずらいが、義冬を初代とし、以下赤字で示したものが阿波公方の系譜となる。









阿波公方

 大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)でも紹介したように、室町幕府10代将軍は大内義興の支援を受けて足利義稙がその座に着いた。しかし、その後義稙は、管領細川高国の専横が激しくなると対立、大永元年(1521)細川晴元・持隆を頼り京都を出奔、阿波国撫養にたどり着いた。その後当地で病没することになる。
【写真左】足利義稙像
 室町幕府第10代将軍。
民俗資料館に展示されている義稙の像。
寛正5年(1464)誕生。父は8代将軍義政の弟・義視で、母は日野富子の妹である。従って、足利家の兄弟と、日野家の姉妹同士がそれぞれ縁組していることになる。

 結果的に彼は延徳2年(1490)に第10代将軍となり、一旦退いたものの、永正5年(1508)再び将軍に復帰し、細川高国と対立するまで約13年間その座に就いたことになる。大永3年(1523)58歳で死去。



 義稙の養子・義冬(別名:義維(よしつな))は、永禄年間那賀郡平島庄・西光寺に入り古津の平島館を修築してここに移り、父に代わって将軍になるべくこの阿波から天下を窺った。のちに阿波公方の初代となるのがこの義冬である。
【写真左】平島館
 義冬は当初古津の平島塁(現資料館)を改築して公方館とし、およそ南北110m×東西110mの方形屋敷を構え、周囲には堀を巡らし、那賀川支流の苅屋川から水を引き入れた。
 義冬の住む居館や重臣の住宅もこの中に数棟建てた。意匠的には京の公家屋敷と武家屋敷が混在する景観だったという。



 ところで、義冬を阿波平島庄に斡旋したのは、前述したように細川持隆(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)だが、このとき、当庄と併せ近隣の吉井・楠根・仁宇・鷲敷を宛がわれた。

 いずれも那賀川沿いに集積する地域で、吉井・楠根は仁木氏の居城・上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)に隣接するところで、仁宇・鷲敷は当川をさらに遡った那賀郡那賀町内で、仁宇城でも紹介したように、細川氏所縁の地である。これらを併せて三千貫だったが、義冬に随従した家臣がそれぞれの家族を合わせておよそ360人前後だったため、この貫高ではとても満たせず、幾人かを本国に帰国させている。
【写真左】阿波公方民俗資料館
 平島館の土塁の西側には阿波公方関係の史料が展示されている阿波公方民俗資料館がある。



 上大野城の稿でも述べたように、義冬は三好三人衆らの支援を受け息子の義栄を第14代室町幕府将軍にさせたが、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢力に圧され、しかもその最中に義栄が病死したため、再度阿波に引き上げた。
【写真左】足利義冬像
阿波公方初代。
 上述したように、義稙に子供がなく、11代将軍義澄の子・亀王君が義稙の養子となり、後に義冬を名乗る。

 母は阿波守護・細川成之の娘(清雲院)で、義冬は後に周防大内義興の娘を妻としている。
 阿波公方となる前は、和泉国堺において異母兄である将軍足利義晴と対峙し、自ら幕府の体制を敷き、堺公方とも呼ばれた。



 阿波公方はそれでも一縷の望みを持ち続け、義冬の弟義助は当地平島館にあって、上洛の機会を窺うべく、支援者であった阿波細川氏などに期待を寄せていたが、細川氏の滅亡さらに、三好一族は土佐の長宗我部氏の阿波侵攻により滅び、上洛の方途は閉ざされることになる。
【写真左】足利義栄像
 室町幕府第14代将軍。
 天文7年(1538)義冬の長男として平島で誕生。永禄9年(1566)父義冬に代わって京都に上り、従五位に叙せられ左馬頭に任ぜられる。

 2年後の永禄11年(1568)2月に征夷大将軍に任ぜられ名前を義親から義栄と改める。
 同年9月、足利義昭を奉じて京に攻め上った織田信長に攻められ、阿波に奔走。10月撫養で病没。享年31。



 その後、義稙、義次、義景、義辰、義武、義宜、義智と阿波公方の系譜は続いたが、9代義根に至って徳島藩主・蜂須賀家により阿波国退去を命ぜられ、約250年続いた阿波公方・平島館はここに歴史の幕を閉じた。


蜂須賀氏

 ところで、江戸期における阿波国の藩主は蜂須賀家であるが、それ以前の天正13年(1585)に当時秀吉の家臣であった蜂須賀家政が最初に当国に入っている。家政の父は正勝である。当初秀吉は四国攻めなどで武功を挙げた正勝に阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕えることを選んだため、秀吉はその子家政に阿波国を与えたという。
【写真左】徳島城
 徳島城の前身は室町初期に細川頼之が築いた渭水城(いすいじょう)ともいわれ、後に家政が修築して徳島城とした。





 家政が最初に入城したのは一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)で、その後徳島城を築城することになる。
 関ヶ原の戦いでは東軍方に属した形になり、淡路国も加増され25万石余の大名となった。
【写真左】蜂須賀家政像
 この像は徳島城内に建立されている。家政は跡を継いだ嫡男・至鎮が夭折したため、孫の忠秀の後見をすることになり、結局寛永6年(1629)まで徳島藩の政務を取り仕切った。その後寛永15年に81歳で亡くなる。

 晩年の寛永元年(1624)、平島公方家に館の修理資材などを下賜しているので、当時家政としては阿波公方に対しそれなりに敬意を払っていたのだろう。


 阿波公方が途中から足利から平島姓を名乗るようになったのは、義次の代(4代)からであって、命じたのは蜂須賀家政である。もっとも阿波公方側では公式には平島姓を名乗っていたものの、一族自身では足利姓を自認し代々名乗っていた。


西光寺

 説明板にもあるように、平島館からJR牟岐線を東に向かった阿波中島駅の南には、西光寺という寺院があるが、ここには平島公方墓所として一族の墓が祀られている。
【写真左】西光寺
所在地:徳島県阿南市那賀川町赤池185番地
 山号 己心山
 宗派 真言宗大覚寺派
 本尊 薬師如来



現地の説明板より

❝平島公方墓所
 平島公方一族の墓は義稙・義冬・義栄の3基を含め、この墓所内に23基を数えることができる。しかし、昭和17年の西光寺の火災のため国宝の阿弥陀如来をはじめ、貴重な古文書を焼失し、さらに過去帳も廃燼に帰したため、公方の墓についても調査は困難を極め、現在判明しているのは案内標柱のある14基のみである。
【写真左】足利義稙の墓
 中央のものが義稙の墓である。









 なお、8代平島公方義宜の時代に、京都の名儒島津崋山(1737~94、那賀川町熊氏須賀墓地に墓あり)を招いて、子弟を教育し、9代公方義根の時代には阿波国南方地域における漢文学の中心地の観を呈していたが、その当時平島館に出入りしていた数多くの文人のうち、医者であり儒学者でもあった高橋赤水(1769~1848)の墓も当墓地内にあり、その壁面には江戸末期の大書家貫名菘翁による書が刻まれている。
   阿南市教育委員会”
【写真左】足利義冬の墓
 義稙の右側に義冬の墓が隣接している。
【写真左】2代公方 義助の墓
左側に義助の墓があり、その右に義冬室(大内義興の女)、さらに右には義冬の母の墓がある。
なお、写真には入っていないが、義助の墓の左には義助の室で、周防柳沢氏の女の墓がある。
【写真左】5代義景の弟・義国の墓
 墓の形式から見ると、晩年は出家したようだ。
【写真左】7代義武の墓
 写真の右側にあるのが、7代義武で、その左に弟・義人の墓がある。
 また、奥には8代義宜の長子・義智の墓がある。


【写真左】石川政子の墓
 彼女は阿波公方8代の義宜の室。
【写真左】義人の子・義智室琴和の墓
 義人は7代義武の弟で、その娘が琴和である。彼女は、8代義宜の長子・義智に嫁いでいる。系図から見ると、琴和が年上妻になるかもしれない。
【写真左】墓所全景
 このほか阿波公方関係の墓を記したものが数基あるが、省略させていただく。





◎関連投稿

2020年7月8日水曜日

堤城(鳥取県北栄町北条島)

堤城(つつみじょう)

●所在地 鳥取県北栄町北条島
●別名 津々見城
●高さ 標高60m(比高50m)
●形態 平城
●築城期 不明(承平年間 931~38)
●築城者 不明(長田氏、山田氏)
●城主 山田出雲守重直、十六島氏(越振氏)
●登城日 2020年6月16日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く【鳥取編】』加賀康之著 ハーベスト出版、HP「山城攻略記」、『鳥取県の歴史 県史31』内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門著 ㈱山川出版等)

 堤城については前稿伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎) でも触れているが、それ以前では八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋) の稿でも取り上げている。
 所在地は、伯耆・松崎城から西へ直線距離で8.2キロの位置に在り、東方を北条川が南北に流れる。また、当城に最も近い戦国期の史跡としては、茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)が 北東1.7キロの位置にある。
【写真左】堤城
 東側を流れる北条川の橋付近から見たもので、前方の家並み全体が当時の堤城とされている。




現地の説明板より

❝堤城跡 ~中世豪族の館~

 ここは蜘ヶ家山(くもがいやま)を中心とした丘陵地の東、半島状の小さい丘にあたり、「伯耆民談記」に北条郷嶋村(現 北条島)にあったと記される「堤城」と考えられる場所です。
 堤城は小字「城之内」を中心に広がると見られ、江戸時代末の天保期に作られた絵図面では小高い丘が描かれていますが、現在は家が建て込んでおり、城郭の構造など詳細はわかっていません。
【写真左】堤城の説明板
 川岸の民家に設置されているもので、奥の民家は後段で紹介している当城の最後の城主越振(十六島氏)の後裔とされる東地氏の家。



 この城に拠ったのは山田氏です。山田氏は北条郷にあった京都石清水八幡宮の所領として知られる「山田別宮」(現 北条八幡宮)周辺の地にあって、管理者として鎌倉時代頃からの記録にその名が見られます。戦国時代に登場する山田出雲守重直は、羽衣石城の南条氏の重臣として活躍しますが、永禄年間(16世紀中頃)に毛利氏に従い、所領を安堵されています。
 関ヶ原の戦いの後、毛利氏一門の吉川氏の家臣となり、周防国(現山口県東南部)岩国の地に移っていきました。

 堤城は大規模な城郭ではありませんが、関係資料も伝わっており、郷土史を語る上で重要な史跡の一つといえるでしょう。
          北栄町教育委員会❞
【写真左】堤城絵図
 説明板の中に添付されている絵図で、天保年間といわれるので、江戸末期のもの。右方向が北を示し、中央が堤城を記す。堤城の下を斜めに流れているのは当時の北条川。
 なお、おそらくこの絵図で囲まれた範囲とほぼ合致すると思われるのが下の図である。
【写真左】堤城位置図
 現在の島集落の配置図で、管理人によってその個所を特定し、着色(黄土色)した箇所が堤城跡と思われる。右側をまっすぐに伸びるのは近代になって整備された北条川と国道313号線。


山田氏

 『鳥取県の歴史 県史31』によれば、城主とされている山田氏は、紀姓で朱雀天皇の承平(931~38)の頃より当国に居住し、連綿として子孫代々この城を居城としていたという。そして、当初長田氏を称し、その後山田氏を名乗ったとされている。

 山田氏の記録が現れるのは、後段で紹介する北条八幡宮(山田別宮)が、平安時代中期、山城国の石清水八幡宮から勧請されているが、その主体者が当時の堤城主山田山城守頼円とされている。
【写真左】北条川に架かる橋から見る。
 奥が北を示し、右側の川が北条川。左側に説明板が設置されている。
 北条川は現在まっすぐに北に延びているが、天保絵図でも示されているように、当時は堤城の北側に大きく蛇行していたと思われる。


 戦国時代の天文年間(1532~55)になると、山田氏の居城堤城は出雲の尼子晴久の東伯耆侵攻で落とされ、山田高直は城を追われた。しかし、その後高直の嫡男重直が永禄3年(1560)当城に返り咲いたとされている。そのきっかけは毛利氏の支援を受けたことからといわれていることもあり、このころ堤城主であった山田氏は、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)の南条氏の重臣とされていたものの、自らは毛利氏の家臣としての自覚が強かった。
【写真左】北側の道路から東を見る。
 橋を渡って北側の路地のような道路に入り振り返ったもので、右側の民家などが堤城区域となる。
 因みに、絵図や現在の集落状況から考えると、当時の堤城は東西150m×南北60m前後の規模を持つ城館だったと考えられる。

 

 伯耆・松崎城でも触れたように、天正3年(1575)南条宗勝が亡くなると、嫡男元続が家督を引継ぎ、元続は毛利氏から離反し、織田方につく姿勢を示した。これに対し重直は度々元続に翻意を促すよう迫ったが、元続はそれを聞かず、それどころか、ついに元続は重直の居城・堤城を攻撃するに至った。天正7年(1579)9月のことである。因みに、元続はさらに毛利方となっていた河口城(鳥取県東伯郡湯梨浜町園) もこの時期攻撃している。
【写真左】南側の道路
 おそらく江戸時代の道(路地)がそのまま残っているのだろう。
 何か所か屈曲した箇所が見られる。



 重直は元続の攻撃にかろうじて逃れ、嫡男・信直と共に鹿野城(鳥取県鳥取市鹿野町鹿野) へ向かった。そして、重直は改めて毛利氏(吉川元春)の臣下となり、南条氏攻撃の先鋒に立つことになる。天正10年(1582)ついに南条元続の拠る羽衣石城を自らの手で堕とし、武功を挙げた。

 ところが、こうした活躍を挙げたものの、恩賞は久米郡内の28石で、しかもその2年後の天正12年から13年にかけて行われた秀吉と毛利輝元の領土交渉、すなわち「京芸和睦」によって、因幡と伯耆東三郡は豊臣領へ、伯耆西三郡が毛利領となったことから、久米郡は南条領(豊臣領)となったため、重直はこの地を領地できず、西伯耆の会見郡小鷹城に移された。
【写真左】小鷹城
所在地:西伯郡南部町福成
別名・柏尾城とも呼ばれ、山田重直が居城とした。当城についてはいずれ別稿で取り上げたい。




 もっとも、山田氏の庶流であろうか、堤城から北へ300mほど向かった北尾にある山田氏の居館の一つとされる「堤屋敷」跡に残る墓地には、「山田氏累代の墓」が数基建立されているので、一族全員が会見郡へ移ってはいない可能性がある(山田氏庶流の一部が当地に残った可能性もある)。
【写真左】堤屋敷
 堤城から北へ向かうと、隣の集落北尾に繋がるが、その一角には丘状の台地がある。これが堤屋敷があったところとされている。



【写真左】山田家代々の墓・その1
 現在堤屋敷跡は北側に墓地があり、南側は野地となっているが、元は畑地だったようだ。
 この墓地には山田家と刻銘された墓石が3,4基建立されている。
【写真左】山田家代々の墓・その2
 現在は新しい墓石が多いが、写真にあるように五輪塔をはじめ古い墓も残されている。
 登り口に数体の地蔵仏があったので、ひょっとして江戸時代はこの堤屋敷跡に寺院が建てられていた可能性もある。


越振氏十六島氏

 さて、山田氏が堤城から去ったあとは、南条元続の家臣といわれる越振氏が入城したといわれる。越振は「おつふるし」又は「うつぶるいし」もしくは「うっぷるいし」と呼称される。

 越振氏は伯耆国の国人領主で、『伯耆民談記』『羽衣石南条記』には、十六島(うっぷるい)の名で出ている。越振氏は、伯耆国東部河村郡合田(現・湯梨浜町羽合地域)を本拠とし、室町時代中期に在地領主としてあったとされる。それ以前の領主は河村氏であったとされ、実力で越振氏が奪い取ったのか分からないが、いずれにしろ明応元年(1492)秋には、山名尚之被官として「越振飛騨守」の名が残っている。
【写真左】北条八幡宮
 平安時代に当時の堤城主山田山城守頼円が勧請した北条八幡宮(山田別宮)。
 堤城から北西へ直線距離で800mほど向かった標高60m余の山頂部に建立されている。



 山名尚之は、当時の伯耆守護であったが、これに敵対する反守護勢力で尼子経久の支援を受けていた山名澄之と守護職を争い、永正3年(1506)以前に没落している。

 この後、越振氏は紆余曲折した後、南条氏の家臣となっていく。「京芸和睦」の後、越振氏は山田氏の居城であった堤城に入城した。現在当地北条島の集落内にある堤城跡に建つ東地家に「城主・宗太郎」の供養塔があるが、当家記録(過去帳か)に記載されているのが、十六島宗太郎という人物で、彼が堤城の城主であったといわれる。
【写真左】精緻な彫刻
 拝殿から本殿にかけて地垂木や手挟みには見事な彫刻が施されている。






 
 十六島・越振氏については、別稿で取り上げる予定だが、前述したように同氏初代は、もともと伯耆国に在した黒美信基という武将で、南北朝期名和氏及び塩冶氏に仕えた。
 
 康安2年(1362)、出雲十六島の高島城に移り、ここで十六島氏を名乗ったといわれる。その後、永正年間ごろに再び伯耆に戻り南条氏に仕えたといわれる。
【写真左】高島城遠望
 所在地:島根県出雲市十六島町

 別名:十六島城ともいう。
 南側の海岸部(十六島湾)から見たもので、現在主郭跡には発電用の風車が設置されたため、主郭付近の遺構はほとんど消滅していると思われる。

2020年6月25日木曜日

伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎)

伯耆・松崎城(ほうき・まつざきじょう)

●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎
●別名 亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城、松ケ崎城
●高さ 標高21m(比高17m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 小森和泉守方高(まさたか)
●遺構 郭・石垣
●形態 海城か
●登城日 2017年2月24日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之著等)
 松崎城は鳥取県の中央部にある東郷湖(池)の東岸部に築かれた平城である。近年まで当城址には、地元の小学校(桜小学校)が建っていたが廃校となり、現在は校舎とその周りに校庭の跡が残っている。
【写真左】松崎城遠望
 南側から見たもので、手前が東郷湖で、奥には天正9年(1582)、秀吉が羽衣石城の南条元続を救援するため布陣した御冠山が控える(馬の山砦(鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津)参照。



現地の説明板より

”松ヶ崎城址

 またの名を亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城といい、羽衣石城主南条氏の与力(侍大将)である小森和泉守方高(まさたか)が、天正年代居城していた。この時代は織田信長が羽柴秀吉に毛利氏を攻めさせていた時代で、この二大勢力にはさまれて土地の武士は複雑な戦いに巻き込まれていた。

 小森和泉守は、南条方を離れようとして、進ノ下総免之に攻められ、討ち取られたのが天正8年9月(1580)であったと伝えられている。
【写真左】松崎城の西端部
 写真の左側が松崎城に当たる。
 現在松崎城(旧桜小学校)の北西側を下ったところには、東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターという建物が建っているが、当時はこの付近も湖だったと思われる。



 その後進ノ下総が城主となったが、南条氏が関ヶ原合戦で参加して敗れ、その後は羽衣石城とともに壊されてしまった。

 当時の石垣に使われた石が、桜小学校の建設の時、沢山出てきたのでその石によって築いてある石垣が、この説明板後方の石垣で、割れ口の一部に、くさびのあとが残っている。

  昭和61年7月1日
   創立30周年記念事業推進委員会“

【写真左】北側から見上げる。
 さきほどの位置から松崎城を見上げたもので、桜小学校の校舎の一部が見える。
 この位置からの比高は18m前後だが、法面などの改修工事などを見ると、当時はかなり急傾斜の崖だったと思われる。

 何れにしても松崎城の周辺部は戦国期には東郷湖に突き出したような形の海城であった可能性が高い。



 小森方高(こもり まさたか)

 松崎城の築城期や築城者は不明だが、戦国期における当城の城主は小森和泉守方高といわれている。彼は松崎城から南におよそ5キロほどむかった羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の城主南条元続の家臣であった。
【写真左】旧桜小学校の校舎
 松崎城跡に建てられた校舎。建設当初はおそらく郭や土塁といった遺構もあったのかもしれないが、校庭や校舎を建てる際殆ど改変されたと思われる。

 ただ、校舎裏の北東部の一角には石垣に使われたとおもわれる石が現在も残してある(下の写真参照)。


 南条元続の父は宗勝(国清)である。宗勝は一時期尼子氏の傘下に入るが、その後伯耆を離れ各地を転々したあと、毛利氏の支援を受け永禄5年(1562)、羽衣石城を20年ぶりに奪回、所領地を回復している。このとき周辺部である東伯耆の国人衆を家臣団に組み込んでいるので、この段階で松崎城主の小森方高も南条氏の傘下に入ったのだろう。
【写真左】石垣用の石・その1
 説明板にもあるように、小学校建設当時でてきた石で、石垣に使われたと思われるもの。



 南条元続が家督を相続したのは宗勝が死去した天正3年(1575)である。備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田) でも述べたように、毛利氏が中国地方を支配下に治めようとしたとき、秀吉をはじめとする織田軍が次第に西進し、播磨・但馬を拠点に毛利方と全面対決の様相を呈すると、羽衣石城の南条元続も宇喜多直家と同じく、毛利氏から離反した。

 南条氏が毛利氏から離反することとなったきっかけが、直家の動きと関連するように見えるが、むしろこの年(天正3年)の6月、尼子再興軍が因幡・若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町) を攻略しているので、このとき元続は尼子再興軍からの勧誘があったのかもしれない。
【写真左】石垣用の石・その2

 御覧のようにクサビの跡がくっきりと残っている。






 このため、毛利氏は天正8年(1580)、羽衣石城に猛攻撃を開始、このとき、南条方にあった松崎城主・小森方高も当城(羽衣石城)に籠城している。

 しかし、方高はこのころ、親交のあった堤城(北条町島)の山田出雲守重直が、南条氏との不和から討たれて以来、主君(南条氏)に全幅の信頼を寄せていなかった。これを知った尾高城(鳥取県米子市尾高) の城主・杉原元盛(大林寺(島根県出雲市平田町)参照) は、小森氏に使者を送り、毛利方につくよう勧めた。
【写真左】石垣用石から校舎方面を見る。
 この石がどのあたりで使われたのかはっきりしないが、松崎城が冒頭でも述べたように東郷湖に突き出すような丘陵部に築かれたことを考えると、湖岸周囲で使われていたのかもしれない。


 これにより方高は、やがて南条氏から離反、毛利方につくこととなった。その手始めとして羽衣石城の北方にある小鹿谷の上山を固め、進(しん)下総守の陣所に夜討ちをかけようとした。

 因みに、進氏は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下) でも述べたように、もともと寛正5年(1464)、山名教之の代に西伯耆の守護代として活躍していたが、このころ(天正年間)同氏は去就をはっきりさせていなかったものの、南条氏に与する状況となっていたようだ。

 ところが、小森氏の配下に進氏と繫りを持つものがいて、この密計が同氏に注進された。このことはやがて羽衣石城の南条氏にも伝わり、南条氏も進氏に加勢することになった。
【写真左】松崎城から羽衣石城方面を遠望する。
 松崎城から羽衣石城までは直線距離でおよそ4.5キロある。
 この写真では右側の山塊の奥にあると思われる。


 方高の謀が両氏に漏れていることを知らず、同年9月20日の夜、200余騎を率いて下総の陣所を攻めようとしたところ、果せるかな進下総が逆に急襲してきたため、寄手はさんざんに討たれ、百余名が討死、方高も小鹿谷から東郷川を2キロ余り上った別所村に敗走した。しかし、その後敵に見つかり討ち取られた。頸はその後羽衣石城に送られた。

 現在この別所には「小森さんの墓」といわれる小森方高和泉守の塚が祀られているが、別所村(現 湯梨浜町別所)は、当時小森氏の領地であったことから、地元の住民がその後遺体を請い葬ったといわれている。
【写真左】松崎城から東郷湖を見る。
 松崎城の北麓部で、最初に紹介した東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターの埋め立て部分が見えている。



松崎神社

 ところで、松崎城から南に倉吉青谷線(県道22号線)を超えると松崎神社が建立されている。

 詳しい縁起は分からないが、現地の説明板には「往古城下町松崎大明神ト称シ鎮座セラル 当時松崎城主山名氏 羽衣石南条氏崇敬セシト伝フ ……」とある。
【写真左】松崎神社鳥居
 県道22号線の途中から並行して東に南北に伸びる道路があり、やや南側に参道入口がある。



 小森氏の名が記されていないが、当社は小森氏の領地として最も近接した場所であるので、おそらく松崎城主であったころは、小森氏が最大の同社庇護者であったと思われる。
【写真左】本殿
 この日参拝したときは、2016年10月の鳥取県中部地震で本殿が被災したまたの姿だった。おそらく現在は復興していると思われる。


 さて、現在は上述したように松崎城と松崎神社の間は県道22号線が走り、間を隔てた低地が介在するが、もともと松崎城は松崎神社側から伸びてきた舌状丘陵の尾根先端部に当たり、当時はこの県道部分も尾根筋としてあったものではないかと推測される。
 このためか、松崎神社の境内北西端には郭状らしき遺構も確認できる(写真参照)。
【写真左】郭状の段
 境内奥の北側部分で、雑木などがあるため分かりづらいが、小郭が認められる。
【写真左】東側
 この個所にも段が認められる。
【写真左】神木とされる椎の木
 当社の境内には椎の木を中心とする常緑広葉樹が多く、特に40数本ある椎の木のうち、写真に見えるものは、目通り6m、樹齢350年以上といわれる古木。

2020年6月14日日曜日

千光寺山城(広島県尾道市東土堂町)

千光寺山城(せんこうじやまじょう)

●所在地 広島県尾道市東土堂町
●別名 権現山城
●高さ 106m(比高100m)
●築城期 永禄年間(1558~70)
●築城者 杉原元清
●遺構 郭
●備考 千光寺公園
●登城日 2017年2月16日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)

 先ごろ、尾道三部作をはじめ自身の郷里尾道を題材にした作品を作りづけた映画監督・大林宣彦氏が亡くなった。また大林監督の前には下関出身の佐々部清監督も急逝した。二人とも管理人の好きな映画監督だったので、こうも立て続けにお二人が亡くなられると驚きと悲しみを禁じえない。

 さて、その大林監督の出生地は、尾道市東土堂町だが、同町には尾道観光の代表的な史跡である千光寺がある。

 千光寺の開基は平安時代のはじめ大同元年(806)といわれ、その後源氏の多田満仲(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)中興と伝えられる。現在周辺部は千光寺を中心として観光施設も兼ねた千光寺公園となっているが、戦国の一時期、千光寺山城という城郭が築かれていた。
【写真左】千光寺公園
 公園内の一角に設置されている石碑









 現地には当城に関する説明板のようなものはないため、とりあえず千光寺等の由来を示したものから紹介しておきたい。

現地の説明板より

千光寺山御案内

 皆様千光寺へようこそ御参拝下さいました。
 千光寺は大同元年(806年)の開基と伝えられ、往古から霊験あらたかな信仰と比類のない景勝の寺として広く知られております。又千光寺公園は明治36年(1903年)時の多田實因圓千光寺住職が公園敷地として尾道市へ寄付した寺領約4,452㎡(1,347坪)を以てその発祥とし、其後昭和32年尾道市の懇請により、公園補用地として寺領の一部約33,000㎡(約1万坪)の管理運用を市当局に委嘱し、現在に至っております。
【写真左】千光寺案内図
 尾道市観光案内図で、赤い線で囲んだ箇所が千光寺山城の領域となる。








 天下の眺望に自然と人工を配し、尾道観光の拠点でもあります。
 就いては、山内に於いて左記事項を厳守下さいますよう当山からもお願いいたします。

一、焚火等火災の惧れある行為をしない。
一、寺領内を無断使用しない。
一、車両の駐車はしない。
一、石碑文の拓本ずりをしない。

中国観音霊場第十番札所  千光寺”
【写真左】千光寺公園内
 千光寺山城は山頂にある千畳敷と呼ばれる郭(岩)を主郭として広がっていたものとされている。

 この日はその千畳敷や、尾根上北端部にある天守が建っていたとされる八畳岩(大岩)などは探訪していない。



木梨杉原氏

 築城者は木梨杉原氏といわれている。同氏については以前取り上げた鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)でも紹介しているように、千光寺山城から 北へおよそ8キロほどむかった木ノ庄を本拠とし、南北朝初期以来戦国末期まで約250年続いた一族で、杉原信平・為平兄弟を祖とする。
【写真左】鷲尾山城遠望
 南側から見たもの。
撮影日:2010年1月30日






 千光寺山城は、木梨杉原氏の7代元恒が天正12年(1584)に築いたとされるが、『善勝寺文書』あるいは福善寺に残る過去帳には、元恒の父元清(隆盛)が千光寺山城主で、同(天正)4年に尾道で没したと記されている。このことから築城期はそれ以前の永禄年間から築城が始まっているともされている。
【写真左】千光寺・その1












 その後、元恒の子広盛の代となる天正19年には秀吉による山城築城停止令が出され、広盛は再び木之庄の鷲尾山城山麓に居館を構えて移ったとされ、千光寺山城はその後廃城となった。

 このことから、当城の存続期間は長くみても30年ほどで、このためか現在でも城郭としての遺構はあまり明瞭に残っていない。
【写真左】千光寺・その2
【写真左】千光寺山城遠望
 千光寺山から東へ1.3キロほど離れた古刹浄土寺から見たもの。

 中央には千光寺山へ向かうロープウェイが見える。





陣幕久五郎

 ところで、千光寺山城や中世史とは全く関係がない近世の話になるが、たまたま当地を探訪したおり、下段で紹介している江戸期の横綱・陣幕久五郎の銅像があったので、番外編として紹介しておきたい。

【写真左】陣幕久五郎の銅像
 千光寺公園には、江戸時代末期に活躍した第12代横綱・陣幕の銅像がある。

 墓は千光寺の南側にある光明寺にあるようだ。
【写真左】平成10年10月大相撲尾道場所の碑
 尾道瑠璃ライオンズクラブCN35周年記念事業で建立されたもので、陣幕の銅像の脇にある。



 横綱 貴乃花 曙 若乃花
 大関 武蔵丸 貴ノ浪
 関脇 千代大海 貴闘力
 小結 武双山 出島 

などの力士名がが刻まれている。


 今は昔ほど見なくなったが、管理人は子供の頃より、栃錦、若乃花(先々代)、朝潮、そして大鵬・柏戸などの時代にはテレビを食い入るように見ていた。あの頃は個性的な力士が多く、特に小兵の力士が大柄な力士を打ち負かすと実に面白かった。当時お気に入りの力士としては、曲者(くせもの)といわれた岩風や、小さい体の割に大技を連発していた若浪が印象に残っている。

 さて、この陣幕だが、本名は石倉槙太郎といい、管理人の住む出雲国の出身である。誕生地は現在の松江市東出雲町下意東という中海に面した場所で、生家は既に無いようだ。 
【写真左】陣幕久五郎碑・その1
所在地 島根県松江市東出雲町下意東
参拝日 2020年6月12日






 貧しい農家の生まれだったが、相撲取りとしての力は当初からあったのだろう、弘化4年(1847)大阪相撲の巡業に飛び入り参加し、自信を持った彼はその後尾道の土地相撲に加入。
 地元の郷土力士・初汐久五郎の弟子となった。その後嘉永元年(1848)、大阪相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となり、嘉永3年11月初土俵を踏む。
【写真左】陣幕久五郎碑・その2
 「日本横綱力士陣幕久五郎通高碑」と筆耕された石碑。

 引退後歴代横綱力士の顕彰、建碑に専心したこともあって、当地にあるこの石碑も自らが明治6年に建立したもの。

 このため、晩年の彼を「建碑狂」と揶揄する者もあったという。 



 その後江戸相撲に加入し秀ノ山部屋へ所属。このころ江戸相撲の力士は部屋所属とは別に、全国の大名・藩が「抱え力士」を持っていたので、陣幕は当初徳島藩の抱え力士として出発した。
 しかし、その後出身地の松江藩の抱え力士となったが、しばらくして今度は薩摩藩に移った。いまでいうプロ野球のトレードのようなものだったのだろう。

 幕内在位は19場所で、通算幕内成績は87勝5敗17分、3預かり、65休。勝率.946。横綱在位はわずか2場所だが、この場所合計では14勝0敗、2分、つまり勝率10割である。
 今の大相撲から言えば、現役として活躍した場所数などとても少ないように見えるが、時代的にも江戸末期であったことや、相撲興行が定期的に行われなかったことも大きな要因といえる。
【写真左】陣幕久五郎の事績を記した石碑
 当人の石碑とは別に、平成3年地元の方々によって建立された陣幕の事績などを記した石碑が建てられている。
 この場所に表敬訪問した歴代の横綱は次の通り。

第41代横綱 千代の山
第53代横綱 琴桜
第52代横綱 北の富士
第58代横綱 千代の富士


 陣幕は現役時代の成績もさることながら、引退後の活躍がさらに評価されるだろう。横綱引退後、大阪相撲頭取総長や勧進元を11年間務め、大阪相撲を江戸相撲と同格の地位に高め、地方力士の発掘育成、国技館建設の企画などに奔走した。

 特に幕末期から明治維新という激動の時代にあって、陣幕は角界の繁栄を願うべく、岩崎弥太郎、西郷隆盛、そして清国の李鴻章などとも人脈を広げ、さらに敬神崇仏の念強く、独力で全国各地の社寺仏閣へ鳥居、玉垣、石塔などを寄進した。
 明治36年(1903)10月21日死去。享年74.