2020年6月14日日曜日

千光寺山城(広島県尾道市東土堂町)

千光寺山城(せんこうじやまじょう)

●所在地 広島県尾道市東土堂町
●別名 権現山城
●高さ 106m(比高100m)
●築城期 永禄年間(1558~70)
●築城者 杉原元清
●遺構 郭
●備考 千光寺公園
●登城日 2017年2月16日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)

 先ごろ、尾道三部作をはじめ自身の郷里尾道を題材にした作品を作りづけた映画監督・大林宣彦氏が亡くなった。また大林監督の前には下関出身の佐々部清監督も急逝した。二人とも管理人の好きな映画監督だったので、こうも立て続けにお二人が亡くなられると驚きと悲しみを禁じえない。

 さて、その大林監督の出生地は、尾道市東土堂町だが、同町には尾道観光の代表的な史跡である千光寺がある。

 千光寺の開基は平安時代のはじめ大同元年(806)といわれ、その後源氏の多田満仲(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)中興と伝えられる。現在周辺部は千光寺を中心として観光施設も兼ねた千光寺公園となっているが、戦国の一時期、千光寺山城という城郭が築かれていた。
【写真左】千光寺公園
 公園内の一角に設置されている石碑









 現地には当城に関する説明板のようなものはないため、とりあえず千光寺等の由来を示したものから紹介しておきたい。

現地の説明板より

千光寺山御案内

 皆様千光寺へようこそ御参拝下さいました。
 千光寺は大同元年(806年)の開基と伝えられ、往古から霊験あらたかな信仰と比類のない景勝の寺として広く知られております。又千光寺公園は明治36年(1903年)時の多田實因圓千光寺住職が公園敷地として尾道市へ寄付した寺領約4,452㎡(1,347坪)を以てその発祥とし、其後昭和32年尾道市の懇請により、公園補用地として寺領の一部約33,000㎡(約1万坪)の管理運用を市当局に委嘱し、現在に至っております。
【写真左】千光寺案内図
 尾道市観光案内図で、赤い線で囲んだ箇所が千光寺山城の領域となる。








 天下の眺望に自然と人工を配し、尾道観光の拠点でもあります。
 就いては、山内に於いて左記事項を厳守下さいますよう当山からもお願いいたします。

一、焚火等火災の惧れある行為をしない。
一、寺領内を無断使用しない。
一、車両の駐車はしない。
一、石碑文の拓本ずりをしない。

中国観音霊場第十番札所  千光寺”
【写真左】千光寺公園内
 千光寺山城は山頂にある千畳敷と呼ばれる郭(岩)を主郭として広がっていたものとされている。

 この日はその千畳敷や、尾根上北端部にある天守が建っていたとされる八畳岩(大岩)などは探訪していない。



木梨杉原氏

 築城者は木梨杉原氏といわれている。同氏については以前取り上げた鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)でも紹介しているように、千光寺山城から 北へおよそ8キロほどむかった木ノ庄を本拠とし、南北朝初期以来戦国末期まで約250年続いた一族で、杉原信平・為平兄弟を祖とする。
【写真左】鷲尾山城遠望
 南側から見たもの。
撮影日:2010年1月30日






 千光寺山城は、木梨杉原氏の7代元恒が天正12年(1584)に築いたとされるが、『善勝寺文書』あるいは福善寺に残る過去帳には、元恒の父元清(隆盛)が千光寺山城主で、同(天正)4年に尾道で没したと記されている。このことから築城期はそれ以前の永禄年間から築城が始まっているともされている。
【写真左】千光寺・その1












 その後、元恒の子広盛の代となる天正19年には秀吉による山城築城停止令が出され、広盛は再び木之庄の鷲尾山城山麓に居館を構えて移ったとされ、千光寺山城はその後廃城となった。

 このことから、当城の存続期間は長くみても30年ほどで、このためか現在でも城郭としての遺構はあまり明瞭に残っていない。
【写真左】千光寺・その2
【写真左】千光寺山城遠望
 千光寺山から東へ1.3キロほど離れた古刹浄土寺から見たもの。

 中央には千光寺山へ向かうロープウェイが見える。





陣幕久五郎

 ところで、千光寺山城や中世史とは全く関係がない近世の話になるが、たまたま当地を探訪したおり、下段で紹介している江戸期の横綱・陣幕久五郎の銅像があったので、番外編として紹介しておきたい。

【写真左】陣幕久五郎の銅像
 千光寺公園には、江戸時代末期に活躍した第12代横綱・陣幕の銅像がある。

 墓は千光寺の南側にある光明寺にあるようだ。
【写真左】平成10年10月大相撲尾道場所の碑
 尾道瑠璃ライオンズクラブCN35周年記念事業で建立されたもので、陣幕の銅像の脇にある。



 横綱 貴乃花 曙 若乃花
 大関 武蔵丸 貴ノ浪
 関脇 千代大海 貴闘力
 小結 武双山 出島 

などの力士名がが刻まれている。


 今は昔ほど見なくなったが、管理人は子供の頃より、栃錦、若乃花(先々代)、朝潮、そして大鵬・柏戸などの時代にはテレビを食い入るように見ていた。あの頃は個性的な力士が多く、特に小兵の力士が大柄な力士を打ち負かすと実に面白かった。当時お気に入りの力士としては、曲者(くせもの)といわれた岩風や、小さい体の割に大技を連発していた若浪が印象に残っている。

 さて、この陣幕だが、本名は石倉槙太郎といい、管理人の住む出雲国の出身である。誕生地は現在の松江市東出雲町下意東という中海に面した場所で、生家は既に無いようだ。 
【写真左】陣幕久五郎碑・その1
所在地 島根県松江市東出雲町下意東
参拝日 2020年6月12日






 貧しい農家の生まれだったが、相撲取りとしての力は当初からあったのだろう、弘化4年(1847)大阪相撲の巡業に飛び入り参加し、自信を持った彼はその後尾道の土地相撲に加入。
 地元の郷土力士・初汐久五郎の弟子となった。その後嘉永元年(1848)、大阪相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となり、嘉永3年11月初土俵を踏む。
【写真左】陣幕久五郎碑・その2
 「日本横綱力士陣幕久五郎通高碑」と筆耕された石碑。

 引退後歴代横綱力士の顕彰、建碑に専心したこともあって、当地にあるこの石碑も自らが明治6年に建立したもの。

 このため、晩年の彼を「建碑狂」と揶揄する者もあったという。 



 その後江戸相撲に加入し秀ノ山部屋へ所属。このころ江戸相撲の力士は部屋所属とは別に、全国の大名・藩が「抱え力士」を持っていたので、陣幕は当初徳島藩の抱え力士として出発した。
 しかし、その後出身地の松江藩の抱え力士となったが、しばらくして今度は薩摩藩に移った。いまでいうプロ野球のトレードのようなものだったのだろう。

 幕内在位は19場所で、通算幕内成績は87勝5敗17分、3預かり、65休。勝率.946。横綱在位はわずか2場所だが、この場所合計では14勝0敗、2分、つまり勝率10割である。
 今の大相撲から言えば、現役として活躍した場所数などとても少ないように見えるが、時代的にも江戸末期であったことや、相撲興行が定期的に行われなかったことも大きな要因といえる。
【写真左】陣幕久五郎の事績を記した石碑
 当人の石碑とは別に、平成3年地元の方々によって建立された陣幕の事績などを記した石碑が建てられている。
 この場所に表敬訪問した歴代の横綱は次の通り。

第41代横綱 千代の山
第53代横綱 琴桜
第52代横綱 北の富士
第58代横綱 千代の富士


 陣幕は現役時代の成績もさることながら、引退後の活躍がさらに評価されるだろう。横綱引退後、大阪相撲頭取総長や勧進元を11年間務め、大阪相撲を江戸相撲と同格の地位に高め、地方力士の発掘育成、国技館建設の企画などに奔走した。

 特に幕末期から明治維新という激動の時代にあって、陣幕は角界の繁栄を願うべく、岩崎弥太郎、西郷隆盛、そして清国の李鴻章などとも人脈を広げ、さらに敬神崇仏の念強く、独力で全国各地の社寺仏閣へ鳥居、玉垣、石塔などを寄進した。
 明治36年(1903)10月21日死去。享年74.

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