2019年5月2日木曜日

安芸・中山城(広島県廿日市市河津原)

安芸・中山城(あき・なかやまじょう)

●所在地 広島県廿日市市河津原
●別名 中山河津城・中山荻原城
●指定 廿日市市指定史跡
●高さ 327m(比高50m)
●築城期 不明(鎌倉期か)
●築城者 河津氏
●城主 河津氏・相良氏
●遺構 郭・堀切・土塁等
●登城日 2016年8月30日、2019年4月26日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』、HP『城郭放浪記』等)
 安芸・中山城(以下「中山城」とする。)は、広島県の旧佐伯郡佐伯町にあった城郭である。
【写真左】中山城遠望
 南麓を走る津和野街道(県道30号線)から見たもの。









津和野街道

 中山城の南麓には江戸時代、石見津和野藩の参勤交代として使われた街道・津和野街道が東西を走る。石見から険しい峠を何度も越えて周防国を経由し、安芸国へつなげる街道であった。
【写真左】中山城要図
 右方向が北を示す。中央部に主郭を置き、北側と東側に腰郭を配置し、南側の下がった位置にも郭を配している。



 現在の県道30号線がその一部になるが、起点は安芸・桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町 桜尾公園) から広島湾沿いを南西に下がった佐伯郡宮内村御手洗川出合(現廿日市市宮内)で、ここから御手洗川沿いに遡っていくと、分水嶺となる明石峠に至る。そして西進すると小瀬川の支流・玖島川水系で構成された河津原や友田の盆地が広がる。中山城は、その河津原の中山に築かれた丘城である。
【写真左】登城開始
 麓や斜面などは公園化を図ったような状況なので割と歩きやすい。
 斜面には花木などが植栽されているようだが、この日(6月)はほとんど新緑に覆われた景観となっていた。


現地の説明板より

‟中世の山城 中山城跡
 中山城は標高327m、比高50mの中山に築かれた城で、もと在地土豪の詰めの城と考えられる。江戸時代の地誌『芸藩通誌』は、城主として相良遠江守の名をあげるが、築城者・時期についても史料がなく判然としない。

 本城には石垣こそ用いられていないが、地面を加工して人工の急斜面(「切岸」)と削平地(「曲輪」)を造り出しており、その周囲には三重の堀切や竪堀群、さらに横堀など、発達した空堀が確認できる。
【写真左】祠
 階段状の坂道を登って行くと最初の踊り場には祠が祀られている。以前は麓の方にあったようだが、こちらに移設したようだ。



 厳島合戦は弘治元年(1555)陶・毛利両軍の間で行われたが、その前哨戦となった山里合戦において、毛利元就が城番を配置した「山里要害」とは、この中山城のことと考えられる。

【写真左】中山城の看板
 九十九折れの登城道を過ぎると、平坦となった箇所に「史跡 中山城跡公園」と書かれた看板が設置されている。




 本城は安芸国西部の城郭の中では、際立って厳重な防御施設を備えた城であって、現状のような空堀を多彩に駆使した縄張が完成したのは、このときの改修によるものであろう。

 戦いの舞台となった地域だけに、本城の周囲にも陶方の陣城であった勝成山城、毛利方の築いた狼倉山城など、双方の拠点となった城が点在している。

    平成22年3月(友和地区コミュニティ推進協議会)”

【写真左】前方に土塁と堀切
 本丸方向に進んでいくと、やがて2m前後の高さを持つ土塁があり、それを過ぎると堀切が出てくる。
【写真左】ここから少し高くなる。
 手前には土塁がある。
【写真左】土塁
 上がる位置の近くには土塁と堀切があり、その堀切はそのまま下まで竪堀となって続く。
【写真左】本丸
 ほぼ方形の郭で、一角にはベンチが設置してある。
【写真左】本丸から北側の郭を見る。
腰郭の形態で、登ってきた東側の郭と繋がっている。
【写真左】本丸からいったん下がり周囲に回り込む。
 この辺りも帯郭状の遺構が残る。
【写真左】二条の堀切
 本丸の西側下にあったものだが、少し浅くなっている。
【写真左】南側の郭
 当城の最南端部にある郭で、割と細長い形状。










河津氏

 中山城の築城者及び築城期などについては、説明板にあるように史料がなく判然としないと記している。
【写真左】河津八幡神社
 河津左近が創建したと伝わる河津八幡神社
 中山城から北へおよそ500mほど向かったところにある。




 ただ、中山城から北に500mほど向かった八幡神社が、文永元年(1264)に当時の地頭河津左近が創建したとあり、その後子孫の河津長左衛門が弘和年間(1381~84)に戦死し、嫡流は滅んだとされている。

 このことから、築城期はおそらく件の八幡神社を創建した河津氏(左近)が、同社と併せこのころ(文永元年以前)中山城を築城したと考えられる。
【写真左】八幡神社の石碑
 境内には御覧の石碑が建立されている。









碑文より

‟河津原八幡神社
 祭神
  帯中津日子命
  品陀和気命
  息長帯比売命
 由緒
  大永元年(1264)9月21日鎌倉より勧請し、地頭河津左近神主として奉仕すとの伝えあり。
  宝暦9年(1759)より大歳神社への神輿渡御始まり今日までこれを相伝う。”


相良氏

 下って戦国期に至ると、大内氏の有力家臣であった相良遠江守が当城を再構築したといわれている。
 相良氏は元々筑前僧家の出で、相良正任(ただとう)のとき、大内政弘に仕え、側近祐筆となり、政弘死後は義興を補佐している。中山城を再構築した相良遠江守は、正任の息子で武任(たけとう)と称し、才智に長けていたことから、義興の跡を継いだ義隆は彼を重用した。
【写真左】相良家墓所
 中山城の南側先端部に同家の墓所が建立されている。
 入口の門には「相良遠江守 藤原春忠の墓 相良家の墓所」と書かれた表示板が設置されている。
 ここから中に入って上に向かう。


 義隆が和歌や連歌、芸能といった公家文化に傾倒していったことはよく知られるが、武任も文治政治を基本としながら義隆の公家的趣味に賛同していった人物である。
【写真左】墓石群
 階段を上がっていくと、御覧の墓石が並んでいる。手前は近世のものだが奥には五輪塔などが建立されている。




 そして、武任は義隆の信任を楯にますます権勢をふるい、このためもう一人の大内家重臣陶晴賢と対立していくことになる。

 天文20年(1551)に大内義隆が陶晴賢の謀反によって大寧寺(山口県長門市深川湯本)に自刃することになるが、このとき武任はそれまで度々出奔していたが、ついに義隆自刃のあと、晴賢の命を受けた野上房忠によって、杉興運とともに花尾城(福岡県北九州市八幡西区大字熊手字花の尾) で殺害された。享年54歳。
【写真左】五輪塔
 最上段にある五輪塔群で7,8基残る。なおこれとは別に中央部には自然石で加工された墓碑があり、筆耕文字は劣化して解読は困難だが、わずかに「相良」の文字と「定光院…」という文字が確認できる。


 中山城の南麓には相良遠江守の墓が建立されているが、これは供養塔として祀られたものだろう。ただ、その子孫らしい同氏の墓もあるので、武任が当城を離れた後、同氏の一部が残ったのかもしれない。

山里合戦

 毛利元就が陶晴賢を厳島に破ったのは弘治元年(1555)の10月1日である(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)。
 この前哨戦となったのが説明板にもあるように「山里合戦」といわれる戦いである。広義的には「折敷畑の合戦」の一部とも解釈されるが、「山里合戦」は「折敷畑の合戦」で陶方の大将であった宮川房長の討死後、陶方に加勢していた地元の山里一揆を毛利方が掃討していった戦いといえる。
【写真左】宮川甲斐守腹切岩
所在地 廿日市市宮内字辻堂原

 天文23年(1554)、陶晴賢の命を受けた宮川甲斐守房長は、山代(周防)及び山里(安芸)の土豪・農民を動かし、折敷畠(おしきばた)山付近や明石口に陣を敷き、南下してきた毛利軍に対峙した。

 6月5日、毛利軍の急襲により宮川軍(陶軍)は総崩れとなり、大将宮川甲斐守はこの岩で腹を切って自刃した。


 山里は、須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)で述べた周防の山代と同じく、地元の郷村を基盤とした佐伯郡(安芸西南部)の百姓集団であるが、村単位でそれぞれが強固に自立していた。こうした一揆を構成していたのが、玖島村・白砂・大田・吉和・津田・友田等の村々である。

 天文23年(1554)6月5日、桜尾城での籠城戦を不利と見た元就は、陶方大将・宮川房長の拠る折敷畑攻略に向かった。そして、正面と左右両面の三隊に分ける巧みな戦術で宮川房長軍をせん滅した元就は、次に一揆掃討作戦を敢行することになる。
【写真左】中山城から東を俯瞰する。
 中山城側は河津原地区だが、盆地として広がるエリアはほとんど友田地区になる。




 同年6月8日、元就は熊谷・阿曽沼氏に山里一揆の玖島村・白砂村を攻撃させ、7月には吉川元春は奥の大田(安芸大田町)や吉和(廿日市市)を攻撃した。

 しかし、山里一揆は地元の利もあって、思いのほか毛利勢は手間取った。このため、毛利方は調略を謀り白砂村の百姓たちを味方につけ、山里一揆の分断を図った。これに激怒した津田・友田村の面々は白砂村に攻め入ったが、毛利勢が加勢し友田村の砦が陥落、ほどなくして玖島村も降伏した。
【写真左】高立城方面を遠望する。
 高立山城は中山城の北東1.3キロほど向かった丘陵地にある。
 おそらくこの写真の中央部と思われる。



 この中の友田村の砦というのは、中山城の東麓を流れる玖島川の支流友田川の対岸にあった高立城と思われ、中山城とともに友田村の拠点であった可能性が高い。
 なお、陶方の陣城といわれている勝成山城は、中山城から西南へおよそ2キロほど向かった上勝成山(H:684m)に築かれた城郭である。

0 件のコメント:

コメントを投稿