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2015年2月2日月曜日

大聖寺城(石川県加賀市大聖寺錦町)

大聖寺城(だいしょうじじょう)

●所在地 石川県加賀市大聖寺錦町
●指定 加賀市指定文化財(昭和35年10月7日)
●高さ 67~70m
●築城期 鎌倉時代
●築城者 狩野氏
●城主 狩野氏、一向一揆、溝口秀勝、山口玄蕃頭宗永、前田氏等
●形態 連郭式
●遺構 郭・土塁・空堀
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『大聖寺城跡発掘調査現地説明会資料』加賀市教育委員会H24・6・3、「雲州松江の歴史をひもとく」松江歴史館編集等)
【写真左】大聖寺城遠望
 南東の大聖寺駅側から見たもので、左側には津葉城が隣接する。

【写真左】大聖寺城要図
 大聖寺城跡縄張調査図を参考に主だった遺構を作図した。

 なお、この大聖寺城の西側(同図左上)の谷は、「骨が谷」と呼ばれているが、この谷を介して隣接する丘陵地は、「津葉城」があったとされる。



現地の説明板より

“大聖寺城址錦城山の由来

 標高67mの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正11年(1583)大聖寺領主となって4万4千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。
【写真左】錦城山(大聖寺城址)公園案内図
 登城口に当たる東麓部に設置されているもので、この位置には忠霊塔・芝生広場を含め駐車場が完備されている。



 本丸をはじめ、二ノ丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防御を固めていた。
 慶長3年(1598)溝口秀勝が越後新発田に転封したのち、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が7万石の領主として入城した。
 慶長5年、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年8月3日早朝、山口軍1,200に対して、前田軍は25,000の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子をはじめ多くの将兵が討死した。
【写真左】登城道
 東側の駐車場から歩いて向かう。
 登城したのが、梅雨時であったため雑草の丈が伸びて遺構の様子を見るのにはあまりいい時期でなく、藪蚊に大分咬まれた。


 殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長は、すぐに修築し城代を置いたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
 藩政時代はお止め山として、一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の黄葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。

 なお、大聖寺という地名は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。
     平成14年12月  加賀市”
【写真左】贋金造りの洞穴

説明板より

“贋金造りの洞穴
 明治元年明治新政府より越後戦争の弾薬供出を命ぜられた大聖寺藩は、この洞穴の中で贋金を製造した。

 銀製品をとかし、弐歩金を造り山代温泉の湯に浸し通貨として広く通用し政府の命を果たした後に露見に及び、製造責任者市橋波江に切腹を命じた。
 然し子息には倍の禄を与えて功に報いた。この事件をパトロン事件という。(註 パトロンとは弾薬の意)”

大聖寺城(錦城山)の歴史

 大聖寺城及び、津葉城が所在するこの小丘陵地は、錦城山と呼ばれている。大聖寺というのは、この錦城山に白山寺の末寺白山五院の一つ大聖寺があったことに由来している。
 現地の説明板には主に天正11年以後のことが記されているが、ここではそれ以前の主だった動きを少し紹介しておきたい。
【写真左】東丸
 大聖寺城には大小の郭が大変多く残るが、そのうちこの東丸の郭はもっとも眺望の効く箇所で、特に大聖寺の街並みがよく見える(下の写真参照)。
【写真左】大聖寺の街並み
 左側奥には加賀市役所や大聖寺駅が見える。









 築城期は鎌倉時代、狩野氏が築いたとされているが、詳細は不明である。その後南北朝時代の建武2年(1335)、『大聖寺城」の初見が『太平記』に見られる。

 加賀の鳥越城・その1(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)でも述べたように、同国では一向一揆による支配が強くなっていくが、戦国時代の弘治元年(1555)、越前の朝倉教景が大聖寺城に籠る一揆勢を攻撃し、落城させたとある(『朝倉始末記』)。
【写真左】下馬屋敷跡
 東丸を抜けてさらに西に進むと、途中で谷間に配置された下馬屋敷跡がある。
 また、この谷の上段には番所屋敷跡が造られている。

 このあと、再び南側の尾根筋伝いを進み、鐘ヶ丸に向かう。



 信長が足利義昭を奉じて入京する前年の永禄10年(1567)、一揆勢が居城としていた加賀・松山城及び、朝倉氏が拠っていた大聖寺城が、義昭の仲介によって焼却された。

 いずれも信長の支配がこのころから次第に強くなっていったことを物語るものだが、天正年間に至るとその勢いは増していき、同3年(1575)柴田勝家が改めて朝倉氏の拠る大聖寺城を奪回し、信長が佐久間盛政を城番として置いた。5年後の天正8年(1580)、信長は新たに大聖寺城主として勝家家臣の拝郷五左衛門を置いた。そして、本能寺の変において信長が亡くなると、秀吉がその跡を継いていくことになる。
【写真左】鐘ヶ丸・その1
 当城の中では二の丸と同じく最も規模が大きい。
【写真左】鐘ヶ丸・その2
 西側(左)には土塁が配置され、その外側は切崖となって、下段に腰郭が配置されている。
【写真左】鐘ヶ丸・その3
 鐘ヶ丸の北側にはそれぞれ1~2m程度の比高差を持つ腰郭が2段附属されており、一旦この鞍部で本丸側と区画されている。
【写真左】土塁
 鐘ヶ丸側のもので、当城にはこうした規模の大きな土塁が多くみられる。
【写真左】鐘ヶ丸から下の道に降りる。
 鐘ヶ丸の北西端を過ぎると、本丸の西側にある谷沿いに下る道がある。
 写真手前が鐘ヶ丸側で、左に向かうと西の丸になる。上部は本丸側の切崖に当たり、ここから直接登ることはできない。
 このあと、西の丸に向かう。
【写真左】西の丸
 日当たりもよくなく、湿気がかなりある。植物関係には全く疎いが、これまであまり見たこともないような草が多い。
【写真左】馬洗い池
 西の丸の東側にある池で、現在は殆ど水が溜っていない。
【写真左】発掘調査跡か
 記憶が定かでないが、三の丸の脇を踏査しているとき、右側斜面にあった箇所で、法面の崩落修理にも見えるが、発掘調査後復旧のために積まれた土嚢にも見える。
 また、付近にはこの箇所以外にも調査跡とみられる箇所があった。なお、この斜面の上部に二の丸がある。
【写真左】三の丸・西の丸・戸次丸分岐点
 三の丸の長軸は長いものの、幅が狭いせいか、良好な写真は撮っていなかった。
 このあと、先ず東端部の戸次丸に向かう。



戸次丸(べっきまる)

 大聖寺城には多くの郭が残るが、その中で東端部に伸びる尾根筋には、戸次丸(べっきまる)という名の郭がある。

 この名前の由来については、二つのことが挙げられる。一つは、元織田信長の家臣で天正4年(1576)に当城の城主となった戸次広正の名前から命名されたもの。戸次広正の元の名前は、梁田広正とされ、後に朝廷から秀吉、光秀らとともに右近太夫に任ぜられ、豊後の名族戸次(別喜・大友)の姓を下賜されたといわれる。

 もう一つは、後段で紹介するように、慶長5年に行われた大聖寺城における戦いで敗れた山口玄蕃充が、秀吉に仕えたとき、豊後大友義統の改易に伴って豊後国に入り、太閤検地を行っているが、その時の経験から本人が名付けた可能性もある。
【写真左】戸次丸
 上記分岐点から東の尾根伝いに進んで行くが、それまでに4ヵ所の郭段が連続していく。先端部の戸次丸は南北に長い三角形をなしており、その下段にはさらに2段の腰郭が配置されている。

 写真は戸次丸の入り口付近で、この日は次第に雑草の草丈が長くなってきたため、この辺で引き返す。
 そのあと、改めて分岐点に戻り、二ノ丸を目指す。
【写真左】二の丸
 鐘ヶ丸とほぼ同規模の大きな郭で、北面の周囲には土塁が囲繞する。

 このあと、更に西に向かい本丸を目指す。
【写真左】本丸下段の郭付近
 北側の土塁箇所にブルーシートが掛けられているが、発掘調査箇所と思われる。






山口玄蕃頭宗永

 説明板にもあるように、城主宗永は関ヶ原の戦い前、西軍(石田三成方)に与し、東軍方の前田利長と戦った武将である。

 大聖寺城における戦いは、宗永らは、1000騎にも満たず、一方前田方は2万以上の大軍である。衆寡敵せず、宗永・修弘父子は自害した。ときに、慶長5年(1600)8月3日、関ヶ原の戦い1か月前のことである。

 なお、宗永父子は自害し、修弘の弟、弘定もこののち、大坂の陣において豊臣勢に与するが、戦死している。しかし、修弘または弘定の子であろうか、子孫はその後出雲・松江藩に仕えている。
【写真左】山口玄蕃頭宗永公之碑
 二の丸を西に進み、少し坂を上っていくと、やがて南北に伸びた本丸が見えてくる。

 その一角には、慶長年間に当城で討死した城主・山口宗永の慰霊碑が祀られている。



 松江歴史館編集による「雲州松江の歴史をひもとく」という本の中に「松江藩士のルーツ」というのがある。これを見ると、加賀国からは2人が仕えている。

 二人とも山口宗永の子孫かどうか不明だが、禄高では、一人が100~499石、もう一人が10~99石と小禄である。しかし、明治維新後になると、この系譜の中から、日銀の理事となった山口宗義や、明治時代を代表する建築家・山口半六などが輩出している。
【写真左】本丸・その1
 西側(写真右)は長い土塁があり、その土塁の一角には櫓台となった高まりがある。
【写真左】本丸・その2 土塁
 右側の郭底面からおよそ4m前後の比高を持つ土塁で、左側は急傾斜の切崖となっている。

 当城は全般にいえることだが、標高100mにも満たない平山城ながら、要所の切崖はかなり鋭角に削ぎ落とした要害を持つ。
 宗永らが、少数精鋭で果敢に前田勢と戦った様子がこれらの遺構からも想像される。
 このあと、中央の谷に向かって下山する。
【写真左】郭段
 すべての郭に名称がついてはいないが、いずれも施工精度が高く、雑草は繁茂しているものの、登城時期がよいともっと見ごたえがあると思われる。


深田久弥

 帰宅してから知ったのだが、大聖寺(町)は、小説家・登山家の深田久弥の生誕地らしい。

 彼が登山にのめり込むきっかけとなったのが、中学生のとき(大正7年)、友人と登頂した白山だったという。地元の山ということもあるが、この山は往古から人を引き付ける山のようだ。
 もっとも、ほとんど標高1,000mにも満たない山城登城で息が切れている管理人には別世界だが……。

2015年1月28日水曜日

二曲城(石川県白山市出合町)

二曲城(ふとげじょう)

●所在地 石川県白山市出合町
●高さ 268m(比高120m)
●築城期 不明
●築城者 二曲右京進・鈴木出羽守
●城主 同上
●遺構 郭・掘立柱建物・土塁など
●指定 国指定史跡
●登城日 2014年6月18日

◆解説(参考文献『加賀一向一揆 ~最後の砦、鳥越城と共に終焉~』西田谷功著等)
 前稿鳥越城と同じく一揆衆が拠ったといわれる城砦が二曲城である。場所は鳥越城を南西約1キロ隔てた位置にある。
【写真左】二曲城鳥瞰図
 現地登城口に配置図などが掲示されていたが、大分劣化しほとんど読めなかったので、新たに管理人によって作図した鳥瞰図。

 2010年から復元整備事業が開始されているが、まだ完了していないようなので、いずれ鳥越城のような整備された案内板などが更新されるだろう。


 現地には登城口から主郭までは約20分余りでたどり着けると書かれていたが、この日は帰途に着く予定で時間もあまりなく、また鳥越城下山後着替えしたことや、かなり蒸し暑かったこともあり、麓までしかいっていない。
【写真左】二曲城遠望
 鳥越城からみたもので、麓には「一向一揆歴史館」や道の駅「一向一揆の里」がある。
【写真左】二曲城の看板
 麓の「一向一揆歴史館付近には、鳥越城と併せて、二曲城の案内標識が建っている。







現地の説明板より

"国指定史跡 二曲城跡

 当城跡は、鳥越城跡とともに織田信長の攻勢に最後まで抵抗した、白山麓の一向一揆の拠点となった城跡である。
 二曲の地は、白山麓門徒の指導者であった鈴木(二曲)氏の本拠で、本来、この城跡は、山麓の通称「殿様屋敷」の館に居住した同氏の砦であった。
【写真左】登城口付近・その1













 城跡は鳥越城から大日川の対岸に相対する標高268mの独立峰上に築かれており、山頂は平坦に削平されていて、屋根上に腰郭と空堀の遺構が確認できる。

 天正8年(1580)11月、鳥越城とともに落城するが、山内衆の抵抗はこれをもって終わらなかった。『信長公記』によれば、翌天正9年(1581)2月、加州一揆が蜂起して「ふとうげ」に入置かれた柴田勝家の人数300人を悉く討ち果たしたとある。

 しかし、これも織田方の佐久間盛政によって鎮圧された。翌天正10年、一揆衆は再度鳥越・二曲両城を奪還するが、同年3月、生捕者300余人の磔(はりつけ)により終焉する。
 二曲城跡は、鳥越城とともに加賀一向一揆の最後の砦となった歴史の舞台としての意義をもつことから、史跡に指定され保存が図られている。
   昭和63年11月設置  鳥越村教育委員会”
【写真左】登城口付近・その2
 梅雨時の登城は辛い上に、藪蚊が多い。










鈴木出羽守・二曲氏

 蓮如(吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)参照)が加賀国に入って浄土真宗を広めたのは、文明3年(1471)といわれている。真宗の布教活動は親鸞が最初とされているが、もともと加賀・越前には往古より白山信仰が根付いていた。

 養老元年(717)泰澄(たいちょう)が当山を開山したといわれ、神仏習合の教えが広まり、それぞれの拠点は、加賀では白山本宮、越前は白山神社(平泉寺)(下段写真参照)、また東麓美濃国においては長滝白山神社とされた。
【写真左】白山神社・平泉寺
所在地:福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上
 白山信仰越前川の禅定道の拠点として、最盛期には、48社36堂千坊、僧兵8千人の強大な寺社都市を誇った。

参拝日:2014年6月17日


 鈴木出羽守の出自については諸説あり、その一つが、熊野信仰が全国に伝播すると、阿弥陀仏を共通とする熊野神主の一族・鈴木氏が当地・加賀二曲地域に土着し、二曲氏を名乗り、室町・戦国時代に至って、浄土真宗に帰依し、いわゆる「門徒武士」になったのが同氏一族の始まりといわれているもの。
【写真左】登城口付近・その3
 少し登ってみたが、再び汗が出始め、もう着替えがないため断念。








 もう一つは、元亀元年(1570)織田信長と本願寺の戦いが始まった際、石山本願寺に拠った顕如が、当時紀伊雑賀門徒であった鈴木出羽守に、加賀山内一揆の大将として派遣を命じ、当地に赴いたというものである。

 紀伊国における雑賀衆とは、加賀国などと同じように、一揆集団であって、特に鉄砲を主力兵器として武装していた軍事集団である。そのリーダー格とされていたのが、雑賀党鈴木氏などである。従って、鳥越城・二曲城の鈴木出羽守は、元々この雑賀党鈴木氏の一族ではなかったかと考えられる。
【写真左】説明板
 大分劣化していて読めない。











鳥越城と二曲城

 蓮如が加賀を退去した後、門徒内部における抗争や、加賀・越前守護らとの対立が度々起こるが、加賀一向一揆の本拠地として平野部で確立したのは、戦国期となる天文15年(1546)の金沢御堂建立のころとされている。同堂は後に信長らによって陥落されるが、その後佐久間盛政や前田利家によって金沢城へと姿を変えることになる。
【写真左】二曲城全体図
 紙を貼った形式のものはどうしても劣化が早い。









 さて、前稿鳥越城や二曲城の築城期は不明だが両城とも同じころ築かれたと考えられ、特に本願寺顕如が織田信長と戦いを始めた石山合戦の元亀元年(1570)ごろ、二曲城は砦形式の城砦から本格的な山城へと拡幅・改修されたとされる。
【写真左】加賀の傑僧「任誓」与三郎の碑
 登城口付近には、戦国期に一向一揆は掃討されたが、江戸時代の貞享・元禄のころ、当地近郷の人々を教化し、尊信された傑僧・任誓の碑が祀られている。

2015年1月13日火曜日

鳥越城・その2(石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町)

鳥越城(とりごえじょう)・その2

●所在地 石川県白山市三坂町・別宮町・釜清水町・上野町
●指定 国指定史跡(昭和63年9月3日)
●築城期 不明
●築城者 鈴木出羽守
●城主 鈴木出羽守
●高さ 312m(比高130m)
●遺構 郭・堀切・空堀・櫓・礎石建物等
●登城日 2014年6月18日

◆解説
 前稿に続いて鳥越城の本丸以降の箇所を紹介したい。
【写真左】鳥越城案内図


【写真左】本丸土塁上から麓を俯瞰する。
 鳥越城の東麓部が見えるが、その奥(中央)は鳥越城の西麓を流れる大日川が、東麓を流れる手取川と合流し、谷を縫うようにして日本海へ流れる。その距離は凡そ25キロほどになる。
【写真左】後二の丸
 本丸北端部から後二の丸が見える。一旦本丸を出て、再び北側の道にまわり、二ノ丸に向かうことにする。
【写真左】後二の丸に向かう道
 中央が後二の丸に向かう道だが、その手前右に空堀が配置されている(下の写真)。
【写真左】空堀
 右側が本丸(土塁)で、左が後二の丸になるが、幅は狭いものの、かなり鋭角な切り込みの薬研掘りとなっている。
【写真左】後二の丸
【写真左】中の丸
 後二の丸から再び戻り、枡形門の前にある中の丸を見る。
【写真左】中の丸門
 西側に設置されているもので、両側には土塁が構築されているが、特に右側の土塁は厚みがある。
 このあと、門を潜り下に向かう。
【写真左】腰郭
 北側から回り込んできた腰郭がこの位置で終点となる。
 中の丸門と腰郭で西側を扼するもの。

 このあと、再び戻り前二の丸・三の丸に向かう。
【写真左】前二の丸
 奥には隅櫓が見える。












現地の説明板より

“二の丸
 二の丸跡は腰郭から登る路と中の丸門に隣接する郭で、南側は堀切を配して三の丸を見下ろす。
 郭に全周する土塁が築かれ、南東側が特に高い。南西隅の礎石建物跡は、谷に臨んで二曲(ふとうげ)城を正面にした隅櫓で、東縁の礎石建物跡は東腰郭側に備えた櫓である。
【写真左】二の丸発掘区遺構配置図





 内側には建替えを表す掘立柱建物の柱穴多数と食料貯蔵用の石室状土坑1基が発見されたが、礎石は抜き取られていた。
 土坑内からは炭・焼土に混じって、陶器類と刀・鉄砲玉、鏡。漆器碗・皿、賽子(サイコロ)が出土した。”
【写真左】隅櫓・その1
 南東側に配置された隅櫓。
【写真左】隅櫓・その2
 南端部のもの
【写真左】二の丸から中の丸方面を見る。
 二の丸も含め、西側は木立に遮られて見えないが、北東方面の視界は確保されている。
【写真左】釜清水・別宮方面に向かう。
 この日は釜清水・別宮まで足を延ばしていないが、この先に整備はされていないものの、前三の丸がある。
【写真左】空堀
 前二の丸と前三の丸の間に設置されたもの。
深さはさほどないが、東斜面の下方まで伸びている。
【写真左】前三の丸
 ご覧の通り整備されていないが、全体の形状は把握できる。
 中央部が少し盛り上がっている。
さらに先を進む。
【写真左】堀切
 前三の丸の南端部に設置されているもので、奥の方は土塁状の高まりがある。
【写真左】三の丸から先の箇所
 このあたりから少し下り坂となる平坦な尾根が続いている。
 この先には馬場跡があったといわれるが、既にこの個所も馬場跡だったと思われる。