2020年6月25日木曜日

伯耆・松崎城(鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎)

伯耆・松崎城(ほうき・まつざきじょう)

●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎
●別名 亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城、松ケ崎城
●高さ 標高21m(比高17m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 小森和泉守方高(まさたか)
●遺構 郭・石垣
●形態 海城か
●登城日 2017年2月24日

◆解説(参考資料 『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』加賀康之著等)
 松崎城は鳥取県の中央部にある東郷湖(池)の東岸部に築かれた平城である。近年まで当城址には、地元の小学校(桜小学校)が建っていたが廃校となり、現在は校舎とその周りに校庭の跡が残っている。
【写真左】松崎城遠望
 南側から見たもので、手前が東郷湖で、奥には天正9年(1582)、秀吉が羽衣石城の南条元続を救援するため布陣した御冠山が控える(馬の山砦(鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津)参照。



現地の説明板より

”松ヶ崎城址

 またの名を亀形ヶ鼻(きぎょうがさき)城といい、羽衣石城主南条氏の与力(侍大将)である小森和泉守方高(まさたか)が、天正年代居城していた。この時代は織田信長が羽柴秀吉に毛利氏を攻めさせていた時代で、この二大勢力にはさまれて土地の武士は複雑な戦いに巻き込まれていた。

 小森和泉守は、南条方を離れようとして、進ノ下総免之に攻められ、討ち取られたのが天正8年9月(1580)であったと伝えられている。
【写真左】松崎城の西端部
 写真の左側が松崎城に当たる。
 現在松崎城(旧桜小学校)の北西側を下ったところには、東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターという建物が建っているが、当時はこの付近も湖だったと思われる。



 その後進ノ下総が城主となったが、南条氏が関ヶ原合戦で参加して敗れ、その後は羽衣石城とともに壊されてしまった。

 当時の石垣に使われた石が、桜小学校の建設の時、沢山出てきたのでその石によって築いてある石垣が、この説明板後方の石垣で、割れ口の一部に、くさびのあとが残っている。

  昭和61年7月1日
   創立30周年記念事業推進委員会“

【写真左】北側から見上げる。
 さきほどの位置から松崎城を見上げたもので、桜小学校の校舎の一部が見える。
 この位置からの比高は18m前後だが、法面などの改修工事などを見ると、当時はかなり急傾斜の崖だったと思われる。

 何れにしても松崎城の周辺部は戦国期には東郷湖に突き出したような形の海城であった可能性が高い。



 小森方高(こもり まさたか)

 松崎城の築城期や築城者は不明だが、戦国期における当城の城主は小森和泉守方高といわれている。彼は松崎城から南におよそ5キロほどむかった羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石) の城主南条元続の家臣であった。
【写真左】旧桜小学校の校舎
 松崎城跡に建てられた校舎。建設当初はおそらく郭や土塁といった遺構もあったのかもしれないが、校庭や校舎を建てる際殆ど改変されたと思われる。

 ただ、校舎裏の北東部の一角には石垣に使われたとおもわれる石が現在も残してある(下の写真参照)。


 南条元続の父は宗勝(国清)である。宗勝は一時期尼子氏の傘下に入るが、その後伯耆を離れ各地を転々したあと、毛利氏の支援を受け永禄5年(1562)、羽衣石城を20年ぶりに奪回、所領地を回復している。このとき周辺部である東伯耆の国人衆を家臣団に組み込んでいるので、この段階で松崎城主の小森方高も南条氏の傘下に入ったのだろう。
【写真左】石垣用の石・その1
 説明板にもあるように、小学校建設当時でてきた石で、石垣に使われたと思われるもの。



 南条元続が家督を相続したのは宗勝が死去した天正3年(1575)である。備中・忍山城(岡山県岡山市北区上高田) でも述べたように、毛利氏が中国地方を支配下に治めようとしたとき、秀吉をはじめとする織田軍が次第に西進し、播磨・但馬を拠点に毛利方と全面対決の様相を呈すると、羽衣石城の南条元続も宇喜多直家と同じく、毛利氏から離反した。

 南条氏が毛利氏から離反することとなったきっかけが、直家の動きと関連するように見えるが、むしろこの年(天正3年)の6月、尼子再興軍が因幡・若桜鬼ヶ城(鳥取県若桜町) を攻略しているので、このとき元続は尼子再興軍からの勧誘があったのかもしれない。
【写真左】石垣用の石・その2

 御覧のようにクサビの跡がくっきりと残っている。






 このため、毛利氏は天正8年(1580)、羽衣石城に猛攻撃を開始、このとき、南条方にあった松崎城主・小森方高も当城(羽衣石城)に籠城している。

 しかし、方高はこのころ、親交のあった堤城(北条町島)の山田出雲守重直が、南条氏との不和から討たれて以来、主君(南条氏)に全幅の信頼を寄せていなかった。これを知った尾高城(鳥取県米子市尾高) の城主・杉原元盛(大林寺(島根県出雲市平田町)参照) は、小森氏に使者を送り、毛利方につくよう勧めた。
【写真左】石垣用石から校舎方面を見る。
 この石がどのあたりで使われたのかはっきりしないが、松崎城が冒頭でも述べたように東郷湖に突き出すような丘陵部に築かれたことを考えると、湖岸周囲で使われていたのかもしれない。


 これにより方高は、やがて南条氏から離反、毛利方につくこととなった。その手始めとして羽衣石城の北方にある小鹿谷の上山を固め、進(しん)下総守の陣所に夜討ちをかけようとした。

 因みに、進氏は瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下) でも述べたように、もともと寛正5年(1464)、山名教之の代に西伯耆の守護代として活躍していたが、このころ(天正年間)同氏は去就をはっきりさせていなかったものの、南条氏に与する状況となっていたようだ。

 ところが、小森氏の配下に進氏と繫りを持つものがいて、この密計が同氏に注進された。このことはやがて羽衣石城の南条氏にも伝わり、南条氏も進氏に加勢することになった。
【写真左】松崎城から羽衣石城方面を遠望する。
 松崎城から羽衣石城までは直線距離でおよそ4.5キロある。
 この写真では右側の山塊の奥にあると思われる。


 方高の謀が両氏に漏れていることを知らず、同年9月20日の夜、200余騎を率いて下総の陣所を攻めようとしたところ、果せるかな進下総が逆に急襲してきたため、寄手はさんざんに討たれ、百余名が討死、方高も小鹿谷から東郷川を2キロ余り上った別所村に敗走した。しかし、その後敵に見つかり討ち取られた。頸はその後羽衣石城に送られた。

 現在この別所には「小森さんの墓」といわれる小森方高和泉守の塚が祀られているが、別所村(現 湯梨浜町別所)は、当時小森氏の領地であったことから、地元の住民がその後遺体を請い葬ったといわれている。
【写真左】松崎城から東郷湖を見る。
 松崎城の北麓部で、最初に紹介した東郷湖羽合臨海公園カヌーセンターの埋め立て部分が見えている。



松崎神社

 ところで、松崎城から南に倉吉青谷線(県道22号線)を超えると松崎神社が建立されている。

 詳しい縁起は分からないが、現地の説明板には「往古城下町松崎大明神ト称シ鎮座セラル 当時松崎城主山名氏 羽衣石南条氏崇敬セシト伝フ ……」とある。
【写真左】松崎神社鳥居
 県道22号線の途中から並行して東に南北に伸びる道路があり、やや南側に参道入口がある。



 小森氏の名が記されていないが、当社は小森氏の領地として最も近接した場所であるので、おそらく松崎城主であったころは、小森氏が最大の同社庇護者であったと思われる。
【写真左】本殿
 この日参拝したときは、2016年10月の鳥取県中部地震で本殿が被災したまたの姿だった。おそらく現在は復興していると思われる。


 さて、現在は上述したように松崎城と松崎神社の間は県道22号線が走り、間を隔てた低地が介在するが、もともと松崎城は松崎神社側から伸びてきた舌状丘陵の尾根先端部に当たり、当時はこの県道部分も尾根筋としてあったものではないかと推測される。
 このためか、松崎神社の境内北西端には郭状らしき遺構も確認できる(写真参照)。
【写真左】郭状の段
 境内奥の北側部分で、雑木などがあるため分かりづらいが、小郭が認められる。
【写真左】東側
 この個所にも段が認められる。
【写真左】神木とされる椎の木
 当社の境内には椎の木を中心とする常緑広葉樹が多く、特に40数本ある椎の木のうち、写真に見えるものは、目通り6m、樹齢350年以上といわれる古木。

2020年6月14日日曜日

千光寺山城(広島県尾道市東土堂町)

千光寺山城(せんこうじやまじょう)

●所在地 広島県尾道市東土堂町
●別名 権現山城
●高さ 106m(比高100m)
●築城期 永禄年間(1558~70)
●築城者 杉原元清
●遺構 郭
●備考 千光寺公園
●登城日 2017年2月16日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)

 先ごろ、尾道三部作をはじめ自身の郷里尾道を題材にした作品を作りづけた映画監督・大林宣彦氏が亡くなった。また大林監督の前には下関出身の佐々部清監督も急逝した。二人とも管理人の好きな映画監督だったので、こうも立て続けにお二人が亡くなられると驚きと悲しみを禁じえない。

 さて、その大林監督の出生地は、尾道市東土堂町だが、同町には尾道観光の代表的な史跡である千光寺がある。

 千光寺の開基は平安時代のはじめ大同元年(806)といわれ、その後源氏の多田満仲(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)中興と伝えられる。現在周辺部は千光寺を中心として観光施設も兼ねた千光寺公園となっているが、戦国の一時期、千光寺山城という城郭が築かれていた。
【写真左】千光寺公園
 公園内の一角に設置されている石碑









 現地には当城に関する説明板のようなものはないため、とりあえず千光寺等の由来を示したものから紹介しておきたい。

現地の説明板より

千光寺山御案内

 皆様千光寺へようこそ御参拝下さいました。
 千光寺は大同元年(806年)の開基と伝えられ、往古から霊験あらたかな信仰と比類のない景勝の寺として広く知られております。又千光寺公園は明治36年(1903年)時の多田實因圓千光寺住職が公園敷地として尾道市へ寄付した寺領約4,452㎡(1,347坪)を以てその発祥とし、其後昭和32年尾道市の懇請により、公園補用地として寺領の一部約33,000㎡(約1万坪)の管理運用を市当局に委嘱し、現在に至っております。
【写真左】千光寺案内図
 尾道市観光案内図で、赤い線で囲んだ箇所が千光寺山城の領域となる。








 天下の眺望に自然と人工を配し、尾道観光の拠点でもあります。
 就いては、山内に於いて左記事項を厳守下さいますよう当山からもお願いいたします。

一、焚火等火災の惧れある行為をしない。
一、寺領内を無断使用しない。
一、車両の駐車はしない。
一、石碑文の拓本ずりをしない。

中国観音霊場第十番札所  千光寺”
【写真左】千光寺公園内
 千光寺山城は山頂にある千畳敷と呼ばれる郭(岩)を主郭として広がっていたものとされている。

 この日はその千畳敷や、尾根上北端部にある天守が建っていたとされる八畳岩(大岩)などは探訪していない。



木梨杉原氏

 築城者は木梨杉原氏といわれている。同氏については以前取り上げた鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)でも紹介しているように、千光寺山城から 北へおよそ8キロほどむかった木ノ庄を本拠とし、南北朝初期以来戦国末期まで約250年続いた一族で、杉原信平・為平兄弟を祖とする。
【写真左】鷲尾山城遠望
 南側から見たもの。
撮影日:2010年1月30日






 千光寺山城は、木梨杉原氏の7代元恒が天正12年(1584)に築いたとされるが、『善勝寺文書』あるいは福善寺に残る過去帳には、元恒の父元清(隆盛)が千光寺山城主で、同(天正)4年に尾道で没したと記されている。このことから築城期はそれ以前の永禄年間から築城が始まっているともされている。
【写真左】千光寺・その1












 その後、元恒の子広盛の代となる天正19年には秀吉による山城築城停止令が出され、広盛は再び木之庄の鷲尾山城山麓に居館を構えて移ったとされ、千光寺山城はその後廃城となった。

 このことから、当城の存続期間は長くみても30年ほどで、このためか現在でも城郭としての遺構はあまり明瞭に残っていない。
【写真左】千光寺・その2
【写真左】千光寺山城遠望
 千光寺山から東へ1.3キロほど離れた古刹浄土寺から見たもの。

 中央には千光寺山へ向かうロープウェイが見える。





陣幕久五郎

 ところで、千光寺山城や中世史とは全く関係がない近世の話になるが、たまたま当地を探訪したおり、下段で紹介している江戸期の横綱・陣幕久五郎の銅像があったので、番外編として紹介しておきたい。

【写真左】陣幕久五郎の銅像
 千光寺公園には、江戸時代末期に活躍した第12代横綱・陣幕の銅像がある。

 墓は千光寺の南側にある光明寺にあるようだ。
【写真左】平成10年10月大相撲尾道場所の碑
 尾道瑠璃ライオンズクラブCN35周年記念事業で建立されたもので、陣幕の銅像の脇にある。



 横綱 貴乃花 曙 若乃花
 大関 武蔵丸 貴ノ浪
 関脇 千代大海 貴闘力
 小結 武双山 出島 

などの力士名がが刻まれている。


 今は昔ほど見なくなったが、管理人は子供の頃より、栃錦、若乃花(先々代)、朝潮、そして大鵬・柏戸などの時代にはテレビを食い入るように見ていた。あの頃は個性的な力士が多く、特に小兵の力士が大柄な力士を打ち負かすと実に面白かった。当時お気に入りの力士としては、曲者(くせもの)といわれた岩風や、小さい体の割に大技を連発していた若浪が印象に残っている。

 さて、この陣幕だが、本名は石倉槙太郎といい、管理人の住む出雲国の出身である。誕生地は現在の松江市東出雲町下意東という中海に面した場所で、生家は既に無いようだ。 
【写真左】陣幕久五郎碑・その1
所在地 島根県松江市東出雲町下意東
参拝日 2020年6月12日






 貧しい農家の生まれだったが、相撲取りとしての力は当初からあったのだろう、弘化4年(1847)大阪相撲の巡業に飛び入り参加し、自信を持った彼はその後尾道の土地相撲に加入。
 地元の郷土力士・初汐久五郎の弟子となった。その後嘉永元年(1848)、大阪相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となり、嘉永3年11月初土俵を踏む。
【写真左】陣幕久五郎碑・その2
 「日本横綱力士陣幕久五郎通高碑」と筆耕された石碑。

 引退後歴代横綱力士の顕彰、建碑に専心したこともあって、当地にあるこの石碑も自らが明治6年に建立したもの。

 このため、晩年の彼を「建碑狂」と揶揄する者もあったという。 



 その後江戸相撲に加入し秀ノ山部屋へ所属。このころ江戸相撲の力士は部屋所属とは別に、全国の大名・藩が「抱え力士」を持っていたので、陣幕は当初徳島藩の抱え力士として出発した。
 しかし、その後出身地の松江藩の抱え力士となったが、しばらくして今度は薩摩藩に移った。いまでいうプロ野球のトレードのようなものだったのだろう。

 幕内在位は19場所で、通算幕内成績は87勝5敗17分、3預かり、65休。勝率.946。横綱在位はわずか2場所だが、この場所合計では14勝0敗、2分、つまり勝率10割である。
 今の大相撲から言えば、現役として活躍した場所数などとても少ないように見えるが、時代的にも江戸末期であったことや、相撲興行が定期的に行われなかったことも大きな要因といえる。
【写真左】陣幕久五郎の事績を記した石碑
 当人の石碑とは別に、平成3年地元の方々によって建立された陣幕の事績などを記した石碑が建てられている。
 この場所に表敬訪問した歴代の横綱は次の通り。

第41代横綱 千代の山
第53代横綱 琴桜
第52代横綱 北の富士
第58代横綱 千代の富士


 陣幕は現役時代の成績もさることながら、引退後の活躍がさらに評価されるだろう。横綱引退後、大阪相撲頭取総長や勧進元を11年間務め、大阪相撲を江戸相撲と同格の地位に高め、地方力士の発掘育成、国技館建設の企画などに奔走した。

 特に幕末期から明治維新という激動の時代にあって、陣幕は角界の繁栄を願うべく、岩崎弥太郎、西郷隆盛、そして清国の李鴻章などとも人脈を広げ、さらに敬神崇仏の念強く、独力で全国各地の社寺仏閣へ鳥居、玉垣、石塔などを寄進した。
 明治36年(1903)10月21日死去。享年74.

2020年6月11日木曜日

備後・赤城(広島県世羅郡世羅町川尻)

備後・赤城(びんご・あかじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町川尻字池入堂
●別名 赤堀
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 林肥前守就長・実弟右馬允
●形態 城館
●遺構 郭・土塁・井戸
●登城日 2017年2月16日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第13巻」等)
 広島県を縦断する尾道自動車道の世羅の道の駅から自動車道を並行しておよそ2キロほど南下した細長い谷の棚田に備後・赤城(以下『赤城』とする。)が築かれている。形態としては城館の遺構を持つもので、およそ南北60m×東西40mの規模である。
【写真左】赤城遠望
 西側から見たもので、田圃の中にポツンと残る。

 赤城を見た途端思い出したのが、椋梨城(広島県三原市大和町椋梨) だったが、赤城は椋梨城より小規模な城館である。



現地の説明板より


‟赤城跡

 川尻地区には松岡城と赤城跡があります。
 松岡城が林肥前守の本城で、赤城は支城で、弟の右馬允(すけ)が住んだと云われています。
 いずれも室町時代のもので、林肥前守は毛利の武将として聖神社を再建し、鎧や冑などを奉納したと伝えられております。

 赤城主の右馬允の位牌は、300m西方の西垣内谷の薬師寺に祀られてあります。

 薬師寺には薬師如来が祀られていて、昔から目の病を治すと云われ有名な霊験あらたかな如来であります。
【写真左】登城口付近
 登城口は東側にあり、現在は御覧のように土地改良に併せて橋が架けられているが、この小川が当時濠の役目をしていたものと思われる。なお、この小川は北進し本流芦田川に合流する。


 旧赤城主右馬允のご冥福を祈り、併せて薬師如来の温かいご利益をあまねく万民に御慈悲をいただくべくここに身代わり地蔵菩薩を建立したものであります。
 建立にあたっては、東上原地区の龍城山(りゅうじょうざん)、善行寺住職の真澄暎哲師(ますみえいてつし)にお願いして開眼鎮座していただきました。
敷地内にあります石塔に記念として住職の直筆で揮毫していただきました。
左下の丸いくぼみは、昔の井戸の跡か又何かに使用されたものかは記録もなく、定かではありませんが、昔からの言い伝えで古井戸のあった跡と聞いております。

 平成3年6月
     赤城跡守る会“

【写真左】登城道
 橋を渡るとそのまま東斜面を北の方向に向かう道がつけられている。







林肥前守就長菊池氏
 
 赤城の城主は林肥前守の弟右馬充が住んだと説明板には書かれているが、『西備名区』では、松岡城主林肥前守就長が晩年、松岡城を長子に譲り、ここに隠居して道範と号したことが記されている。
 松岡城というのは、赤城から芦田川を挟んで北に1.5キロ向かった日向に築かれた山城である。
【写真左】松岡城遠望
 赤城から北へおよそ1.3キロほどむかった標高400m余の位置に築かれている。
 この写真は、世羅の道の駅から見たもので、東へおよそ1キロほど隔てている。
 以前登城を試みたが、道が整備されていないようで断念した。
【写真左】郭跡・その1
 登って行くと館跡は公園に改変されている。








 ところで、林氏は旧姓菊池氏(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)の一族といわれ、父は武長といい、彼の代から林氏を名乗っている。武長はもともと肥後の菊池氏第22代当主・能雲(よしゆき)に仕えていたとされ、その名が示すように、能雲の前の名である「武運」から偏諱を受け、武長と名乗ったと思われる。
【写真左】郭跡・その2 郭跡には花壇や遊具などが設置され、遺構の方はあまり期待できない。







 因みに、菊池氏は南北朝時代おける九州南朝方の中心となった名族だが、室町・戦国時代になると、19代菊池持朝のころから一族による家督相続の争いが生じ、最終的には能雲が永正元年(1504)、23歳の若さで亡くなると、ここに菊池氏嫡流は滅亡することになる。

 しかし、その能雲が永正元年(1504)死去すると、備後に移りその後毛利元就に仕えたといわれる。ただ、武長自身が元就に仕えたというのは時系列的にも符合しないので、武長の子息、即ち元就の「就」を名乗った就長であろう。

 就長は実務的な能力に優れ、毛利氏が石見を掃討したとき、石見銀山・温泉津の支配に活躍、また秀吉による西国侵攻後、領国境界の交渉などを安国寺恵瓊らと共にその任に当たった。 
【写真左】井戸跡か
 城内の一角には御覧のようなかなり大きな穴が残っている。直径3m前後はあるだろう。
 規模から考えて井戸としては大きすぎるような気もするが、明瞭に残っている。
【写真左】土塁
 大幅な改変のため分かりずらいが、西側が高くなっている箇所が土塁跡と思われる。
 現地はその個所に花壇が配置されている。





遺構

 写真でも分かるように城館形態のもので、当時三段に削平された郭で構成され、北西部に土塁を築き、東南部は小さな川が流れ、堀の役目をしていた。
 もっとも現在では地元の方の憩いの場としての公園整備が優先されたせいか、遺構の確認は井戸跡以外はあまり期待できない。
【写真左】城域南東部
 南東部先端から南側を見たもので、この谷は次第に南に行くに従って細くなる。






 
聖神社薬師堂

 説明板にもあるように、赤城の近くには林肥前守や、右馬允に関わる史跡が所在している。
【写真左】聖神社遠望
 薬師堂のある尾道自動車道側から見たもので、手前には「せらひがし小学校」がある。




 聖神社(ひじりじんじゃ)は、赤城から芦田川を挟んで北側の町立せらひがし小学校の裏に鎮座する古刹で、当地川尻は中世「杜庄川尻保(もりのしょうかわじりほ)」と呼ばれ、鎌倉時代に残された高野山文書にも「備後川尻社」と記載された社である。
 寛正3年(1462)の合戦で焼失し、その10年後の文明4年(1472)再建されたといわれるから、当時の備後国守護山名氏に関わる戦いがあったのだろう。
【写真左】聖神社
 せらひがし小学校の西側の道を進んでいくと、数段に配された境内の最上部に本殿が祀られている。




 右馬允の位牌が祀られている薬師堂は、赤城から尾道自動車道側の斜面に建立されている真言宗の寺である。写真にもあるように、室町時代初期のものといわれるかなり大型の宝篋印塔が残っている。
【写真左】聖神社側から赤城と薬師堂を遠望する。
 せらひがし小学校から少し降りて東側の道路から見たもので、左側の田圃の中に赤城が見え、そこからおよそ200mほど尾道自動車側に薬師堂が見える。
【写真左】薬師堂・その1
 平成2年ごろに屋根などの改修が行われているようだが、廃寺になっているためか、最近はあまり管理されていないようだ。
【写真左】宝篋印塔と地蔵群
 境内の脇には御覧のような像や宝篋印塔が収蔵されている。
【写真左】説教所
 本堂から少し階段を上がったところには説教所といわれる建物が建っている。
 写真の中央にある柱は両側から支え木がついており、特異な建築様式だ。