備中・高松城(びっちゅう・たかまつじょう)
●所在地 岡山県岡山市北区高松
●築城期 天正年間
●築城者 石川氏
●城主 清水宗治(石川氏の娘婿)
●高さ 海抜0m
●形態 平城(沼城)
●遺構 本丸跡など
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月7日、2014年3月15日、その他
◆解説(参考資料「サイト おかやま観光コンベンション協会HP」等)
今稿は、前稿冠山城につづいて、高松城の水攻めとして有名となった備中高松城を取り上げたい。
【写真左】高松城・その1
当時の遺構がどの程度残っているのか分からないが、現在は公園として整備されている。
現地の説明板より
“国指定史跡 高松城跡
附水攻築堤跡
昭和4年12月17日指定
高松城とは
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
【写真左】高松城攻めにおける両軍の配置図
現地にある資料をもとに、管理人によって作図したもの。
なお、左図以外に秀吉方及び毛利方それぞれ陣した場所が記録されているが、この図はそのうち主だった武将の陣場所を記している。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。
城の周囲には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。
縄張は、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は、江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
【写真左】高松城要図
高田馬治氏の原図を基に、管理人によって作図したもの。
水攻めをされる前の高松城の様子を想像して描いたもので、沼城であったことから、外周部もこのように湿地帯や沼が多かったのだろう。
【写真左】高松城遠望
北西に聳える鬼の城から見たもの。
鬼の城については近日にアップする予定。
中国役とは…
全国統一を目指した織田信長は、西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目7城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。
【写真左】高松城・その2
織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に3万の軍勢をもって同国東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
【写真左】宗治蓮
昭和57年に歴史公園として整備した際、復元された沼。
高松城攻めの当時も、本丸・二の丸の間に「蓮池」という地名があったようで、それにちなんで、この池を自刃した城主・清水宗治から「宗治蓮」と命名された。
籠城1か月余を経て、城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と、開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。
平成8年3月 岡山市教育委員会”
【写真左】高台・その1
本丸・二の丸を模して造成したものだろう。石碑や説明板などが設置してある。
【写真左】高台・その2
【写真左】高台・その3
築山頂部に墓石のようなものが建立されている。
【写真左】宗治の辞世の句
宗治が自刃する際、家人難波伝兵衛、高市之丞、小者の七郎次郎、加勢の軍将末近左衛門尉と共に船に乗り、秀吉の陣表まで漕ぎ出した。
そのあと、秀吉側からは堀尾茂助、すなわち後の松江藩初代城主となる吉晴が、小舟に乗って宗治に対面し、秀吉からの伝言を申し渡し、美酒を与えた。
そして、末期の盃を交わした後、誓願寺の詩を舞い、
〝浮世をば 今こそ渡れ
武士の名を 高松の苔に残して”
と辞世の句を詠んだ。
市之丞が介錯をし、ここに46歳を一期として自刃した。
【写真左】清水宗治が自刃したといわれる場所
高松城公園の右側に向かう道があり、そこに向かうとご覧の広場が見えてくる。
この場所で宗治が自刃したといわれている。
【写真左】清水宗治公自刃之址と記された石碑
【写真左】ごうやぶ遺跡
高松城で自刃した城主清水宗治を追って、家臣らが互いに刺し違えて殉死した場所といわれている。
【写真左】花房家菩提所
宗治が自刃した場所の近くには花房家の菩提所がある。
花房氏は、宇喜多氏の家老で、高松城が落城した後、当城に入城した。(美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)参照)
◎関連投稿
真浄庵土居屋敷(広島県三原市久井町羽倉)
●所在地 岡山県岡山市北区高松
●築城期 天正年間
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●城主 清水宗治(石川氏の娘婿)
●高さ 海抜0m
●形態 平城(沼城)
●遺構 本丸跡など
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月7日、2014年3月15日、その他
◆解説(参考資料「サイト おかやま観光コンベンション協会HP」等)
今稿は、前稿冠山城につづいて、高松城の水攻めとして有名となった備中高松城を取り上げたい。
当時の遺構がどの程度残っているのか分からないが、現在は公園として整備されている。
現地の説明板より
“国指定史跡 高松城跡
附水攻築堤跡
昭和4年12月17日指定
高松城とは
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
【写真左】高松城攻めにおける両軍の配置図
現地にある資料をもとに、管理人によって作図したもの。
なお、左図以外に秀吉方及び毛利方それぞれ陣した場所が記録されているが、この図はそのうち主だった武将の陣場所を記している。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。
城の周囲には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。
縄張は、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は、江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
【写真左】高松城要図
高田馬治氏の原図を基に、管理人によって作図したもの。
水攻めをされる前の高松城の様子を想像して描いたもので、沼城であったことから、外周部もこのように湿地帯や沼が多かったのだろう。
【写真左】高松城遠望
北西に聳える鬼の城から見たもの。
鬼の城については近日にアップする予定。
中国役とは…
全国統一を目指した織田信長は、西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目7城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。
【写真左】高松城・その2
織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に3万の軍勢をもって同国東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
【写真左】宗治蓮
昭和57年に歴史公園として整備した際、復元された沼。
高松城攻めの当時も、本丸・二の丸の間に「蓮池」という地名があったようで、それにちなんで、この池を自刃した城主・清水宗治から「宗治蓮」と命名された。
籠城1か月余を経て、城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と、開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。
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本丸・二の丸を模して造成したものだろう。石碑や説明板などが設置してある。
【写真左】高台・その2
【写真左】高台・その3
築山頂部に墓石のようなものが建立されている。
【写真左】宗治の辞世の句
宗治が自刃する際、家人難波伝兵衛、高市之丞、小者の七郎次郎、加勢の軍将末近左衛門尉と共に船に乗り、秀吉の陣表まで漕ぎ出した。
そのあと、秀吉側からは堀尾茂助、すなわち後の松江藩初代城主となる吉晴が、小舟に乗って宗治に対面し、秀吉からの伝言を申し渡し、美酒を与えた。
そして、末期の盃を交わした後、誓願寺の詩を舞い、
〝浮世をば 今こそ渡れ
武士の名を 高松の苔に残して”
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市之丞が介錯をし、ここに46歳を一期として自刃した。
【写真左】清水宗治が自刃したといわれる場所
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高松城で自刃した城主清水宗治を追って、家臣らが互いに刺し違えて殉死した場所といわれている。
【写真左】花房家菩提所
宗治が自刃した場所の近くには花房家の菩提所がある。
花房氏は、宇喜多氏の家老で、高松城が落城した後、当城に入城した。(美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)参照)
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