御嶽城(みたけじょう)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中山奥ヶ野
●別名 鈴野川城、火の谷城
●高さ 440m(504m)、比高(200m)
●築城期 弘安5年ごろ(鎌倉後期))
●築城者 吉見頼行か
●城主 長野美作守
●遺構 郭、土塁、堀切、竪堀、虎口等
●登城日 2014年3月27日
◆解説(参考資料 「益田市誌(上巻)」、「山陰中央新報 マイタウン石見より 津和野藩ものがたり② 石見郷土研究懇話会副会長 山岡浩二」等)
御嶽城は石見国(島根県)津和野町中山と、長門国(山口県)萩市との県境を跨ぐ標高500m余の山に築かれた城砦である。
当城についてはこれまで、徳永城跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野中組)、吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)でも紹介したように、津和野城主・吉見氏の始祖頼行が木薗(木曽野)に入部した弘安5年(1282)ごろ、周囲に支城として築城したものの一つであるとされている。
主郭の比定地
ところで、登城の際、目的の山城・主郭などの位置については、当然ながら事前に調べていくのだが、今回も「島根県遺跡データベース」(以下「データベース」とする)を参考とした。
特に主郭の位置については、データベースからの地図をもとに、国土地理院の地図と重ね比較しながら特定していくが、結論からいえば、この御嶽城の主郭位置は、実際とかなりずれがあるように思える。
【写真左】登山口の標識
実際の主郭がある尾根から大分南に下がった位置の谷間に設置されている。
途中で道が不明となる。
具体的には、下図に示すように、データベースでは、南側の標高504mのピークを主郭としているが、実際にはこれより尾根伝いを北に約600mほど向かった標高440m余のピークではないかと思われる。
【写真左】御嶽城位置図
データベース上では、△504mの位置が御嶽城(主郭)とされているが、これよりさらに北の△(この位置)と記した箇所が実際の主郭位置と思われる。
前段で紹介している写真:「御嶽城の案内板」は、504mの位置に近い麓に設置されているが、この日、その谷から奥に進んだものの、途中から標識はおろか、道らしきものはなく、途中でこのコースを取りやめた。そして一旦降りて、麓にある地元の民家の御婦人に場所を確認した。
【写真左】登城道
麓に一軒の家があり、その手前に空き地がある。そこに車を停め谷沿いに進む。
途中までは踏み跡が鮮明に残っているが、その先はやや不鮮明になる。
すると、この谷とは大分離れた北側のハウス栽培農家の所の谷から登城道があるという。それだけでは分からないだろうから、そのハウス農家の方に電話しておくから、そこで改めて聞いてほしいという。御親切な対応をしていだき、恐縮してしまった。お礼を述べた後、件のハウスに立ち寄り、登城道を教えていただいた。
【写真左】尾根鞍部が見えてくる。
尾根を左に向かうと、おそらくデータベースに記された504mのピークにたどり着くと思われるが、地元の方に聞いた通り、逆の右の尾根を進む。
ハウスの方も若いご主人で、さらに丁寧な道を教えていただいた。山城登城の満足度は勿論本丸などの踏査を成就することで満たされるが、それとは別にこうした地元の方との心地よいコミュニケーションなどがあると、気分的に随分違う印象を残し、遺構の充実度とは別の意味で嬉しい気持ちになる。改めてお礼申し上げたい。
【写真左】分岐点(県境)
写真上方向が北となり、今回向かうコース。手前が504mのピークに向かう尾根筋。
右の方が登ってきた坂、左側が山口県になる。
吉見正頼の陶晴賢討伐の戦い
天文20年(1551)9月、大内義隆は大内家筆頭重鎮・陶晴賢の謀反によって長門大寧寺で自刃した。津和野・三本松城(津和野城)主・吉見正頼は義隆の義兄に当たる。このため正頼は復讐のため、同年10月挙兵した。正頼が最初にその矛先を向けたのが益田・七尾城の益田藤兼である。
【写真左】尾根道を北上
先ほどの分岐点から尾根道を進んで行くが、その間数回のアップダウンを繰り返す。途中には削平されたような平坦地も認められた。
写真の位置に来ると、道は尾根から逸れ西側(山口県側)の斜面をトラバースするようなコースとなる。
同月5日、吉見正頼・上領頼規は、緒戦で益田藤兼を破り、明くる6日、上野頼兼が津和野村下領野戸路山における藤兼の陣攻撃に対して、正頼は軍忠を賞した(「萩閥56」)。
これに対し、義隆を討ち果たした晴賢は、明くる天文21年3月、豊後から大友晴英を義隆後継者とし、大内義長と名乗らせた。そして、益田七尾城の益田氏には、義長名によって、藤兼を右衛門佐(すけ)に推挙し、益田尹兼には所領の安堵を行い、長門国豊田郡の地を領有させるなど、益田氏との強い絆を着々と深めていった。
【写真左】次第に高度を上げる。
途中で竪堀のような箇所が見えたが、自然崩落の跡のようだ。
【写真左】向きを変えてさらに上がっていく。
次第に一辺が短くなる九十九折となる。
城域が近くなってきた。
【写真左】御嶽城鳥瞰図
踏査した記憶を頼りに描いたもので、主郭から北に下がる尾根には長い郭があるが、段差が残るので、それぞれ「二ノ壇」「三ノ壇」と名付けた。
主郭から南に向かう尾根には、「四ノ壇」「五ノ壇」の二つの郭段が連続する。
なお、二ノ壇側から四ノ壇に向かう犬走りを図示しているが、現地は殆ど崩落していて原形をとどめない。
天文22年(1553)、晴賢と正頼の戦いはさらに本格的となり、10月12日、正頼は家臣の下瀬頼定と、石見国池田に陶晴賢の軍を破った(「下瀬文書」)。これに対し、晴賢は11月13日、大内義長と吉見氏の居城・三本松城を落とすべく、石見に入った。以後、両者の戦いは翌年の12月まで行われることになる。
【写真左】南に伸びる郭
最後の登り坂は結構きつかったが、城域に入ると、ご覧の南側郭段(「二ノ壇」及び「三ノ壇」)に出てくる。
南北60m×東西(5~10m)の細長い郭で、2,3段で構成されている。
このあと、北側(手前)の主郭に向かう。
翌23年1月23日、義長は津和野に赴き、平賀広相(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に参陣を促した(「平賀文書」)。平賀氏がこの段階で津和野にいたということは、おそらく態度を決めかねていた毛利氏からの要請があったものかもしれない。
ところで、晴賢(義長)と吉見氏との直接的な交戦記録は前半では余りない。むしろ、晴賢の命を受けた益田藤兼と吉見氏の戦いが多く、さらには藤兼の家臣・俣賀新蔵人が特に戦功を挙げている。
【写真左】主郭を見る。
手前から傾斜がつき、主郭の段と2m程度の高低差がある。
そして、さらに注目される出来事がこの間に起こった。それは、この年(天文23年)11月、尼子晴久が毛利元就の謀略によって、新宮党の尼子国久・誠久父子を誅滅したことである(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)。
毛利氏は晴賢からの度重なる支援要請を受けていたが、あえてこの時期は態度を明確にしておらず、むしろ尼子氏対策に意を注いでいた。
【写真左】主郭東面
右手前の斜面が登城道だが、その先(北)には、7~8m程下がった所に、東西に延びる郭段が控える。
【写真左】主郭西面
縁には土塁の痕跡が認められ、その下は切崖状となっている。
三本松城(津和野城)と御嶽城の動き
さて、この戦いの間、吉見氏の支城である御嶽城の動きはどうだっただろうか。
陶晴賢らの動きについては諸説あるようだが、本格的な戦いが繰り広げられたのは、天文23年3月以降とされている。最初に本陣を定めたのが、渡川(阿東町)で、ここから先ず正頼方の波多野滋信・秀信父子が守備する嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)を攻めた。
【写真左】東側から主郭を見る。
北端部は土塁若しくは櫓台が残り、祠を囲むように構成されている。
【写真左】「御嶽本城址」と刻銘された石碑
土塁で囲まれた北西端部に設置されているもので、相当古い石碑のようだ。
当城には波多野氏以外に、下瀬頼定と町野隆風らが援軍として加わっていた。激しい攻防が繰り広げられたが、途中で城内の田中次郎兵衛が陶軍に寝返りしたため落城、城将・波多野滋信や吉見範弘など殆どの武将が討死した。
3月16日、大内義長は本陣をさらに徳佐に進め、他方陶晴賢は長野へ進出、益田藤兼と合流した。その間、長門国側である阿武郡北部にあった吉見氏の五か所あった出城は次々と攻略され、ついに、木部の御嶽城も陶軍に完全包囲された。
【写真左】主郭跡に建立されている祠
周辺部が伐採されている所を見ると、定期的に地元の方によって清掃作業がされているようだ。
このあと、主郭から東に伸びる郭段に向かう。
同月19日、陶方武将・江良丹波守房栄(槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)、五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)参照)は、先発隊として北上、津和野三本松城の搦手に陣を構えた。
【写真左】陶ヶ嶽遠望
津和野川を挟んで北には三本松城がある。
その後晴賢は、義長の徳佐本陣と連絡が取りやすい場所として、三本松城を北東眼下に見下ろす栃ヶ岳(H:420m。後の陶ヶ嶽)に本陣を構えた。
晴賢らによる三本松城攻撃は、4月に入った中旬ごろといわれている。陶ヶ嶽に本陣を構えてから、実際に攻撃に入ったのが1か月も経ってからである。これは、おそらく御嶽城での戦いが長引いたことも一つの理由だろう。
【写真左】東の郭段・その1
ご覧のように主郭側のような整備状況ではない。伐採された樹木などがそのまま放置してあるため踏査も手間がかかる。
規模は凡そ東西80m×幅7m前後のもので、この箇所は一段目(「四ノ壇」)のもの。
足元が引っかかるが、この先の先端部まで向かう。
【写真左】東の郭段・その2
ここから下を覗くと、さらにもう一段腰郭(「五ノ壇」)が見える。
記録では御嶽城は完全包囲されたものの、落城した記録は残っていない。おそらく、御嶽城攻めの途中で、吉見氏本拠城である三本松城攻撃が優先されたためではないかと考えられる。
三本松城の戦いは4月中旬に始まり、8月2日まで計12回に及ぶ激戦が行われたが、結局三本松城の要害性と吉見正頼の徹底した籠城戦が功をそうし、両者は戦いを止め、和睦の形をとり講和が結ばれた。その条件の一つは、正頼の嫡男亀王丸(後の広頼)を差しだすことであった。また、三本松城における戦いの裏で、毛利元就は陶方の留守になった城を次々と落としていたが、そうした背景が陶氏による焦りを生み、停戦を余儀なくされたもう一つの理由でもあった。
【写真左】東の郭・2段目
幅は上の郭とほぼ同じだが、奥行は10m前後で小規模なもの。
この先は切崖となっており、その先には遺構は認められない。
この後、弘治元年(1555)10月、毛利元就は宮島厳島において陶晴賢を破り、陶軍残党をおとすべく周防に攻め込んだ。吉見正頼は翌2年の春、奪われていた長門阿武郡方面に進み、平山星ノ城・嘉年城を奪還、大内義長は追われるまま西へ奔り、長府且山(勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)参照)に逃げ込んだ。その後の顛末は周知の通りである。
【写真左】主郭から北東方向を俯瞰する。
麓にはこの日登城道とした谷間が見える。
また、写真中央部の奥には、黒谷横山城(島根県益田市柏原)が控える。
【写真左】主郭から最初に登城を試みた箇所を見る。
こうしてみると、麓にあった案内板はかなり位置がずれていると思われる。
【写真左】主郭から東南方向を見る。
左奥に見えるのは青野山か。
●所在地 島根県鹿足郡津和野町中山奥ヶ野
●別名 鈴野川城、火の谷城
●高さ 440m(504m)、比高(200m)
●築城期 弘安5年ごろ(鎌倉後期))
●築城者 吉見頼行か
●城主 長野美作守
●遺構 郭、土塁、堀切、竪堀、虎口等
●登城日 2014年3月27日
◆解説(参考資料 「益田市誌(上巻)」、「山陰中央新報 マイタウン石見より 津和野藩ものがたり② 石見郷土研究懇話会副会長 山岡浩二」等)
御嶽城は石見国(島根県)津和野町中山と、長門国(山口県)萩市との県境を跨ぐ標高500m余の山に築かれた城砦である。
当城についてはこれまで、徳永城跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野中組)、吉見氏居館跡(島根県鹿足郡津和野町中曽野木曽野)でも紹介したように、津和野城主・吉見氏の始祖頼行が木薗(木曽野)に入部した弘安5年(1282)ごろ、周囲に支城として築城したものの一つであるとされている。
主郭の比定地
ところで、登城の際、目的の山城・主郭などの位置については、当然ながら事前に調べていくのだが、今回も「島根県遺跡データベース」(以下「データベース」とする)を参考とした。
特に主郭の位置については、データベースからの地図をもとに、国土地理院の地図と重ね比較しながら特定していくが、結論からいえば、この御嶽城の主郭位置は、実際とかなりずれがあるように思える。
【写真左】登山口の標識
実際の主郭がある尾根から大分南に下がった位置の谷間に設置されている。
途中で道が不明となる。
具体的には、下図に示すように、データベースでは、南側の標高504mのピークを主郭としているが、実際にはこれより尾根伝いを北に約600mほど向かった標高440m余のピークではないかと思われる。
【写真左】御嶽城位置図
データベース上では、△504mの位置が御嶽城(主郭)とされているが、これよりさらに北の△(この位置)と記した箇所が実際の主郭位置と思われる。
前段で紹介している写真:「御嶽城の案内板」は、504mの位置に近い麓に設置されているが、この日、その谷から奥に進んだものの、途中から標識はおろか、道らしきものはなく、途中でこのコースを取りやめた。そして一旦降りて、麓にある地元の民家の御婦人に場所を確認した。
【写真左】登城道
麓に一軒の家があり、その手前に空き地がある。そこに車を停め谷沿いに進む。
途中までは踏み跡が鮮明に残っているが、その先はやや不鮮明になる。
すると、この谷とは大分離れた北側のハウス栽培農家の所の谷から登城道があるという。それだけでは分からないだろうから、そのハウス農家の方に電話しておくから、そこで改めて聞いてほしいという。御親切な対応をしていだき、恐縮してしまった。お礼を述べた後、件のハウスに立ち寄り、登城道を教えていただいた。
【写真左】尾根鞍部が見えてくる。
尾根を左に向かうと、おそらくデータベースに記された504mのピークにたどり着くと思われるが、地元の方に聞いた通り、逆の右の尾根を進む。
ハウスの方も若いご主人で、さらに丁寧な道を教えていただいた。山城登城の満足度は勿論本丸などの踏査を成就することで満たされるが、それとは別にこうした地元の方との心地よいコミュニケーションなどがあると、気分的に随分違う印象を残し、遺構の充実度とは別の意味で嬉しい気持ちになる。改めてお礼申し上げたい。
【写真左】分岐点(県境)
写真上方向が北となり、今回向かうコース。手前が504mのピークに向かう尾根筋。
右の方が登ってきた坂、左側が山口県になる。
吉見正頼の陶晴賢討伐の戦い
天文20年(1551)9月、大内義隆は大内家筆頭重鎮・陶晴賢の謀反によって長門大寧寺で自刃した。津和野・三本松城(津和野城)主・吉見正頼は義隆の義兄に当たる。このため正頼は復讐のため、同年10月挙兵した。正頼が最初にその矛先を向けたのが益田・七尾城の益田藤兼である。
【写真左】尾根道を北上
先ほどの分岐点から尾根道を進んで行くが、その間数回のアップダウンを繰り返す。途中には削平されたような平坦地も認められた。
写真の位置に来ると、道は尾根から逸れ西側(山口県側)の斜面をトラバースするようなコースとなる。
同月5日、吉見正頼・上領頼規は、緒戦で益田藤兼を破り、明くる6日、上野頼兼が津和野村下領野戸路山における藤兼の陣攻撃に対して、正頼は軍忠を賞した(「萩閥56」)。
これに対し、義隆を討ち果たした晴賢は、明くる天文21年3月、豊後から大友晴英を義隆後継者とし、大内義長と名乗らせた。そして、益田七尾城の益田氏には、義長名によって、藤兼を右衛門佐(すけ)に推挙し、益田尹兼には所領の安堵を行い、長門国豊田郡の地を領有させるなど、益田氏との強い絆を着々と深めていった。
【写真左】次第に高度を上げる。
途中で竪堀のような箇所が見えたが、自然崩落の跡のようだ。
【写真左】向きを変えてさらに上がっていく。
次第に一辺が短くなる九十九折となる。
城域が近くなってきた。
【写真左】御嶽城鳥瞰図
踏査した記憶を頼りに描いたもので、主郭から北に下がる尾根には長い郭があるが、段差が残るので、それぞれ「二ノ壇」「三ノ壇」と名付けた。
主郭から南に向かう尾根には、「四ノ壇」「五ノ壇」の二つの郭段が連続する。
なお、二ノ壇側から四ノ壇に向かう犬走りを図示しているが、現地は殆ど崩落していて原形をとどめない。
天文22年(1553)、晴賢と正頼の戦いはさらに本格的となり、10月12日、正頼は家臣の下瀬頼定と、石見国池田に陶晴賢の軍を破った(「下瀬文書」)。これに対し、晴賢は11月13日、大内義長と吉見氏の居城・三本松城を落とすべく、石見に入った。以後、両者の戦いは翌年の12月まで行われることになる。
【写真左】南に伸びる郭
最後の登り坂は結構きつかったが、城域に入ると、ご覧の南側郭段(「二ノ壇」及び「三ノ壇」)に出てくる。
南北60m×東西(5~10m)の細長い郭で、2,3段で構成されている。
このあと、北側(手前)の主郭に向かう。
翌23年1月23日、義長は津和野に赴き、平賀広相(頭崎城(広島県東広島市高屋町貞重)参照)に参陣を促した(「平賀文書」)。平賀氏がこの段階で津和野にいたということは、おそらく態度を決めかねていた毛利氏からの要請があったものかもしれない。
ところで、晴賢(義長)と吉見氏との直接的な交戦記録は前半では余りない。むしろ、晴賢の命を受けた益田藤兼と吉見氏の戦いが多く、さらには藤兼の家臣・俣賀新蔵人が特に戦功を挙げている。
手前から傾斜がつき、主郭の段と2m程度の高低差がある。
そして、さらに注目される出来事がこの間に起こった。それは、この年(天文23年)11月、尼子晴久が毛利元就の謀略によって、新宮党の尼子国久・誠久父子を誅滅したことである(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)。
毛利氏は晴賢からの度重なる支援要請を受けていたが、あえてこの時期は態度を明確にしておらず、むしろ尼子氏対策に意を注いでいた。
【写真左】主郭東面
右手前の斜面が登城道だが、その先(北)には、7~8m程下がった所に、東西に延びる郭段が控える。
【写真左】主郭西面
縁には土塁の痕跡が認められ、その下は切崖状となっている。
三本松城(津和野城)と御嶽城の動き
さて、この戦いの間、吉見氏の支城である御嶽城の動きはどうだっただろうか。
陶晴賢らの動きについては諸説あるようだが、本格的な戦いが繰り広げられたのは、天文23年3月以降とされている。最初に本陣を定めたのが、渡川(阿東町)で、ここから先ず正頼方の波多野滋信・秀信父子が守備する嘉年城(山口県山口市阿東町嘉年下)を攻めた。
【写真左】東側から主郭を見る。
北端部は土塁若しくは櫓台が残り、祠を囲むように構成されている。
【写真左】「御嶽本城址」と刻銘された石碑
土塁で囲まれた北西端部に設置されているもので、相当古い石碑のようだ。
当城には波多野氏以外に、下瀬頼定と町野隆風らが援軍として加わっていた。激しい攻防が繰り広げられたが、途中で城内の田中次郎兵衛が陶軍に寝返りしたため落城、城将・波多野滋信や吉見範弘など殆どの武将が討死した。
3月16日、大内義長は本陣をさらに徳佐に進め、他方陶晴賢は長野へ進出、益田藤兼と合流した。その間、長門国側である阿武郡北部にあった吉見氏の五か所あった出城は次々と攻略され、ついに、木部の御嶽城も陶軍に完全包囲された。
【写真左】主郭跡に建立されている祠
周辺部が伐採されている所を見ると、定期的に地元の方によって清掃作業がされているようだ。
このあと、主郭から東に伸びる郭段に向かう。
同月19日、陶方武将・江良丹波守房栄(槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)、五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)参照)は、先発隊として北上、津和野三本松城の搦手に陣を構えた。
【写真左】陶ヶ嶽遠望
津和野川を挟んで北には三本松城がある。
その後晴賢は、義長の徳佐本陣と連絡が取りやすい場所として、三本松城を北東眼下に見下ろす栃ヶ岳(H:420m。後の陶ヶ嶽)に本陣を構えた。
晴賢らによる三本松城攻撃は、4月に入った中旬ごろといわれている。陶ヶ嶽に本陣を構えてから、実際に攻撃に入ったのが1か月も経ってからである。これは、おそらく御嶽城での戦いが長引いたことも一つの理由だろう。
【写真左】東の郭段・その1
ご覧のように主郭側のような整備状況ではない。伐採された樹木などがそのまま放置してあるため踏査も手間がかかる。
規模は凡そ東西80m×幅7m前後のもので、この箇所は一段目(「四ノ壇」)のもの。
足元が引っかかるが、この先の先端部まで向かう。
【写真左】東の郭段・その2
ここから下を覗くと、さらにもう一段腰郭(「五ノ壇」)が見える。
記録では御嶽城は完全包囲されたものの、落城した記録は残っていない。おそらく、御嶽城攻めの途中で、吉見氏本拠城である三本松城攻撃が優先されたためではないかと考えられる。
三本松城の戦いは4月中旬に始まり、8月2日まで計12回に及ぶ激戦が行われたが、結局三本松城の要害性と吉見正頼の徹底した籠城戦が功をそうし、両者は戦いを止め、和睦の形をとり講和が結ばれた。その条件の一つは、正頼の嫡男亀王丸(後の広頼)を差しだすことであった。また、三本松城における戦いの裏で、毛利元就は陶方の留守になった城を次々と落としていたが、そうした背景が陶氏による焦りを生み、停戦を余儀なくされたもう一つの理由でもあった。
【写真左】東の郭・2段目
幅は上の郭とほぼ同じだが、奥行は10m前後で小規模なもの。
この先は切崖となっており、その先には遺構は認められない。
この後、弘治元年(1555)10月、毛利元就は宮島厳島において陶晴賢を破り、陶軍残党をおとすべく周防に攻め込んだ。吉見正頼は翌2年の春、奪われていた長門阿武郡方面に進み、平山星ノ城・嘉年城を奪還、大内義長は追われるまま西へ奔り、長府且山(勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)参照)に逃げ込んだ。その後の顛末は周知の通りである。
【写真左】主郭から北東方向を俯瞰する。
麓にはこの日登城道とした谷間が見える。
また、写真中央部の奥には、黒谷横山城(島根県益田市柏原)が控える。
【写真左】主郭から最初に登城を試みた箇所を見る。
こうしてみると、麓にあった案内板はかなり位置がずれていると思われる。
【写真左】主郭から東南方向を見る。
左奥に見えるのは青野山か。
0 件のコメント:
コメントを投稿