三隅城・その3
◆解説(参考文献「三隅町誌」等)
冒頭でも記したように、三隅氏は益田氏との抗争が絶えず行われていた。特に領地に関することが最大の理由だが、その主な領地とは次の3カ所が挙げられている。
この後も度々両氏の抗争が続けられるが、天文年間になると様子が変化していく。天文7年(1538)10月、大内義隆は長年両家の紛憂の根源であった津茂・疋見・丸茂の3カ所について、益田氏に対し、その所有を放棄し、その代償として、大内義興時代から示唆されていた長州阿武郡河島の地を与えることとした。
以上の記録とは別に、この時期記録されたものとしては、「益田市誌・上巻」に、三隅氏最期の城主隆繁の動きについて述べたものがある。
◆解説(参考文献「三隅町誌」等)
三隅町にある三隅氏菩提寺「正法寺」に建立されている。
現地の説明板によれば、「兼連が宮方についた契機のひとつに、奈良の真言律宗般若寺の本性明覚が、この石見地方に来て教化したことが挙げられている。…」と書かれている。
兼連は、以前にも記したように、正平10年(1355)、京都洛中で討死しているが、亡くなる時「自分の墓は東(都方面)に向けてくれ」と遺言したという。このため、この五輪塔は「東向(とうこう)の墓」とも呼ばれている。
はじめに
前稿で紹介した三隅兼連は、当城の歴代城主の中で特にその名をはせたため、その後の城主については、あまり詳しくは伝えられていない。今稿では、その後の三隅氏の主だった活躍を断片的ながら紹介しておきたい。
前稿で紹介した三隅兼連は、当城の歴代城主の中で特にその名をはせたため、その後の城主については、あまり詳しくは伝えられていない。今稿では、その後の三隅氏の主だった活躍を断片的ながら紹介しておきたい。
【写真左】正法寺の指定文化財
彫刻 木造雨宝童子立像と木造薬師如来坐像の二つが指定されているが、写真の仏像は、本堂前に左右同じような形式で彫刻された像で、これが文化財かどうかは不明。ただ、非常に大胆でユーモラスな作品だ。
【写真左】三隅本城本丸付近
彫刻 木造雨宝童子立像と木造薬師如来坐像の二つが指定されているが、写真の仏像は、本堂前に左右同じような形式で彫刻された像で、これが文化財かどうかは不明。ただ、非常に大胆でユーモラスな作品だ。
【写真左】三隅本城本丸付近
三隅氏を語る上では、前稿でも述べたように、益田氏が常に絡んでくる。というのも、三隅氏や福屋氏・周布氏などは、惣領益田氏の庶子家であることから、庶子家は常に惣領家の支配下に置かれ、分家したあとでもその独立性は拘束されてきた。
応永6年(1399)10月28日、周防国の大内義弘は関東管領・足利満兼と呼応し、倒幕を企て兵を募った。いわゆる応永の乱であるが、このとき石見の主だった諸将は大内氏の支配下にあったが、直接的には当時の益田兼世の命によって、大内(義弘)氏の軍に加わったという経緯がある。
【写真左】三隅城(その1)で示した水来山と三隅高城との間の谷
写真の左側が三隅高城側で、右側が水来城側になる。現在は御覧のようにこの谷付近は整備されているが、鞍部となった付近にはおそらく、水来山から布設された導水管(竹樋)が、その傾斜を保つために、高所の石積みか、もしくは、この谷を上空で横断するような導水施設がもうけられていたと思われる。
ただ、益田氏を中心とする石見武士は、このとき泉州(大阪)堺城で義弘を裏切り、管領畠山基国に寝返ったこともあり、義弘は堺城陥落と併せ討死した。このことから、守護大名であったとはいえ、石見の国人領主が必ずしも大内氏に忠誠を誓っていない、きわめて不安定なつながりであったことを示している。
上記の谷からさらに東へ100m程度いった芦谷地区から見たもので、この道をさらに東進すると、三隅城の支城である井野の井村城に繋がる。
長引いた三隅氏と益田氏の抗争
さて、前段で示したように、三隅氏は、戦国期に至るまで、惣領家の益田氏との関わりが続く。主な原因は、本家と分家との間で、領地をめぐって抗争が行われてきたものである。記録で初期に見えるものは、
さて、前段で示したように、三隅氏は、戦国期に至るまで、惣領家の益田氏との関わりが続く。主な原因は、本家と分家との間で、領地をめぐって抗争が行われてきたものである。記録で初期に見えるものは、
「正長2年(1429)6月27日、三隅氏と益田氏が戦端を開きそうになったので、幕府は、僧・満済に意見を徴した。」(満済准后日記)
とある。
おそらく、両者の抗争はこのときが初めてのものでなく、前稿で紹介した南北朝期頃よりその兆候が出ていたものと思われる。
その後、永享11年(1439)11月12~14日になると、今度は両者の抗争に対し、幕府は守護山名煕貴にその仲裁をさせているが、このときも一時的な和解で、抜本的な解決には至らなかった。
このような石見の状況下のもと、大和国(奈良県)では、越智氏と筒井氏を軸にした「大和永享の争乱」が起き、越智氏没落後は筒井氏の内部抗争が勃発する。これらを鎮圧すべく、幕府は諸国から守護を通じて諸将に招集をかけた。
石見からは対立したままの益田氏と庶子家が上洛することになった。他国の鎮圧に向かうよう命じられても、不和のままの石見諸氏がまともな任務を務めることはできない。果せるかな、京において、益田兼堯は、庶子家である三隅信兼・周布知兼・福屋某とその溝をさらに深くしてしまった。
このため、管領細川持之、守護山名煕貴の斡旋が行われたが、またもや不調に終わった。穿った見方をすれば、このことは、室町幕府の確立時点からの脆弱さがすでに露呈していたともいえる。
【写真左】龍雲寺その1
開基した人物については、三隅信兼とし、同じだが、その時期については、現地の説明板では、南北朝時代(1382)としているので、下段の「嘉吉元年(1441)」と合致していない。
また、信兼を当地の説明板では、第6代としているので、これも下段の第9代と符合しない。
ただ、彼の逝去した年が康正2年であることを考えると、開基時期は、嘉吉元年の方が信憑性が高いと思われる。
下って、嘉吉元年(1441)、三隅氏9代能登守信兼は、美濃郡種村にあった一院を、三隅本城山南麓に菩提寺として「龍雲寺」を開基した。彼はその15年後の康正2年(1456)2月晦日卒している。
【写真左】龍雲寺その2
石見札所20番となっており、「紙本墨書大般若経六百巻」は、県の文化財に指定されている。
境内庭園は大変に優美なもので、観光地の一つとされている。
なお、写真奥に聳える山が、三隅本城でこの角度から見ると、険峻さは感じられないが、登るにつれて要害堅固な山城であることが実感できる。
ところで、信兼の長男である太郎長信の代になって、一時益田氏と和睦している。文明9年(1477)9月27日、石見国大浜でのことである。
しかし、その1ヶ月後、元石見守護山名教清の領地である美作国(岡山県)で反乱がおこり、長信と嫡男・豊信は、教清に従って上京、その征途中、美作で長信は討死した。
9代信兼の長男である長信については、当然三隅氏10代となるが、資料によっては三隅氏の系図に入れていないものもある。
さて、長信の嫡子で三隅氏第11代となる豊信の代になると、応仁の乱が勃発する。石見国人の対応の中で三隅豊信は、西軍方につき、益田貞兼・吉見信頼・周布元兼・福屋国兼らと歩調を合わせた。しかし、益田氏をはじめ石見中部の国人層は、一方で東軍方にも家臣を送ったりして、必ずしも態度を明確にしていない。
【写真左】三隅神社と三隅城
龍雲寺から下って三隅の町に入る前の谷に建立されているのが、三隅神社である。
祭神は第4代城主・三隅兼連を祀っている。昭和12年(1937)に竣工している。ちょうどおとずれたとき(2010年6月頃)は、本殿などの改修工事が行われていた。
なお、写真奥の山が三隅本城である。
京都に起こった応仁の乱から、しばらくすると、西国では大内政弘の叔父・大内教幸(道頓)の乱がおこった。このときは、三隅豊信・周布元兼らは道頓に味方した。こうした一見矛盾した行動は、石見武士に限らず、 室町期における国人領主の一般的な動きであったという。
ところで、明応8年(1499)は、この三隅興信に関する史料が意外と多く残っている。
(1)3月9日、三隅興信、石見国永安別府半分・弥積分を吉川国経に譲る(吉川家文書)。
(2)9月23日、三隅興信、石見国二宮神社・岡本次郎左衛門尉の軍功を賞し、小石見郷政所名などを領有させる(岡本)。
(3)10月2日、三隅興信、安芸国廿日市に出陣中、肥塚三郎右衛門が石見国三子山城を留守にしたことを賞する(肥塚)。
(4)11月16日、三隅興信、肥塚吉久が中原城攻めで軍功を挙げたことを賞する(肥塚)。
三隅氏と益田氏が争った領地
冒頭でも記したように、三隅氏は益田氏との抗争が絶えず行われていた。特に領地に関することが最大の理由だが、その主な領地とは次の3カ所が挙げられている。
①津毛 ②疋見 ③丸茂
いずれも美濃郡内だが、このうち、③の丸茂については、「丸茂城」(2009年12月27日投稿)で紹介したように、現在の益田市美都町丸茂地域である。
②の疋見は、丸茂地域を流れる益田川をさらに上った匹見地域のことで、①の津毛については、「津茂」としている史料もあるが、現在の「都茂」地域と思われる。位置的には益田川中流域から上流部で、三隅側からいえば南方になり、益田側からは東方の領地に当たる。
この3地域は、もともと益田兼高の子・兼信、すなわち三隅氏の祖のとき、領有していたものである。その後、永享3年(1431)、益田兼理の代のとき、筑前深江で討死し、それを憐れんだ大内持世が、強引に三隅氏からその土地を奪い、兼理の子・兼堯に与えた。
これが発端となり、以後益田氏と三隅氏の抗争が続いたわけであるが、この経緯を考えると、両者の不和を惹起させた責任の一端は、大内氏にもあったわけである。
明応9年(1500)10月、三隅興信はこの土地の領有回復について、幕府に自領であることを訴えた。これに対し、益田宗兼は大内義興の臣・杉勘解由左衛門尉を通じて義興に訴えた。義興は宗兼の訴状の通りの回答を出したため、興信は益田氏に対して兵を挙げることになる。
前掲の明応8年の興信の動きに関する4点の記録は、先述した幕府に対する訴状時期より1年前になるが、すでにこのころから益田氏が領有争いをしていた3カ所以外の土地、すなわち石央(浜田市付近)まで侵攻していたもので、三隅氏にとっては、益田氏の東上阻止のための防戦であった。
この期間で行われた主な城砦として記録されているのは、浜田市の小石見城・三子山城、同じく長浜にあった中原ヶ城(場所不明)などがある。
途中で、大内義興による数度の仲裁があったが、全く両者は歩み寄りもなく、戦端はますます拡大していった。興信が幕府に自領であることを訴える1ヶ月前の、明応9年の9月15日、益田勢は猛烈な勢いで、本城三隅城へ迫った。このときの戦は特に激しくなったが、三隅氏の勇将・三浦左京助兼貞は益田氏の勢いを阻止すべく、果敢に防戦に努めた結果、益田氏は崩れ去った。
戦国期の状況
この後も度々両氏の抗争が続けられるが、天文年間になると様子が変化していく。天文7年(1538)10月、大内義隆は長年両家の紛憂の根源であった津茂・疋見・丸茂の3カ所について、益田氏に対し、その所有を放棄し、その代償として、大内義興時代から示唆されていた長州阿武郡河島の地を与えることとした。
さて、以前取り上げた瀬戸山城や、京羅木山城の時示したように、天文11年(1542)1月、大内義隆は尼子氏討伐のため、芸備諸豪や石見国人らを集め、3月二ツ山城に着陣したが、このとき石見武士の中に、三隅氏は名を連ねていない。
同国で集まったのは、益田藤兼・福屋隆兼・吉川和泉守・周布氏などである。三隅氏は、その3年前の天文8年、尼子経久が石見に侵攻した際、尼子氏によしみを通じていた。おそらくこうした背景があったため、参陣しなかったものと思われる。
その後、陶晴賢の謀叛によって大内義隆が滅ぼされ、尼子晴久が山陰・山陽の8カ国守護職に補任されると状況は大きく変化していった。陶晴賢の謀叛の際は、益田氏も三隅氏一族は陶氏に合力したが、他の石見国人は毛利氏についた。このあたりが非常に微妙、かつ複雑な対応で、当時、益田氏は吉見氏とも対立していたため、こうした態度をとったものと思われる。
なお、このころから三隅城主であった三隅隆兼の代になると、次第に同氏の勢威は衰えていく。
ここで、三隅氏の系図について、前回取り上げた同氏の系譜と少し内容が違うが、三隅氏最期の城主まで記載されている資料を挙げておきたい(木村晩翠著「三隅町史」による)。
三隅氏系図
益田兼高⇒三隅兼信(初代)⇒兼村⇒兼盛⇒兼連(4代)⇒兼知⇒直連⇒氏世⇒信兼(10代:9代とする説もある)⇒豊信⇒興信⇒興兼⇒兼隆(隆兼か)⇒隆繁(15代)
弘治3年(1557)3月23日、益田藤兼は毛利元就に服属するが、その軍門に下った場所は、三隅本城であった。というのも、この前に、益田藤兼は自城である益田七尾城を修復すると、すぐに三隅城に向い、無気力になった三隅隆兼から当城を奪い取り、ここに立てこもり、毛利氏と対峙したわけである。
正式に益田藤兼が毛利氏へ降伏を申し込んだのは、「大内義長墓地・功山寺」(2010年3月21日投稿)でも紹介したように、同年(弘治3年)4月3日、大内義長が当寺で自刃したため、益田氏としてはこれで全く大内氏に対する義理・忠義の必要がなくなり、その2日後の、4月5日、益田藤兼は吉川元春に対して正式に降伏の締結が行われた。
三隅氏の本城である三隅城が陥落し、毛利氏に対する降伏を行ったとあるので、同氏はこれでほとんど歴史のかなたに消えゆくような印象を持つが、三隅町誌によると、本城を支えてきた多くの支城では、その後も三隅氏の一族として攻防を続けていたと記している。参考までにその資料のタイトルを掲載しておく。
元亀元年(1570) 三隅之役攻防軍一覧
これには、城(砦)名として、湊口城(針藻砦)があり、三隅氏側守備軍に、大賀党(水軍)、川上源左衛門など、攻囲軍として、児玉伊勢守就英(児玉水軍)、村上出雲守通廣(村上水軍)
このほか、古市城、大多和外城、普源田城、三本松砦など約15カ所の支城での記録が掲載されている。
三隅氏の最期
以上の記録とは別に、この時期記録されたものとしては、「益田市誌・上巻」に、三隅氏最期の城主隆繁の動きについて述べたものがある。
元亀元年は出雲国・石見国が、同時多発的に毛利氏に席巻される年であるが、特にこの三隅城も激しい戦が行われた。
この年、毛利勢は茶臼山城(三隅川南岸にある三隅三城の一つ)と四ツ山城(2009年12月27日投稿)を落とし、三隅城に迫った。毛利勢に加勢し主力部隊となったのは、益田藤兼らである。その後、吉川元春が福光の戦いを終え、大軍でさらに大手側から攻め入った。
防戦の三隅氏の中で、特に活躍したのは小野盛吉で、毛利方の熊谷飛騨守を討ち取ったものの、残兵は僅かとなり、元亀2年(1571)9月26日(5日とも)、城主隆繁及び、弟国定兄弟は自刃した。
三隅神社境内に設置されているもので、元亀元年の三隅城落城の際、隆繁の愛児梅千代を守ったという石である。
説明板より
“厄よけ石
元亀元年(1570)三隅城落城のとき、城主隆繁は幼少の愛児梅千代を郎党惣蔵・乳母お房に守らせ、真言の霊場大麻山尊勝寺へ逃がした。
夜陰にまぎれて城を脱出したが、正法寺谷で敵に発見され、惣蔵は敵と渡り合って討死。その間に、お房は梅千代を抱き、谷川の石橋の下に隠れて難を逃れた。
そのとき石橋に使用されていたのが、この石で、以後、人々は厄よけ石としてあがめている。
その後、東平原を通って尊勝寺に駆け込んだお房は、梅千代を法印に頼み、直ちに引き返し、われ一人なりと、追手の中に果てた。
「乳母が塚」が室谷地内の旧道のそばにある。梅千代は大成して、尊勝寺中興の祖・良海法印と仰がれ、彼が描いた大麻山諸伽藍坊中絵図は、県の重要文化財に指定されている。”
楽しく拝読しております。
返信削除歴史の好きなシニアの一人です。
トミーさんの実際に現地に足を運ばれる行動力と博識にいつも感心させられます。
『西国の山城』三隅城・その3 を拝読して、益田藤兼との関わりに強く関心を抱きました。
一つ質問宜しいでしょうか。
>
>弘治3年3月益田藤兼は毛利元就に服属する。 その軍門に下った場所は三隅本城であった。
正式に藤兼が毛利氏へ降伏を申し込んだのは、同年4月3日、大内義長が功山寺で辞任した為、益田氏としては大内氏に対する義理、・忠義の必要がなくなり、その2日後の4月5日、益田藤兼は吉川元春に対して、正式に降伏の締結が行われた。
>
>
3月の益田藤兼と吉川元春の対峙は閥閲録に記載がある(但し、毛利元就は怒ったように書いてある)と聞いたことが有りますが、その時の対峙場所が三隅本城であった事と、4月5日の正式な降伏の締結について証する(関連する)古文書はあるのでしょうか?
ご承知の範囲でも結構ですが、トミーさんのご教授をお待ち申し上げます。
宜しくお願い申し上げます。
コメントありがとうございます。また拙稿を御笑覧いただき恐縮です。
削除さて、弘治3年4月5日、益田藤兼が吉川元春に対して降伏したことを証する史料(文書)の有無についてのお問い合わせですが、結論からいえば、一次史料は勿論、二次史料さえもあるのかどうか分かりません。
因みに、当稿の記載にあたっては『三隅町誌』及び、『益田市誌』を参考にしておりますが、残念ながら両誌とも藤兼と元春の間に交わされた降伏関係の文書があったかどうかは書かれていません。
ご案内の通り、弘治3年4月直前までの藤兼の動き・態度を見れば、元就が激昂したことは当然でしょう。しかし、元春はそれを承知の上で、あえて父に逆らい藤兼を降伏締結させています。その後、元春と藤兼は縁戚関係を結びますが、よほど二人は気があったのでしょう。また、藤兼との関係に関わらず、元春は猛将として名を馳せていますが、なかなか人間的にも情に厚く、管理人の好きな武将の一人、筑前・岩屋城(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)の高橋紹運と共通するものを感じます。
トミー 拝