2018年5月25日金曜日

白巣城(兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑)

白巣城(しらすじょう)

●所在地 兵庫県洲本市五色町鮎原三野畑
●別名 三野畑城
●指定 洲本市指定史跡
●高さ H:320m(比高200m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(安宅氏か)
●城主 安宅氏他
●遺構 郭・土塁・竪堀等
●備考 安宅八家衆
●登城日 2016年1月10日

◆解説
 先ごろの市町村合併により淡路島は、北から淡路市、洲本市、そして徳島県と接する南端部の南あわじ市の三つの区分となった。このうち、洲本市は同島の中央部に当たるが、今稿で取り上げる白巣城は、同市にあって旧津名郡五色町に築かれた山城である。
【写真左】白巣城
 西の丸に建立された安宅冬秀の石碑










現地の説明板より

史跡 白巣城跡 (しらすじょうあと)

 洲本市五色町鮎原三野畑(あいはらみのばた)所在の白巣城は、標高320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草(みちくさ)』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。

 永正16年(1519)に淡路守細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏(あたぎし)です。

【写真左】案内図
 現地に設置された「白巣山生き物マップ」という案内図で、下方が北を示す。
 白巣城はこの図では左上に配置されている。






 安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆(あたぎはっかしゅう)」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。 
【写真左】登城道途中に設置されているゲート
 城域の真下まで車で行けるようになっているようだが、ご覧の通り狭く、次第に急坂道となったので、安全のためこの日は、手前の空き地に駐車し、そこから歩いて向かった。

 因みにこのゲートから城域までは凡そ30分かかる。



 白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。 
【写真左】白巣城見取図
 北側から見た見取図になるが、説明板にもあるように、本丸を中心に右に西ノ丸を置き、少し下がって立岩、馬責場があり、東に延びる尾根には馬繋ぎ場、米倉、東の丸などがある。





 白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北350m、東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。 

 「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場(うまつなぎば)」「馬責場(うませめば)」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。
 また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。 

【写真左】この階段を上がる。
 登城道終点地点で、北側に当たるが、数年前までこの周りが崩落していたようで、この日訪れたときには復旧していた。



 秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したといわれています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。
 「竹の皮合戦」や「黄金の鶏(にわとり)」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。

 平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。”

【写真左】堀切
 階段を上がって少し進むと、さっそく堀切が現われる。









安宅氏(あたぎし)

 白巣城の城主といわれているのが、安宅氏である。安宅氏については以前取り上げた同市小路谷の洲本城でも紹介しているように、紀州熊野水軍の一族・安宅氏の出である。

 淡路に移る前の安宅氏の本拠地は、紀州の日置(ひき)川にあった安宅荘で、紀伊水道の河口周辺には海城を居城としていた安宅本城や、八幡山城などが残っている。
【写真左】西の丸・本丸方面に向かう。
 最初に西側に向かっていく。









 ところで、安宅氏が紀州に下向する前にいたのが、実は阿波国である。鎌倉末期に幕府から熊野海賊制圧の命を受け、阿波から紀州に派遣されたからだといわれているが、阿波国にあった時点で既に水軍領主として一定の勢力を誇っていたのだろう。

 このことから、元々阿波国にあったときは、安宅姓を名乗らず、紀州に下向してから安宅氏を名乗ったことになる。そして後に三好氏(勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)参照)から養子を迎えることになるが、同氏(安宅氏)が阿波国を本拠としていた点を考えると、遡れば同国の出である三好氏(阿波守護・小笠原氏庶流)の系譜に繋がっていたかもしれない。
【写真左】本丸と西の丸を連絡する郭
 手前が本丸で後ほど紹介するが、奥に少し高くなった箇所があり、西の丸が控える。
 本丸下の郭で、東側には馬繋場があり、そこから西まで伸びているので、本丸と西の丸を連絡する郭だが、馬繋場の一部としての役割をもったものだろう。


築城期

 当城の築城期についてもはっきりしないが、安宅氏が最初に築城したとされる洲本城とほぼ同じころ、すなわち永正年間(1504~)初頭と思われる。
【写真左】馬せめ場降り口
 さきほどの郭から西に降りていくと、馬せめ場が控えている。

 「馬せめ場」とは「馬攻め」すなわち、調教する場所だが、この日はそこまで向かっていない。見取図を見る限りあまり広くないようなので、実際には上掲の本丸と西の丸を連絡する郭での使用が多かったのかもしれない。


安宅九郎左衛門尉冬秀

 白巣城の城主については、説明板にもあるように「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門尉冬秀二三代居住す」と書かれている。ただこれは江戸時代の地誌からの引用で、時期についても漠然としておりはっきりしない。

 因みに、三好元長の三男冬康(長慶の実弟)が安宅治興へ養子に入って安宅冬康を名乗っているが、白巣城の城主冬秀は安宅氏嫡流の武将である可能性が高い。
【写真左】西の丸に設置された石碑
 西の丸はさほど大きなものでなく、片隅には「白巣城」と筆耕された石碑が建つ。
【写真左】西の丸から瀬戸内方面を眺望する。
 麓は五色町の街並み
【写真左】立岩
 西の丸から下に降りると馬責場があるが、その途中には郭の隅に縦に長く伸びた岩が見えている。
 このあと、少し下に降りてみる。
【写真左】二条の堀切
 上から見たもので、尾根幅は少し狭くなって、小規模な二条の堀切が確認できる。

 このあと、Uターンして本丸を目指す。
【写真左】本丸途中の段
【写真左】本丸
 本丸はきれいに削平され整備されている。連れ合いが合掌しているのは、左側に祠が祀られているからである。

 このあと、本丸の東南に伸びる郭段に向かう。
【写真左】馬つなぎ場
【写真左】虎口か
 馬つなぎ場の一角には開口部があった。おそらく虎口の一つだろう。
【写真左】土塁
 馬つなぎ場の二辺は土塁が構築されている。そのうち一辺は2m近い幅を持つ。
 また、隅の一角には礎石や列石の一部が残っている。

 このあと東の丸に向かう。
【写真左】米倉
 東の丸に向かう途中には米倉が配置されている。

 この箇所だけ独立した単郭で、周囲より2m前後高くなっている。構造から考えて、米倉と併せ物見櫓的な役割も担っていたのかもしれない。
【写真左】堀切
 米倉の付近にはご覧の堀切がある。
【写真左】東の丸
 この位置から右方向が大阪湾に当たる。
【写真左】東の丸からさらに伸びる尾根
 この尾根先端部からさらに下に降るようになっていたので、降りてみる。
【写真左】竪堀
 見取図には描かれていないが、途中に竪堀が構築されていた。








◎関連投稿

2018年5月15日火曜日

加井妻城(広島県三次市粟屋町上村)

加井妻城(かいづめじょう)

●所在地 広島県三次市粟屋町上村
●別名 青屋城・加伊津女城・飼地城・卑城
●高さ 標高224m(比高60m)
●築城期 永正元年~大永3年(1504~23)頃
●築城者 青屋出羽守友梅、三吉氏一族
●城主 同上
●遺構 郭・堀切・土塁・溝状遺構・集石遺構・建物跡
●登城日 2015年12月13日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 加井妻城は、安芸国では可愛川といわれる江の川と、その支流上村川との合流点に築かれた山城である。
【写真左】加井妻城遠望
 東側から見たもので、北麓を中国自動車道が走り、東麓を流れる可愛川は、北麓を流れる上村川と合流したのち、手前に向かって東進し、三次市街地に入って馬洗川などと合流したのち、江の川となって石見国(島根県)に流下していく。
 
【写真左】加井妻城の鳥瞰図
 『日本城郭体系』にある要図を参考に管理人によって描写したもの。
 この図では描いていないが、現在下方には上の写真にもあるように、中国自動車道が上村川と並行して走っている。可愛川(江の川)では同道の橋脚が掛けられている。



主な遺構

 最初に、上掲した鳥瞰図を基に主な遺構を記しておきたい。

 同図にもあるように、当城は平均的な連郭式山城の形態をなしている。先ず、当城の本丸に相当する郭が①の箇所にあたり、その背後には堀切が配置されている。郭①は48m×20mで、この位置から尾根は次第に細くなっていく。

 ④郭は31m×33mを測るが、この場所から柱穴と見られるものがいくつか検出され、小規模な建物跡の存在が確認されている。さらには、青磁・備前焼・瀬戸焼・鉄滓・釘・飾金具・土錘など多くの遺物が出土している。
【写真左】登城開始
 当城には案内標識などは全く設置されていない。このため、大雑把な地図と、勘を頼りに向かう。

 当城西側の谷から向かうことにした。あとで分かったのが、登城道としてはこの写真の左、即ち⑧、⑨の郭が配置されている尾根突端部の麓に、中国自動車道の点検タラップがあり、ここから向かえば、直ぐに郭段に繋がっていた。

 しかし、管理人が登城してから数日後、このタラップの入口に鎖が掛けられ、道路関係者でないと使えないようになってしまった。




 ⑦郭はご覧のように、当城最大の規模を持つ郭で、58m×40mを測る。この郭からは炭化物・焼土・集石遺構・ピット状遺構・土壙などが検出され、礎石などの石から建物が4,5棟建っていたものとされる。遺物としては、青磁・青花・備前焼・釘・古銭などがあることから、④郭と同じく、当城の中でも重要な場所だったと考えられる。

 西側に伸びる尾根には⑨郭があり、28m×22mの規模を持つもので、少なくとも2棟分の建物があったとされる。当該郭からは鉄蓋(てつぶた)・鋤先(すきさき)・陶磁器・飛石とみられる石や、鉄滓などが検出されたことから、野鍛冶の作業場があったとみられている。

【写真左】道が消滅
 左側が加井妻城の西側斜面に当たるが、険峻であることから、道が消滅していた。さらに奥に進むと、今度は泥濘状となり、足は度々すくわれ、悪戦苦闘。さらに連合いの杖が鳥獣捕獲器トラップにかかり、ついに彼女から登城拒否を宣告される。

 流石に管理人も途中で断念しようと思ったが、尾根にたどり着けば、きっと見ごたえのある遺構があるからと宥めすかしながらなんとか前に進む。


三吉氏

 当城については、前稿安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)でも少し触れているが、大永3年(1523)3月、高橋大九郎久光が当城を三千騎で攻め落城させたが、高橋父子はこの戦いの最中、油断から討ち取られ高橋勢は敗走したといわれる(『陰徳太平記』)。
 そして、この地が高橋氏と三吉氏との領地の境とされ、数年来両者は争っていたといわれた場所でもある。
【写真左】溜め池
 鳥瞰図にも示しているように、辿ってきた谷の最深部にはごらんの溜め池が残っている。
 北側の堤体は大分劣化していたため、漏水していたようだが、それでもいくらか水は溜っている。
 この溜め池は、上述したように当時の野鍛冶で使用されたものかもしれない。

 このあと、谷は二つに分かれ、東側の谷を登っていく。


 
 さて、このときの加井妻城の城主については詳しい記録は残っていないが、もともと比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)を居城としていた三吉氏一族とされ、さらには後段でも紹介している同族の青屋入道友梅ともいわれている。

 高橋大九郎久光の急死によって、三吉勢は逆転に転じ、久代(大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)参照)・高野山・木梨(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)・楢崎氏(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)参照)などを味方につけ、5,000騎をもって高橋氏の本城・出羽城まで打ち出た。
 これに対し、高橋氏は当時娘を毛利興元に嫁がせていた関係もあって、毛利氏が加勢し、3,500騎で逆に攻めたてた。

 なお、ここでいわれている出羽城については、石見国の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)と思われる。
【写真左】切崖
 やっとの思いで尾根にたどり着き、南から伸びる尾根を眺めたが、その先には遺構はないようだ。そして、反対側の北を見ると、見上げるような切崖が目に入った。
 どうやらこの位置が当城の南端部に当たるようだ。この切崖も加工されたものだろう。

 ここから尾根伝いに北に向かって下がっていく。


 高橋・毛利の連合軍による反撃により、石見に進攻していた三吉勢は安芸国へ退却、加井妻城には城主青屋入道友梅をはじめとする200騎と、久代・高野山の選兵800余騎の計1,000騎で防戦することとなった。

 追討し加井妻城を取り囲んだ高橋・毛利勢ではあったが、しばらくして山口の大内義興が大軍を率いて安芸国に進攻、尼子氏が手中に収めていた西条の鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を奪還した。
 これに対し、尼子経久は急遽出雲から西条を目指して南進、元就は経久に参陣するため、加井妻城における戦いは、一旦停止され、高橋・毛利勢の優勢のまま和議を結んだ。
【写真左】最高所の郭
 上図の鳥瞰図には描いてないが、この箇所も郭としての役目があったものだろう。







 因みに、尼子経久、毛利元就両軍が銀山城を攻撃したのは大永4年(1524)の7月から8月のことといわれている(『陰徳太平記』。

 翌年の大永5年になると、大内方の陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)が尼子方に属していた米山城主・天野興定を服属させ、8月には天野興定は興房と志方荘で尼子経久軍と戦っている。そして、最も注目されるのは、丁度このころから毛利元就は、尼子氏を離れ大内方に帰順していく時期でもある。
【写真左】堀切・その1
 鳥瞰図に示している南端部のもので、上の郭から見下ろしたもの。
【写真左】堀切・その2
 横から見たもの。なお、この堀切の東側には南北に細長い帯郭のようなものも付随している。
 このあと、更に南(左側)に進む。
【写真左】郭①
 堀切を登りきると、郭①に至る。
【写真左】郭②
 鳥瞰図では①と段差を持たせた郭として描いているが、現地は大分崩れたせいか、段差は無くなり、傾斜面で繋がって②に至る。

 奥行は20m程度とされているが、実際に踏査してみるともっと長く感じる。

 なお、①と②の間に礫が2,3段重ねてあるとされているが、この日は確認できなかった。
 このあと下に降りる。
【写真左】切崖
 ③の郭から見上げたもので、高低差がかなりある。
【写真左】郭③の先端部
 郭③は小規模なものだが、その先端部から下を見ると、かなりの高低差をもった切崖となっている。
【写真左】振り返ってみる
 この切崖もさきほどのものと同じ規模を持つ。
 この辺りから尾根は段々と傾斜がつき、尾根幅は狭まってくる。
【写真左】「狩猟」の標識
 下に向かって(北側)に降りていくと、途中でご覧の標識を発見。

 冒頭でも述べたように、中国自動車道関係者のエリアの一部でもあり、また「狩猟」用の罠(トラップ)などがあることから、今後一般人は入山しないほうがいいかもしれない。
【写真左】郭⑦の裏
 鳥瞰図には描いていないが、郭⑥から⑦に向かう途中にはご覧の様な高い土壇の塊がある。
【写真左】土壇
 石積というより、礫石が集積しているように見える。
【写真左】郭⑦
 当城の中でもっとも状態が良い郭。
 このほか、他の郭なども確認できたが、全体に小規模なものが多い。
【写真左】中国自動車道を見る。
 下方のほうで東と西に尾根は別れるが、そのうち西側の尾根を下がっていくと、眼下に中国自動車道が見える。
【写真左】勝山城遠望
 三吉氏が加井妻城が防御に弱いこともあって、のちに対岸にこの勝山城を築いたとされる。

2018年5月2日水曜日

安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)

安芸・松尾城(あき・まつおじょう)

●所在地 広島県安芸高田市美土里町横田
●別名 高橋城・松尾山城・土居城・土肥城
●高さ 457m(比高150m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 南北朝期か
●築城者 高橋氏
●城主 高橋氏
●遺構 郭・空堀・土塁
●登城日 2015年12月5日

◆解説(参考文献『安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド 安芸高田市歴史民俗博物館編』等)
 安芸・松尾城(以下「松尾城」とする。)は別名高橋城とも呼ばれ、城主は石見の藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)でも紹介した高橋氏である。
【写真左】松尾城遠望
 南麓部から見たもので、主郭付近のみ少し高くなっている。

 中国自動車道を走っていると、いつもこの特徴ある山容が目に入っていたので、いつかは登城したいと思っていた。


現地説明板

“広島県史跡
   松尾城跡
    所在地 安芸高田市美土里町横田
    指定年月日 平成19年4月19日

 この松尾城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、安芸・石見の両国にまたがって広大な領域を支配した国人領主、高橋氏の安芸国側の居城として構築した本格的な山城である。

 南北朝時代末期から室町時代初期に築城されたと推定され、享禄2年(1529)大内氏や、毛利氏の連合軍によって落城した。
【写真左】説明板
 県道6号線(吉田邑南線)の脇に、「松尾城入口」と記したバス停があり、そこから北に進むと、途中で右手にこの説明板が設置されている。



 城跡は、横田盆地北側にそびえる大狩山から南へ伸びた尾根上にある。比高約150mの最高所から東の尾根筋に郭を並べ、東・北・南の尾根続きに堀切、南北両側斜面に竪堀を配置し、高い切崖、明瞭な通路を有する加工度の極めて高いものである。

 広島県地域の中世政治史を語る上で、欠かせない城跡で、全国的に見ても現地に残る遺構の年代が判明する貴重な事例である。
   平成19年4月19日
      安芸高田市教育委員会”
【写真左】登城開始
 車である程度上に進むと、林道の入口に向かうが、その手前の適当な空き地に車を停める。
 そのあと、猪除けの柵を開けて進むと、ご覧の様な林道がある。
 この地点から右に曲がって進む。


築城期

 説明板にもあるように、当城の築城期ははっきりしないものの、南北朝後期から室町時代初期とされている。藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)でも述べたように、高橋氏が石見国に入って藤掛城を築いたのが、文和4・正平10年(1355)とされているので、松尾城はそれ以降となる。

 当稿の説明板にもあるように、文明8年(1476)の毛利命千代を護る重臣16人の契状に、高橋氏はこのころ、安芸国においては、「東は三次市作木町森山の岡、西は北広島町の壬生、南は安芸高田市美土里町の横田…」とあり、すでにこの松尾城が築かれていたことが分かる。
【写真左】登城道
 しばらく道形(みちなり)を進めば、安心と思ったが、途中で道が途切れてしまう。

 残念ながら道標らしきものは一切なく、ここから勘を頼りに向かうことにした。


 因みに、美土里町周辺においてこのほか高橋氏の城跡としては、毛利元就の兄・興元の正室の実家である生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)があり、高宮町原田には猪掛城(別名:高橋城・黒掛城)が、また近接して猪掛城の支城といわれる高橋城もある。
 また、確定していないものの、高橋氏の支配下であったとされる城跡としては、同じく美土里町横田に篝ヶ城(かがりがじょう)、及び同町本郷には高城などが推定されている。
【写真左】直登
 初っ端から迷走したが、無作為に上を目指していたら、ご覧のような整備された道を発見。

 ただ、直登でかなり傾斜がある。ここを登っていく。しかし、整備されていた区間はほんのわずか。







高橋大九郎久光

 永正年間(1504~21)頃、当城には高橋大九郎久光が城主として記録されている。久光は大永3年(1523)、三吉氏の属城であった加井妻城(広島県三次市粟屋町上村)を攻撃していたとき、油断から陣中で戦死したとされる。

 この加井妻城は、三次市粟屋町にあった城砦で、松尾城から東へおよそ15キロほど向かった上村川が可愛川(江の川)と合流する地点に築かれていた。

 久光が亡くなったあと、紆余曲折しているようだが、最終的に跡を継いだのは嫡男・弘厚といわれている。
【写真左】尾根ピークにたどり着く。
 結局、道らしきコースを発見できず、ひたすら尾根に向かって登り、この位置まで着く。

 すると、左側の木にに劣化したテープのようなものが付いている。
 磁石と地図を片手に、本丸を目指す。




松尾城落城

 前述したように、毛利興元の妻が松尾城から北へおよそ10キロほど向かった生田・高橋城から嫁いでいたが、途中から高橋氏は尼子方に転じるようになる。

 このころの高橋氏惣領が弘厚と思われるが、「新裁軍記」によれば、享禄2年(1529)5月2日、大内方・毛利元就は弘厚の居城・松尾城を攻略、さらにその子・興光の居城・藤掛城、阿須那城(鷲影城か:管理人)を占領、興光は自害する、と記されている。
【写真左】堀切
 尾根伝いに進んで行くと、次第に小規模な郭段が確認できる。

 尾根筋は次第に傾斜がつき、きつくなったところで、この堀切が現れる。
【写真左】本丸に向かって急斜面をよじ登る。
 堀切を過ぎると、さらに険しい斜面が控えている。殆ど道らしきものがなく、足元は枯葉が堆積しているため、高度を上げた途端にズルッと下がってしまう。

 このため、切崖としての防御効果は十分あるだろう。
 この傾斜面が冒頭の遠望写真で見えたコブのようなところになる。
【写真左】本丸(主郭)にとりつく。
 喘ぎながらやっと本丸にたどり着いた。

 本丸付近は、北西から東方向に軸をとった尾根に築かれ、北西側に主郭1を置き、東に少し下がって東西に伸びる郭2を配置している。
 写真は主郭1の南側。
【写真左】主郭1の奥へ向かう。
 主郭1は幅20m×奥行30mを持ち、北西端部には土塁が構築されている。

 また南東側の半分は2,3m程下がった段が付随している。
【写真左】北西端の土塁
 高さは50cm前後と高くないが、主郭1の北西から東にかけて回り込むように築かれ、幅は最大で5m前後もある。
【写真左】土塁下の尾根に堀切
 先ほどの土塁から北の尾根に降りると、堀切がある。
 先ず、降りてみる。
【写真左】大堀切・その1
 当城最大の規模を持つもので、右側が主郭の斜面になる。
【写真左】もう一つの堀切
 大堀切の北側にはさらに小さな堀切が控えている。ただ、こちらは下段の竪堀群と接近しているので、竪堀の一つと思われる。
【写真左】二条の堀切
 主郭の北側にはこのように大堀切をはじめとし、連続堀切や竪堀群が密集している。


 


 
【写真左】井戸跡か
 主郭の南西隅に大きな窪みがある。井戸跡かもしくは狼煙台の跡かもしれない。
【写真左】主郭から南・東方向へ降りていく。
 前述したように、主郭の南東部分に郭がある。

 南側に伸びる犬走りのような道を降りて向かう。
【写真左】主郭1の下の郭
 東に向かって次第に細くなっているが、長径15m前後のもの。
【写真左】主郭1と2の中間地点
 上記郭から下を見たもので、このあたりから尾根は東に軸をとり、郭2に向かう。
【写真左】郭2との分岐点
 上記郭が左側に当たり、右側との境に溝のようなものが確認できる。

 溝の右側には小規模な土塁があり、郭2の北側には細長く土塁が東西に約40m程構築されている。
【写真左】郭2の段
 便宜上主郭1と2に区分しているが、郭2は別の呼称としては二の丸と定義できそうな郭群で構成されている。
この写真はそのうち、約半分を占める北東部分の箇所で、溝のような箇所が確認できる。
【写真左】郭2の最下段
 当城の最東端部に残る郭で、上の郭をL字で囲むように構成されている。
【写真左】大手口か
 下山コースは堀切・竪堀群のある尾根伝いを西に進んだ。

 途中で人工的に加工されたような巨石が不自然に散在していた。
 石の片面が平滑に仕上げられていたので、番所のような場所だったのかもしれない。
【写真左】土橋
 登ってきた道より大分歩きやすい状況だったので、このコースが本来の登城道だったのだろう。

 途中で土橋が出てきた。なお、この先から左に曲がり、谷伝いに降り、途中で登城途中の道と合流した。
【写真左】駐車の位置に戻る。
 麓は現在民家などが建っているが、機能性を考えるとこの付近が屋敷跡だったと思わせるものがある。