2018年5月15日火曜日

加井妻城(広島県三次市粟屋町上村)

加井妻城(かいづめじょう)

●所在地 広島県三次市粟屋町上村
●別名 青屋城・加伊津女城・飼地城・卑城
●高さ 標高224m(比高60m)
●築城期 永正元年~大永3年(1504~23)頃
●築城者 青屋出羽守友梅、三吉氏一族
●城主 同上
●遺構 郭・堀切・土塁・溝状遺構・集石遺構・建物跡
●登城日 2015年12月13日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 加井妻城は、安芸国では可愛川といわれる江の川と、その支流上村川との合流点に築かれた山城である。
【写真左】加井妻城遠望
 東側から見たもので、北麓を中国自動車道が走り、東麓を流れる可愛川は、北麓を流れる上村川と合流したのち、手前に向かって東進し、三次市街地に入って馬洗川などと合流したのち、江の川となって石見国(島根県)に流下していく。
 
【写真左】加井妻城の鳥瞰図
 『日本城郭体系』にある要図を参考に管理人によって描写したもの。
 この図では描いていないが、現在下方には上の写真にもあるように、中国自動車道が上村川と並行して走っている。可愛川(江の川)では同道の橋脚が掛けられている。



主な遺構

 最初に、上掲した鳥瞰図を基に主な遺構を記しておきたい。

 同図にもあるように、当城は平均的な連郭式山城の形態をなしている。先ず、当城の本丸に相当する郭が①の箇所にあたり、その背後には堀切が配置されている。郭①は48m×20mで、この位置から尾根は次第に細くなっていく。

 ④郭は31m×33mを測るが、この場所から柱穴と見られるものがいくつか検出され、小規模な建物跡の存在が確認されている。さらには、青磁・備前焼・瀬戸焼・鉄滓・釘・飾金具・土錘など多くの遺物が出土している。
【写真左】登城開始
 当城には案内標識などは全く設置されていない。このため、大雑把な地図と、勘を頼りに向かう。

 当城西側の谷から向かうことにした。あとで分かったのが、登城道としてはこの写真の左、即ち⑧、⑨の郭が配置されている尾根突端部の麓に、中国自動車道の点検タラップがあり、ここから向かえば、直ぐに郭段に繋がっていた。

 しかし、管理人が登城してから数日後、このタラップの入口に鎖が掛けられ、道路関係者でないと使えないようになってしまった。




 ⑦郭はご覧のように、当城最大の規模を持つ郭で、58m×40mを測る。この郭からは炭化物・焼土・集石遺構・ピット状遺構・土壙などが検出され、礎石などの石から建物が4,5棟建っていたものとされる。遺物としては、青磁・青花・備前焼・釘・古銭などがあることから、④郭と同じく、当城の中でも重要な場所だったと考えられる。

 西側に伸びる尾根には⑨郭があり、28m×22mの規模を持つもので、少なくとも2棟分の建物があったとされる。当該郭からは鉄蓋(てつぶた)・鋤先(すきさき)・陶磁器・飛石とみられる石や、鉄滓などが検出されたことから、野鍛冶の作業場があったとみられている。

【写真左】道が消滅
 左側が加井妻城の西側斜面に当たるが、険峻であることから、道が消滅していた。さらに奥に進むと、今度は泥濘状となり、足は度々すくわれ、悪戦苦闘。さらに連合いの杖が鳥獣捕獲器トラップにかかり、ついに彼女から登城拒否を宣告される。

 流石に管理人も途中で断念しようと思ったが、尾根にたどり着けば、きっと見ごたえのある遺構があるからと宥めすかしながらなんとか前に進む。


三吉氏

 当城については、前稿安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)でも少し触れているが、大永3年(1523)3月、高橋大九郎久光が当城を三千騎で攻め落城させたが、高橋父子はこの戦いの最中、油断から討ち取られ高橋勢は敗走したといわれる(『陰徳太平記』)。
 そして、この地が高橋氏と三吉氏との領地の境とされ、数年来両者は争っていたといわれた場所でもある。
【写真左】溜め池
 鳥瞰図にも示しているように、辿ってきた谷の最深部にはごらんの溜め池が残っている。
 北側の堤体は大分劣化していたため、漏水していたようだが、それでもいくらか水は溜っている。
 この溜め池は、上述したように当時の野鍛冶で使用されたものかもしれない。

 このあと、谷は二つに分かれ、東側の谷を登っていく。


 
 さて、このときの加井妻城の城主については詳しい記録は残っていないが、もともと比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)を居城としていた三吉氏一族とされ、さらには後段でも紹介している同族の青屋入道友梅ともいわれている。

 高橋大九郎久光の急死によって、三吉勢は逆転に転じ、久代(大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)参照)・高野山・木梨(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)・楢崎氏(楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)参照)などを味方につけ、5,000騎をもって高橋氏の本城・出羽城まで打ち出た。
 これに対し、高橋氏は当時娘を毛利興元に嫁がせていた関係もあって、毛利氏が加勢し、3,500騎で逆に攻めたてた。

 なお、ここでいわれている出羽城については、石見国の二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)と思われる。
【写真左】切崖
 やっとの思いで尾根にたどり着き、南から伸びる尾根を眺めたが、その先には遺構はないようだ。そして、反対側の北を見ると、見上げるような切崖が目に入った。
 どうやらこの位置が当城の南端部に当たるようだ。この切崖も加工されたものだろう。

 ここから尾根伝いに北に向かって下がっていく。


 高橋・毛利の連合軍による反撃により、石見に進攻していた三吉勢は安芸国へ退却、加井妻城には城主青屋入道友梅をはじめとする200騎と、久代・高野山の選兵800余騎の計1,000騎で防戦することとなった。

 追討し加井妻城を取り囲んだ高橋・毛利勢ではあったが、しばらくして山口の大内義興が大軍を率いて安芸国に進攻、尼子氏が手中に収めていた西条の鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)を奪還した。
 これに対し、尼子経久は急遽出雲から西条を目指して南進、元就は経久に参陣するため、加井妻城における戦いは、一旦停止され、高橋・毛利勢の優勢のまま和議を結んだ。
【写真左】最高所の郭
 上図の鳥瞰図には描いてないが、この箇所も郭としての役目があったものだろう。







 因みに、尼子経久、毛利元就両軍が銀山城を攻撃したのは大永4年(1524)の7月から8月のことといわれている(『陰徳太平記』。

 翌年の大永5年になると、大内方の陶興房(陶興房の墓(山口県周南市土井一丁目 建咲院)参照)が尼子方に属していた米山城主・天野興定を服属させ、8月には天野興定は興房と志方荘で尼子経久軍と戦っている。そして、最も注目されるのは、丁度このころから毛利元就は、尼子氏を離れ大内方に帰順していく時期でもある。
【写真左】堀切・その1
 鳥瞰図に示している南端部のもので、上の郭から見下ろしたもの。
【写真左】堀切・その2
 横から見たもの。なお、この堀切の東側には南北に細長い帯郭のようなものも付随している。
 このあと、更に南(左側)に進む。
【写真左】郭①
 堀切を登りきると、郭①に至る。
【写真左】郭②
 鳥瞰図では①と段差を持たせた郭として描いているが、現地は大分崩れたせいか、段差は無くなり、傾斜面で繋がって②に至る。

 奥行は20m程度とされているが、実際に踏査してみるともっと長く感じる。

 なお、①と②の間に礫が2,3段重ねてあるとされているが、この日は確認できなかった。
 このあと下に降りる。
【写真左】切崖
 ③の郭から見上げたもので、高低差がかなりある。
【写真左】郭③の先端部
 郭③は小規模なものだが、その先端部から下を見ると、かなりの高低差をもった切崖となっている。
【写真左】振り返ってみる
 この切崖もさきほどのものと同じ規模を持つ。
 この辺りから尾根は段々と傾斜がつき、尾根幅は狭まってくる。
【写真左】「狩猟」の標識
 下に向かって(北側)に降りていくと、途中でご覧の標識を発見。

 冒頭でも述べたように、中国自動車道関係者のエリアの一部でもあり、また「狩猟」用の罠(トラップ)などがあることから、今後一般人は入山しないほうがいいかもしれない。
【写真左】郭⑦の裏
 鳥瞰図には描いていないが、郭⑥から⑦に向かう途中にはご覧の様な高い土壇の塊がある。
【写真左】土壇
 石積というより、礫石が集積しているように見える。
【写真左】郭⑦
 当城の中でもっとも状態が良い郭。
 このほか、他の郭なども確認できたが、全体に小規模なものが多い。
【写真左】中国自動車道を見る。
 下方のほうで東と西に尾根は別れるが、そのうち西側の尾根を下がっていくと、眼下に中国自動車道が見える。
【写真左】勝山城遠望
 三吉氏が加井妻城が防御に弱いこともあって、のちに対岸にこの勝山城を築いたとされる。

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