菅田城(すげたじょう)
●所在地 愛媛県大洲市菅田町菅田
●築城期 戦国時代
●築城者 大野上総介直之
●高さ 200m(比高130m)
●城主 大野(菅田)直之
●遺構 郭、空堀、石積み等
●備考 大野神社
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
菅田城は、前稿大洲城から東方へ約6キロ向かった神南山の尾根筋西端部の中腹に築かれた山城である。
築城期は確定はしていないものの、大洲城の支城として戦国期、大野直之が築城したといわれる。
【写真左】登城口付近
登城口は神南山権現駐車場という所にあるが、ここまでの道が大分狭く、小回りの利かない車では相当難儀するだろう。
菅田五郎停車場線という狭い道から、さらに狭くなった脇道なので、分からなくなったら地元の方に聞くのが一番いいかもしれない。
伊予・大野氏
伊予・大野氏の名が出てくるのは南北朝期である。正平23年(1368)、丹波・丹後守護であった仁木義尹が、武家方(幕府)として伊予に入った時、南朝方として義尹と戦ったのが、大野氏や吉岡・森山氏といわれている。
大野氏らはこの戦いで敗れることになるが、この時期すでに南朝方の勢威は消滅した情況で、同年末にいたると、幕府(武家方)では、その前年足利義詮が、嫡男義満に政務を継承させ、執事に細川頼之がつき、あくる年(正平23年)、義満が第3代室町幕府征夷大将軍の座についている。
【写真左】宗教法人 神道大成経大洲布教所
登城口の脇に立っている施設。
伊予での戦いの場所は、現在の内子町東部小田川周辺部であったといわれているため、久万高原町地域を本拠としたのはその後と思われる。
下って室町期に至ると大野氏は、隣接して支配していた森山氏と共に、細川氏に与し、伊予河野氏と対峙していた。
【写真左】登城口
この写真の右側に上掲した施設が建っており、その脇にトンネルのような登城道が見える。
道は雨水で中央部がクレパスのように抉られた状況のため、しばらく跨ぐような恰好で歩く。
大野直之
さて、戦国末期における直之が当初、本拠としたのがこの菅田城である。大野直之については、これまで土佐の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)などでも触れてきたが、戦国期における下剋上のもっとも殺伐とした時代を代表するような、残忍・冷酷な首領であった。この点から言えば、西国では備前の宇喜多直家と双璧の梟雄といえるだろう。
近年採石によって当時の面影が大分消失しかけているようだが、『城郭放浪記』氏の写真を見る限り、石積みなどは残っているようだ。
直之は後に大洲城主であった主君宇都宮豊綱の娘を妻として迎え、豊綱に見込まれて家老となった人物である。直之の生誕年ははっきりしないが、豊綱が永正16年(1519)生まれであることを考えると、天文年間(1532~54)の初期ごろと思われる。
【写真左】郭段か
登っていくと、左手に段が見え始める。ただ、以前が畑地だったような形跡にも見える。もっとも郭だったものを畑地としたのかもしれない。
永禄10年(1567)11月、毛利氏が伊予に向けて動き出した。河野氏の支配力は次第に低下し、南方の喜多郡の宇都宮氏、さらに宇和郡の西園寺氏らが河野氏から離れ、土佐一条氏(兼定)と手を結ぼうとしていた。
さらには一条氏は九州豊後の大友氏と密接な関係を持っていた。このため、毛利氏としては、一条氏らによって河野氏が駆逐されることは、豊後の大友氏が伊予においても勢力を拡大することになり、看過できない状況が生まれてきたからである。
【写真左】石積みの郭
下段に示す詰の段(本丸)と思われる箇所から下にかけては、およそ5段程度の郭段がなだらかな尾根上に築かれている。
そのうち、何か所かはこうした石積みが確認できるが、在城期間が短かったのか、保存状態はあまりよくない。
このため、毛利氏は河野氏を背後で支援しつつ、一条氏(大友氏)との間に挟まれていた宇都宮氏と西園寺氏に対して盛んに調略の手を企てていった。
このころ、河野氏を事実上支えていたのは、来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)と、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)である。
地蔵ヶ嶽城の城主であった宇都宮豊綱の家老・大野直之のこの頃の動きは、波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)で粗方紹介しているが、最終的には長宗我部氏に属し、最期には天正7年(1579)に河野氏に攻められ地蔵ヶ嶽城(大洲城)で自刃したというのが定説になっている。
【写真左】詰の段(本丸)
この写真の右側も尾根が伸びているが、詰の段の後ろ(右)に基壇のような高まりを残し、その先では尾根を大胆に切り落とした堀切(空堀か)がある。
その堀切から改めて上に延びる尾根を辿ってみたが、それ以上の遺構は確認できなかったので、城域としてはここまでと思われる。
写真左側には約2m程度下がった位置に長く伸びた郭が構成されている(下の写真)。
【写真左】詰の段の下にある郭
尾根の下がりをあまり修正しないまま、下に伸びる。
ただ、『伊予温故録』という史料では、山中に逃れて家臣に殺されたのだが、その際三歳の女児を抱き、命乞いをしたものの、願いは聞き入られず諸共刺殺されたと伝えている。どちらにしても、下剋上のこの時代といえども、度し難い豹変・変節を繰り返してきた者に対する末路は、なんとも哀れである。
【写真左】大野直之の石碑
戒名「高徳院殿徹山是心大居士」「前大洲城主 菅田隼人正直之…」と刻銘された石碑が建立されている。
平成元年に14代当主大野氏が施主とある。
●所在地 愛媛県大洲市菅田町菅田
●築城期 戦国時代
●築城者 大野上総介直之
●高さ 200m(比高130m)
●城主 大野(菅田)直之
●遺構 郭、空堀、石積み等
●備考 大野神社
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
菅田城は、前稿大洲城から東方へ約6キロ向かった神南山の尾根筋西端部の中腹に築かれた山城である。
築城期は確定はしていないものの、大洲城の支城として戦国期、大野直之が築城したといわれる。
【写真左】登城口付近
登城口は神南山権現駐車場という所にあるが、ここまでの道が大分狭く、小回りの利かない車では相当難儀するだろう。
菅田五郎停車場線という狭い道から、さらに狭くなった脇道なので、分からなくなったら地元の方に聞くのが一番いいかもしれない。
伊予・大野氏
伊予・大野氏の名が出てくるのは南北朝期である。正平23年(1368)、丹波・丹後守護であった仁木義尹が、武家方(幕府)として伊予に入った時、南朝方として義尹と戦ったのが、大野氏や吉岡・森山氏といわれている。
大野氏らはこの戦いで敗れることになるが、この時期すでに南朝方の勢威は消滅した情況で、同年末にいたると、幕府(武家方)では、その前年足利義詮が、嫡男義満に政務を継承させ、執事に細川頼之がつき、あくる年(正平23年)、義満が第3代室町幕府征夷大将軍の座についている。
【写真左】宗教法人 神道大成経大洲布教所
登城口の脇に立っている施設。
伊予での戦いの場所は、現在の内子町東部小田川周辺部であったといわれているため、久万高原町地域を本拠としたのはその後と思われる。
下って室町期に至ると大野氏は、隣接して支配していた森山氏と共に、細川氏に与し、伊予河野氏と対峙していた。
【写真左】登城口
この写真の右側に上掲した施設が建っており、その脇にトンネルのような登城道が見える。
道は雨水で中央部がクレパスのように抉られた状況のため、しばらく跨ぐような恰好で歩く。
大野直之
さて、戦国末期における直之が当初、本拠としたのがこの菅田城である。大野直之については、これまで土佐の波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)などでも触れてきたが、戦国期における下剋上のもっとも殺伐とした時代を代表するような、残忍・冷酷な首領であった。この点から言えば、西国では備前の宇喜多直家と双璧の梟雄といえるだろう。
直之は浮穴郡久万山の大除城主・大野利直の六男といわれている。大除城(おおよけじょう)というのは、大洲から東へ60キロ余り登った現在の久万高原町菅生にあった城砦で、管理人は登城はしていないが、麓を走る国道33号線からその姿を以前遠望したことがある。
直之は後に大洲城主であった主君宇都宮豊綱の娘を妻として迎え、豊綱に見込まれて家老となった人物である。直之の生誕年ははっきりしないが、豊綱が永正16年(1519)生まれであることを考えると、天文年間(1532~54)の初期ごろと思われる。
【写真左】郭段か
登っていくと、左手に段が見え始める。ただ、以前が畑地だったような形跡にも見える。もっとも郭だったものを畑地としたのかもしれない。
永禄10年(1567)11月、毛利氏が伊予に向けて動き出した。河野氏の支配力は次第に低下し、南方の喜多郡の宇都宮氏、さらに宇和郡の西園寺氏らが河野氏から離れ、土佐一条氏(兼定)と手を結ぼうとしていた。
さらには一条氏は九州豊後の大友氏と密接な関係を持っていた。このため、毛利氏としては、一条氏らによって河野氏が駆逐されることは、豊後の大友氏が伊予においても勢力を拡大することになり、看過できない状況が生まれてきたからである。
【写真左】石積みの郭
下段に示す詰の段(本丸)と思われる箇所から下にかけては、およそ5段程度の郭段がなだらかな尾根上に築かれている。
そのうち、何か所かはこうした石積みが確認できるが、在城期間が短かったのか、保存状態はあまりよくない。
このため、毛利氏は河野氏を背後で支援しつつ、一条氏(大友氏)との間に挟まれていた宇都宮氏と西園寺氏に対して盛んに調略の手を企てていった。
このころ、河野氏を事実上支えていたのは、来島通康(来島城(愛媛県今治市波止浜来島)参照)と、平岡房実(荏原城(愛媛県松山市恵原町)参照)である。
地蔵ヶ嶽城の城主であった宇都宮豊綱の家老・大野直之のこの頃の動きは、波川玄蕃城(高知県吾川郡いの町波川)で粗方紹介しているが、最終的には長宗我部氏に属し、最期には天正7年(1579)に河野氏に攻められ地蔵ヶ嶽城(大洲城)で自刃したというのが定説になっている。
【写真左】詰の段(本丸)
この写真の右側も尾根が伸びているが、詰の段の後ろ(右)に基壇のような高まりを残し、その先では尾根を大胆に切り落とした堀切(空堀か)がある。
その堀切から改めて上に延びる尾根を辿ってみたが、それ以上の遺構は確認できなかったので、城域としてはここまでと思われる。
写真左側には約2m程度下がった位置に長く伸びた郭が構成されている(下の写真)。
【写真左】詰の段の下にある郭
尾根の下がりをあまり修正しないまま、下に伸びる。
ただ、『伊予温故録』という史料では、山中に逃れて家臣に殺されたのだが、その際三歳の女児を抱き、命乞いをしたものの、願いは聞き入られず諸共刺殺されたと伝えている。どちらにしても、下剋上のこの時代といえども、度し難い豹変・変節を繰り返してきた者に対する末路は、なんとも哀れである。
【写真左】大野直之の石碑
戒名「高徳院殿徹山是心大居士」「前大洲城主 菅田隼人正直之…」と刻銘された石碑が建立されている。
平成元年に14代当主大野氏が施主とある。
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