霊仙山城(りょうぜんやまじょう)
●愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙
●築城期 南北朝期か
●築城者 不明
●備考 国分山城支城
●城主 中川親武・通任(戦国期)
●廃城年 天正13年(1585)
●遺構 城門、石垣、土塁、郭、堀切等
●高さ 157m(比高140m)
●登城日 2013年9月22日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
霊仙山城は、前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)から南に約2キロほど向かった標高157mの霊仙山に築かれた城砦である。
そして、以前紹介した世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)や、笠松山城(愛媛県今治市朝倉南)の北方に位置した独立山城でもある。
当城の西麓には、戦国期の城主であった中川親武が建立したとされる円久寺があり、当院には縁起と併せ、霊仙山城とのかかわりを記した説明板があり、次のように掲載されている。
【写真左】霊仙山城遠望
2009年10月に登城した南方に聳える笠松山城(下段の写真参照)から見たもの。
【写真左】霊仙山城から脇屋義助廟堂など国分方面を俯瞰する。
上下2枚の写真を見ても、南北朝期から戦国期の前半まで主だったこの辺りの城砦は、ほとんど「海城」であったと推測され、村上水軍をはじめとした制海権を持つ水軍領主が、紛れもなく勝敗のカギを握っていたものと思われる。
円久寺由緒より
“円久寺の由緒
霊仙山城主中川山城守親武は、伊予の国を守っていた河野18家の一族で松山の藤原村(今の伊予鉄市駅付近)に居住していたのであるが、河野本家の河野道直(道後湯築城主)の命により、霊仙山城主として派遣されたのである。
【写真左】円久寺
今治バイパス(R196 )の高市交差点から南に進み、頓田川沿いに進むと、霊仙山の北西麓に建立されている。
その親武が郷里の藤原村の寺を迎えて建てたのが円九寺で、御本尊は薬師如来であり、建立は天正元年で今より410年前である。親武はその後5年にして天正5年旧暦12月7日に54歳で病気で亡くなった。
例祭は新暦1月7日に行われている。なお、350回忌が昭和元年に当たるのを紀念して、親武を祀る山城堂が新築され、400回忌の法要も昭和50年に盛大に行われたのである。
親武が亡くなったので、弟の常陸介通任(みちとう)があとを継ぎ、霊仙山を守っていたのであるが、8年後の天正13年に来島通総(みちふさ)のために、激戦回を重ね遂に落城され、逃げて讃岐にかくれており、30年後に大坂夏の陣で討死したために、その墓所は当地にもなく所在不明である。
【写真左】登城口に至る。
当院の奥に墓地があり、その奥に進むと、霊仙山城の登城口がある。
写真中央部の箇所。ここから本丸まではおそそ700mとされているが、実際はもう少しあったような気がする。
当時の戦いに参加した家来には、麻生・世良・渡辺・秋山・石丸・加藤・村上・長井家があり、これらの家の方は後年戦火により荒れた寺の再興につくしたのである。
尚、親武の娘は天正7年に亡くなられ、お姫さんとして南山腹に祀られており、400年祭の法要も行われた。更に親武の妹は、家老大炊介の妻となっており、十二社さんの麓の麻生本家の墓所に祀られており、大炊介の400年祭も昭和49年に親族により盛大に行われたのである。
【写真左】登城道
主だった部分はごらんのような手すり、階段が敷設されており、地元では手ごろなハイキングコースとなっているようだ。
次に円久寺が曹洞宗として正式に認められたのは寛文6年で、それ以前の住職は7代あるが、認証後は17人で、17世が現在の村上徳存和尚で、16世が藤原画雲和尚である。この画雲和尚は山林や畑等の開墾整備をすると共に、昭和元年に山城堂を、昭和6年に庫裡を、昭和40年に本堂を新築するなど、その功績は甚大であったが、昭和45年9月3日に89歳で亡くなられたのである。
【写真左】霊仙山城遠望
登城途中のピークで当城の頂部が見える。
尚、前4代目の清室和尚は、世良家に生まれ出家して住職となり、円久寺の中興に努力せられたので、画雲和尚と共に円久寺再興に特に功績大であったとして、戒名では最高位の称号が贈られている。これら歴代の和尚さんの墓は、山城堂の西隣に祀られてある。
尚、円久寺・山城堂・お姫さん・麻生本家は勿論、檀家のご先祖全体を見守って下さるのが十二社さんであり、南山腹に祀られていたが台風で倒壊したので、昭和57年4月にコンクリート建に再建したのである。
記 昭和57年 1982年”
【写真左】もう一つの登城道と合流
登城道は円久寺側からのものと、谷を一つ隔てた北側の登畑からのものがある。
ただ、ここから合流して一本の道になる。
築城期・築城者
霊仙山城の築城期や築城者ははっきりしない。しかし、『日本城郭体系第16巻』によれば、当城は前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)で紹介した国分山城の支城の一つであったとされる。
このため、築城期も南北朝時代を降るものではないだろう、としている。
当城の位置を見てみると、写真でも示したように、本丸から俯瞰すると、北方2キロの位置には脇屋義助廟堂や国分山城が控え、南東方向へ目を転ずると、笠松山城・世田山城が重なるように背尾根の頂を見せている。まさに南北朝期の南朝方最後の戦いの場所となったであることは論を待たないだろう。
【写真左】郭段
本丸直下、200m手前には中央部に堀切跡と思われる鞍部の前後に郭段が確認できる。
ここまでは割と緩やかな坂道だが、この先からは急傾斜の箇所が出てくる。
遺構
霊仙山は東西1キロ、南北1.6キロのほぼ独立した山である。城砦としての規模はさほど大きなものではないが、西尾根や南尾根には広い谷が構成され、要所には水源も確保されていた。
現在明確な遺構を残すものは、頂部にある東西30m×南北80mの楕円形の主郭と、登城途中に見える二の丸と見れる削平地がある程度で、特記されるものは余りない。
【写真左】本丸北端
少し息が荒くなったところで、本丸の北端・切崖が見える。
しかし、当城がもっともその価値を持っていたのは、前記したように国分山城の支城であったことや、南北朝期における世田山・笠松山城攻めの際、北朝・南朝方ともこの城砦が戦略上重要な位置を占めていたことだろう。
【写真左】本丸
北側から見たもので、9月の登城だっため、ご覧の通り雑草が繁茂している。
戦国期
説明板にもあるように、戦国期は河野18家の一つといわれた中川家の親武が城主といわれる。菩提寺である円久寺が親武によって建てられたのが天正元年(1573)といわれているから、入城したのもおそらくこの直前だろう。
入城の命を下したのが、説明板にもあるように、河野本家の河野道直(道後湯築城主)とされている。説明板では、道直とされているが、一般的には「通直」である。ただ、ここで混乱するのは、河野氏累代の中で、この時期「通直」なる人物が実は二人存在している。
【写真】土塁
要所に土塁が認められるが、当時は全周囲に渡って構築されていたものと思われる。
本丸付近には特徴的な遺構は認められないが、南北間で北側1/3と区画された段差が見える。
一人は、河野氏22代・通清から数えて9代目に二家に分かれたうちの一つで、通義(30代)から教通を経て孫となった(通宣の子)・通直で、もう一人は通生から通吉の子となった通直である。
最初の通直は、同氏当主36代で、官位は弾正少弼とされ、もう一人の通直は39代・伊予守である。
【写真左】笠松山城と世田山城
おそらく、右側の突起した位置が笠松山城本丸で、左側の尖った山が世田山城と思われる。
36代弾正少弼には嫡男がいなかったため、後に通義の兄弟で、予州家を興した通之の流れを組む晴通が、弾正少弼に養子に入り、晴道が亡くなると、再び予州家から晴通の弟・通宣が家督を引き継ぎ、その後継に伊予守通直が継ぐことになる。つまり、36代の通直から39代の通直までは嫡嗣でなく、養子の形が多い。
【写真左】八幡神社
円久寺を少し下った位置に祀られている。
この付近には古代・中世の史跡が大変多く、「宮ヶ崎18寺社参拝コース」というものも作られている。
八幡神社は、斉明天皇(白鳳時代・661年頃)豊前(大分県)宇佐八幡宮から勧請されたもので、戦国期、霊仙山城主・中川山城守が敬神奉献したが、長宗我部氏による攻略の際、戦禍を受けた。その後地元民によって再興され今日に至っている。
さて、ここまで同氏系譜をなぞってみたが、円久寺の縁起説明板に記されていることが事実としても、残念ながら中川親武に霊仙山城に入城を命じた通直が36代なのか、39代なのか、管理人としては判断がつかない。
●愛媛県今治市旦・宮ヶ崎字上成乙
●築城期 南北朝期か
●築城者 不明
●備考 国分山城支城
●城主 中川親武・通任(戦国期)
●廃城年 天正13年(1585)
●遺構 城門、石垣、土塁、郭、堀切等
●高さ 157m(比高140m)
●登城日 2013年9月22日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
霊仙山城は、前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)から南に約2キロほど向かった標高157mの霊仙山に築かれた城砦である。
そして、以前紹介した世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)や、笠松山城(愛媛県今治市朝倉南)の北方に位置した独立山城でもある。
当城の西麓には、戦国期の城主であった中川親武が建立したとされる円久寺があり、当院には縁起と併せ、霊仙山城とのかかわりを記した説明板があり、次のように掲載されている。
2009年10月に登城した南方に聳える笠松山城(下段の写真参照)から見たもの。
上下2枚の写真を見ても、南北朝期から戦国期の前半まで主だったこの辺りの城砦は、ほとんど「海城」であったと推測され、村上水軍をはじめとした制海権を持つ水軍領主が、紛れもなく勝敗のカギを握っていたものと思われる。
円久寺由緒より
“円久寺の由緒
霊仙山城主中川山城守親武は、伊予の国を守っていた河野18家の一族で松山の藤原村(今の伊予鉄市駅付近)に居住していたのであるが、河野本家の河野道直(道後湯築城主)の命により、霊仙山城主として派遣されたのである。
【写真左】円久寺
今治バイパス(R196 )の高市交差点から南に進み、頓田川沿いに進むと、霊仙山の北西麓に建立されている。
その親武が郷里の藤原村の寺を迎えて建てたのが円九寺で、御本尊は薬師如来であり、建立は天正元年で今より410年前である。親武はその後5年にして天正5年旧暦12月7日に54歳で病気で亡くなった。
例祭は新暦1月7日に行われている。なお、350回忌が昭和元年に当たるのを紀念して、親武を祀る山城堂が新築され、400回忌の法要も昭和50年に盛大に行われたのである。
親武が亡くなったので、弟の常陸介通任(みちとう)があとを継ぎ、霊仙山を守っていたのであるが、8年後の天正13年に来島通総(みちふさ)のために、激戦回を重ね遂に落城され、逃げて讃岐にかくれており、30年後に大坂夏の陣で討死したために、その墓所は当地にもなく所在不明である。
【写真左】登城口に至る。
当院の奥に墓地があり、その奥に進むと、霊仙山城の登城口がある。
写真中央部の箇所。ここから本丸まではおそそ700mとされているが、実際はもう少しあったような気がする。
当時の戦いに参加した家来には、麻生・世良・渡辺・秋山・石丸・加藤・村上・長井家があり、これらの家の方は後年戦火により荒れた寺の再興につくしたのである。
尚、親武の娘は天正7年に亡くなられ、お姫さんとして南山腹に祀られており、400年祭の法要も行われた。更に親武の妹は、家老大炊介の妻となっており、十二社さんの麓の麻生本家の墓所に祀られており、大炊介の400年祭も昭和49年に親族により盛大に行われたのである。
【写真左】登城道
主だった部分はごらんのような手すり、階段が敷設されており、地元では手ごろなハイキングコースとなっているようだ。
次に円久寺が曹洞宗として正式に認められたのは寛文6年で、それ以前の住職は7代あるが、認証後は17人で、17世が現在の村上徳存和尚で、16世が藤原画雲和尚である。この画雲和尚は山林や畑等の開墾整備をすると共に、昭和元年に山城堂を、昭和6年に庫裡を、昭和40年に本堂を新築するなど、その功績は甚大であったが、昭和45年9月3日に89歳で亡くなられたのである。
【写真左】霊仙山城遠望
登城途中のピークで当城の頂部が見える。
尚、前4代目の清室和尚は、世良家に生まれ出家して住職となり、円久寺の中興に努力せられたので、画雲和尚と共に円久寺再興に特に功績大であったとして、戒名では最高位の称号が贈られている。これら歴代の和尚さんの墓は、山城堂の西隣に祀られてある。
尚、円久寺・山城堂・お姫さん・麻生本家は勿論、檀家のご先祖全体を見守って下さるのが十二社さんであり、南山腹に祀られていたが台風で倒壊したので、昭和57年4月にコンクリート建に再建したのである。
記 昭和57年 1982年”
【写真左】もう一つの登城道と合流
登城道は円久寺側からのものと、谷を一つ隔てた北側の登畑からのものがある。
ただ、ここから合流して一本の道になる。
築城期・築城者
霊仙山城の築城期や築城者ははっきりしない。しかし、『日本城郭体系第16巻』によれば、当城は前稿脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)で紹介した国分山城の支城の一つであったとされる。
このため、築城期も南北朝時代を降るものではないだろう、としている。
当城の位置を見てみると、写真でも示したように、本丸から俯瞰すると、北方2キロの位置には脇屋義助廟堂や国分山城が控え、南東方向へ目を転ずると、笠松山城・世田山城が重なるように背尾根の頂を見せている。まさに南北朝期の南朝方最後の戦いの場所となったであることは論を待たないだろう。
【写真左】郭段
本丸直下、200m手前には中央部に堀切跡と思われる鞍部の前後に郭段が確認できる。
ここまでは割と緩やかな坂道だが、この先からは急傾斜の箇所が出てくる。
遺構
霊仙山は東西1キロ、南北1.6キロのほぼ独立した山である。城砦としての規模はさほど大きなものではないが、西尾根や南尾根には広い谷が構成され、要所には水源も確保されていた。
現在明確な遺構を残すものは、頂部にある東西30m×南北80mの楕円形の主郭と、登城途中に見える二の丸と見れる削平地がある程度で、特記されるものは余りない。
【写真左】本丸北端
少し息が荒くなったところで、本丸の北端・切崖が見える。
しかし、当城がもっともその価値を持っていたのは、前記したように国分山城の支城であったことや、南北朝期における世田山・笠松山城攻めの際、北朝・南朝方ともこの城砦が戦略上重要な位置を占めていたことだろう。
【写真左】本丸
北側から見たもので、9月の登城だっため、ご覧の通り雑草が繁茂している。
戦国期
説明板にもあるように、戦国期は河野18家の一つといわれた中川家の親武が城主といわれる。菩提寺である円久寺が親武によって建てられたのが天正元年(1573)といわれているから、入城したのもおそらくこの直前だろう。
入城の命を下したのが、説明板にもあるように、河野本家の河野道直(道後湯築城主)とされている。説明板では、道直とされているが、一般的には「通直」である。ただ、ここで混乱するのは、河野氏累代の中で、この時期「通直」なる人物が実は二人存在している。
【写真】土塁
要所に土塁が認められるが、当時は全周囲に渡って構築されていたものと思われる。
本丸付近には特徴的な遺構は認められないが、南北間で北側1/3と区画された段差が見える。
一人は、河野氏22代・通清から数えて9代目に二家に分かれたうちの一つで、通義(30代)から教通を経て孫となった(通宣の子)・通直で、もう一人は通生から通吉の子となった通直である。
最初の通直は、同氏当主36代で、官位は弾正少弼とされ、もう一人の通直は39代・伊予守である。
おそらく、右側の突起した位置が笠松山城本丸で、左側の尖った山が世田山城と思われる。
36代弾正少弼には嫡男がいなかったため、後に通義の兄弟で、予州家を興した通之の流れを組む晴通が、弾正少弼に養子に入り、晴道が亡くなると、再び予州家から晴通の弟・通宣が家督を引き継ぎ、その後継に伊予守通直が継ぐことになる。つまり、36代の通直から39代の通直までは嫡嗣でなく、養子の形が多い。
【写真左】八幡神社
円久寺を少し下った位置に祀られている。
この付近には古代・中世の史跡が大変多く、「宮ヶ崎18寺社参拝コース」というものも作られている。
八幡神社は、斉明天皇(白鳳時代・661年頃)豊前(大分県)宇佐八幡宮から勧請されたもので、戦国期、霊仙山城主・中川山城守が敬神奉献したが、長宗我部氏による攻略の際、戦禍を受けた。その後地元民によって再興され今日に至っている。
さて、ここまで同氏系譜をなぞってみたが、円久寺の縁起説明板に記されていることが事実としても、残念ながら中川親武に霊仙山城に入城を命じた通直が36代なのか、39代なのか、管理人としては判断がつかない。
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