2019年10月26日土曜日

昼寝城(香川県さぬき市多和)

昼寝城(ひるねじょう)

●所在地 香川県さぬき市多和
●指定 さぬき市指定史跡
●高さ 460m(比高220m)
●築城期 嘉吉年間(1441~44)ごろ
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏
●遺構 郭、土塁等
●登城日 2016年10月31日

◆解説
 「昼寝城」とは変わった城名である。伝承では、当城が難攻不落の城郭で、「昼寝をしていても落とされない」ことからこの名がつけられたともいわれている。

 当城はさぬき市を流れる鴨部川の上流部多和にあって、その支流・太郎兵衛川と並行して走る同名の矢筈大郎兵衛林道の途中から南に登った標高460mの山塊に築かれている。
 讃岐山脈(阿讃山脈)の一角に所在し、近くには矢筈山・女体山・東女体山といった標高800m近くの峰々が林立し、これを超えると四国88ヶ所霊場の結願所となる大窪寺がある。
【写真左】昼寝城遠望
 林道の途中から見たもので、讃岐山脈の山並みの一角にあるため、麓からはどの山に当たるのか分かりづらい。
 下山したあと、改めて確認できた。


現地の説明板より

‟昼寝城

 古代の讃岐公の一族で、世々寒川郡司をつとめた寒川氏は、室町時代後期には、大内・寒川の二郡のほかに小豆島も兼領し、この昼寝城を本城に、池の内の台ガ山城(長尾町名(長尾名か))を出城に、大内郡の虎丸(大内町)引田城(引田町)を支城にした。戦国期の終わり頃まではここに城があったと考えられる。
【写真左】案内図
 県道志度山川線と昼寝城に向かう枝線(林道矢筈大郎兵衛線)の分岐点に設置されているもので、昼寝城は中央右に描かれている。なお、下方が北になる。


 1980年の調査で、白磁は(ほ?)どの陶磁器や、銅環・銅製切羽などの金属製品、多数の銅銭、砥石、玉石などが出土した。また、最近の調査では、(1988年『中世城郭研究』)「遺構は尾根筋を堀切で遮断、土塁囲みを構築した本丸曲輪が見られ、シンプルな縄張りであるが、在地領主の小規模城郭としては、防御構築物に合理性が見られ、良くできた城郭と言える。」と評価されている。
【写真左】登城口
 林道の途中に車2,3台分駐車できるスペースがあり、当城の説明板などが設置されている。
 右側は谷となっており、しばらく山の右側斜面を進む道がついている。



 もともと、大多和神社(延喜式内社)から行基菩薩が布施屋を開いたという伝承のある古大窪に通じる道の途中、今も比丘尼(女性の宗教者がいたか?)渕と呼ばれる所から右に登る道があった。

 なぜ、こんな奥地にという疑問があるだろうが、古代の信仰集団の存在や、鉱物資源を求める工人集団の存在を示す遺構があり、今周辺に見られる石垣の見事さから、かなりの人の住居が想像できるのである。
    さぬき市教育委員会″
【写真左】登城道
 しばらくこうした斜面の道が続く。ところどころ道が崩れ、荒れた箇所が多いので、足元をすくわれそうになる。




古代讃岐公の後裔

 築城者は寒川氏(さんがわし)といわれている。説明板にもあるように、同氏は古代讃岐公の一族とされる。讃岐公という名称は、『新撰姓氏録』の記載名で、一般には古代氏族讃岐氏と呼ばれる(以下「讃岐氏」とする。)。

 讃岐氏は延暦年間(782~)ごろから本貫地を寒川郡神崎郷に置いている。この場所は、現在のさぬき市寒川町神前(かんざき)付近で、東に津田川、西に鴨部川の二つに囲まれた位置にある。

 讃岐氏の後裔としては、当城の築城者・寒川氏をはじめ、和気氏、植田氏(戸田山城(香川県高松市東植田町南城)参照) 、神内氏、三谷氏(王佐山城(香川県高松市西植田町) 参照)、由良氏、十河氏(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)、高松氏(旧・高松城(香川県高松市高松町帰来) 参照)、高木氏、三木氏などの諸氏が輩出した。
【写真左】尾根にたどり着く。
 トラバース状の道をしばらく進むと、やっと尾根にたどり着いた。
 この個所には若干の平坦地があり、郭らしき雰囲気がある。


寒川氏安富氏東讃覇権争
 
 さて、今稿の昼寝城の城主として名が残るのは、寒川元家・元政父子らである。室町時代後期には、大内郡・寒川郡、及び小豆島を支配下に治めていたというから、現在のさぬき市・東かがわ市・小豆島町・土庄町となり、東讃のほぼ全域を領有していたことになる。

 本城となる昼寝城は、冒頭でも述べたように、東讃の中でももっとも南に向かった阿波国と接するさぬき市の多和の山間部に所在する。出城とした池の内の台ガ山城は、昼寝城から北に降りた長尾名にあって、別名池内城とよばれた標高87mの丘城である。また、支城とされるのは既に紹介した虎丸城(香川県東かがわ市与田山) と、引田城跡(香川県東かがわ市 引田) である。
【写真左】尾根左側へ
 尾根筋にたどり着いたものの、そのあと何度か尾根の左右を交互に進むルートとなる。





 ところで、この寒川氏と相争ったのが、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中) の安富氏である。安富氏は、讃岐南北朝期における白峰合戦(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町) 参照)で、細川頼之が南朝方を一掃したあと、細川氏は直臣を当地に下向させ支配を行っていくが、このとき下向したのが、安富氏をはじめ、香川氏(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)、奈良氏(聖通寺城(香川県綾歌郡宇多津町坂下・平山) 参照)といった外来一族である。

 安富氏の居城雨滝城の所在地は、寒川氏の初期の本貫地寒川郡神崎とは津田川を介して僅か2キロほどしか離れていない。このため、安富氏の東讃下向時、在来の寒川氏との対立が勃発するのは当然の成り行きだった。しかし、讃岐守護細川氏の後ろ盾を背景に、東讃の守護代となり、名目上寒川氏は安富氏の傘下に置かれ、西讃の守護代は香川氏となっていく。
【写真左】再び右の斜面へ
 同じような写真が続くが、このあたりになると道はほとんど崩落状態で、しかも傾斜がさらにきつくなる。




 しかし、こうした東讃の勢力図も応仁・文明の乱のころになると極めて不安定な様相を呈し、文明元年(1469)、元は同族であった王佐山城の三谷氏と不和を生じ、細川政元の命よって一時は矛を収めたが、再び同氏を攻めている。このほか、応仁・文明の乱における東軍と西軍の対立は讃岐国にも及び、守護代をはじめ、中小の国人領主らが錯綜した争いを展開している。
【写真左】前方が開けてきた。
 山の形状が急峻なため、登城道はどうしても良好な状態には保てないようだ。

 逆に言えば、敵の侵入を困難にさせるまさに天然の要害ともいえる。

 
十河・三好氏の圧迫

 永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を奉じて入京したころ、阿波の三好氏は東讃に介入し始めた。そして、植田氏及び、その系譜に繋がる十河氏らを抱き込み、香西・寒川氏らを攻め始めた。

 大永6年(1526)12月、三好氏の支援を受けた十河氏は、三千余騎をもって寒川氏を攻めた。これに対し、寒川氏は巧みな戦術で十河軍に大勝した。しかし、このころ、十河氏は、植田・神谷・三谷氏らとも連合し、数の上では圧倒的に寒川氏を上回っていた。このため、十河・三好氏の圧迫は寒川氏にとって次第に脅威となり、西讃の諸氏に援けを求めた。
【写真左】細尾根の郭
 尾根にたどり着くと、奥に向かって削平された長い郭が続く。昼寝城は細長い尾根上に構築された城郭のため、まとまった規模の郭は少ない。
 両岸は険峻な切岸である。


 それに応えたのが、香川山城守(天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原) 参照)と香西豊前守(勝賀城(香川県高松市鬼無町) 参照)である。さらに一宮大宮司らと図って、寒川氏支援のため、一宮に大軍を出兵させた。この場所は、現在の高松市一宮町付近で、十河氏の居城十河城や、由良山城などを寒川氏側と挟む位置にある。このため遠巻きに陣していた十河・三好氏連合軍は、これを知って兵を引き上げた。

 ところで、この戦いの6年後となる天文元年(1532)、十河一存(かずまさ)が、長尾名村の池内城を攻め、寒川方の神内左衛門兄弟の槍に左腕を刺されたが、これに屈せず一存は左衛門らを討った。この武勲により一存は「鬼十河」と巷間伝えられている。しかし、十河(三好)一存は、この戦いの年(1532年)に生まれているので、全く時期が合わない。おそらく、これはその後、兄・三好長慶を支えながら戦った畿内での武勇伝から生まれた逸話だろう。

 十河氏との戦いは、そのあと細川晴元(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山) 参照)の斡旋により両者は和睦した。
【写真左】本丸が見えてきた。
 尾根伝いに中小の郭段が続いていくが、その奥には祠が祀られた本丸が見えてきた。




安富氏びの攻防

 十河氏は、細川晴元の斡旋を受け入れたが、しかし、安富氏はこれに従わなかった。安富氏がこうした行動に出たのは、すでに安富氏が寒川氏をはじめ、三好氏(十河氏)とも対立していた背景があった。
 天文9年(1540)、安富盛方は一千余騎をもって寒川領に侵攻、当時平時の住まいとしていた長尾名(池内城)を落とすと、寒川元政の子・元隣は昼寝城に立て籠った。すると、安富方はこの城を兵糧攻めにした。この戦いは3年に及んだが、戦いの決着はつかなかった。
【写真左】「昼寝山」と記された看板
 本丸付近には、「昼寝山 460m さぬき市合併10周年」と書かれた看板が木に懸けられている。
 当市は、2002年に合併しているので、2012年に設置されたものだろう。



昼寝城落城寒川氏滅亡

 東讃における安富・寒川氏らの攻防はその後も続き、元亀3年(1572)、安富氏が盛定となると、三好氏の重臣・篠原長房(上桜城(徳島県吉野川市川島町桑村)参照)の女を娶り、三好氏との関係を修復し、寒川氏打倒へと動いた。

 三好長治は安富氏の要請により、寒川氏に対し、同氏の領域である大内郡(おおちぐん)を引き渡すように命じた。大内郡というのは、現在の東かがわ市に当たる地域で、讃岐国(香川県)の東端部に当たり、阿波国(徳島県)と接している。このころの阿波三好氏の勢力は寒川氏にとって脅威であったため、これを受託、同郡内の支城であった虎丸城・挙山両城も差出した。そして寒川元隣は、昼寝城に退くことになる。
【写真左】祠
 本丸の一角に祀られているもので、大分古いようだ。








 ところが、川島城(徳島県吉野川市川島町川島)の稿でも述べたように、 この年(元亀3年)の三好氏の内訌となる川島合戦により、篠原長房は三好義賢の長子・長治との戦いで敗れ、安富氏も天正3年(1575)、阿波の海部城主・海部左近の攻撃で討死してしまった。

 このころ経緯は分からないが、寒川元隣は、三好存保(十河城(香川県高松市十川東町) 参照)のもとにあり、天正10年、長曾我部軍(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町) 参照)との戦いとなる阿波中富川の戦いで参陣し、討死している。
【写真左】本丸
 さすがに本丸跡の規模はそれまでの細長い尾根筋と違い、削平されたようで、7,8m四方の大きさがある。




 また、これに先立つ、天正3年、昼寝城は元隣の弟・光永が守城していたが、上掲した阿波の海部氏に攻められ、難攻不落の城といわれた昼寝城もついにここに落城した。このため、兄・元隣を頼るも、天正10年に元隣が討死したため、出家したといわれる。
【写真左】本丸から振り返って見る。
 登ってきたときは、この長い郭の左側途中の箇所(虎口)からだったので、本丸とは反対側の先端部の方に向かうことにする。
【写真左】土塁
 本丸側には確認できなかったが、下手に当たるこの個所には土塁が築かれている。
【写真左】下手先端部
 本丸からこの下手先端部まではおよそ100mほどあり、この先は切岸となっている。
【写真左】瀬戸内方面を見る。
 木立の間から北の方向に瀬戸内の姿が確認できた。
 現在はほどんど眺望は望めないが、戦国期当時は当城から寒川氏領内がほとんど見えたことだろう。

2019年10月13日日曜日

備前・明見山城(岡山県岡山市北区三野本町)

備前・明見山城(びぜん・みょうけんやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区三野本町 三野公園
●別名 妙見山城・鑵子の釣城・釣城
●高さ 60m(比高50m)
●築城期 不明(天文年間以前か)
●築城者 須々木氏
●城主 須々木四郎兵衛
●備考 三野公園
●登城日 2016年10月26日

解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備前・明見山城(以下「明見山城」とする。)は、前稿備前・船山城(岡山県岡山市北区原) の支城として、須々木氏一族が居城とした丘城である。
 所在地は船山城から旭川沿いに南に2キロ余り降った三野本町の独立丘陵に築かれている。
【写真左】明見山城遠望
 南側の道路から見たもの。右側には旭川が流れる。







須々木四郎兵衛

 明見山城の築城期は不明だが、本城の船山城とほぼ同時期には構築されていたと考えられる。当城の城主として記録が残るのは、船山城主であった須々木豊前の子・四郎兵衛が在城していたとされ、前稿でも述べたように、永禄10年(1567)の明禅寺合戦後に、宇喜多直家に城と領地を没収されたと伝わる。
【写真左】登城口に設置された「三野公園」の看板
 登城口は上の写真の道路(27号線)を進んでいくと、左側に御覧の看板があり、そこから入っていく。



縄張

 当城は現在三野公園という施設に改変されているが、遺構としては、独立丘陵の南東側頂部を本丸とした郭や、一段下がった腰郭などはその面影を残している。

 『日本城郭体系 第13巻』では、各郭基礎地形が土壇筑成となっており、掘立柱の建物、櫓、柵などを主体とした上部構造物から成り立っていることから、居館的山城と推定されるとしている。

 なお、下段の写真でも指摘しているように、城域は尾根南側の公園部分となっているが、北側奥に祀られている天神社周辺部も数段の帯郭状の遺構が残っていることから、この付近も当時は北方を扼する櫓などがあった可能性もある。
【写真左】登城道

 御覧のように、南側は急傾斜となっているため、何度も屈曲する九十九折りの道となっている。




鑵子の渡し場 

 ところで、明見山城の東麓足下を旭川が流れているが、当時この付近には「鑵子(かんす)の渡し場」というところがあり、須々木氏はこの個所の権益すなわち、渡河等の許可権を持っていた。
 このため、当城は別名・鑵子の釣城とか、釣城とも呼ばれた。

 戦国末期に至ると、宇喜多直家が岡山城を築き、城内に引水を導く計画を立てるが、このころ旭川は度々氾濫を来したため、江戸時代になると、この渡し場付近から百閒川という人工的な放水路を新たに東側から分岐させ、直接瀬戸内海(児島湾)に流している。

 こうしたことから、明見山城における須々木氏の役目は、前記した権益も含め、堰を主体とする水利や、治水など旭川中流域の疎水全般に関わるものが多かったものとみられる。
【写真左】この階段を登る。
 九十九折りの道も途中からは緩やかな坂道となり、そのまま進めば本丸(公園)までたどり着けるが、途中で近道となるこの直線階段があり、これを使った。

 以前はこの程度は一気に登れたが、だんだんと休憩回数が増えてきた。年には勝てない。
【写真左】帯郭
 登りきるとやがて整備された公園がでてくる。
 左が本丸側で、下のこの個所が帯郭。
【写真左】本丸
 公園として造成する前の状況は分からないが、かなり広い規模だ。
【写真左】本丸から北側を見る。
 本丸の北端部の先には、2m程度下がった段がある。腰郭というより二の丸といった方が相応しい大きさだ。
【写真左】小合金光翁の石碑
 三野公園設立に尽力した地元岡山市議会議員の小合金光氏の顕彰碑。
 戦前から桜の名勝地であったらしい。

 このほか北側中央部奥には「岡山縣十勝地」と刻銘された石碑が建立されている。
 これは戦前の昭和10年頃、当時の山陽新報社が募集して県下の景勝地・史跡などを投票によって決めたものだという。

 この中には、城郭としては笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)備中・福山城(岡山県総社市清音三因) などがランクインしている。

【写真左】下の段
 本丸と並行して南北に走る郭

 このあと、北側の天神社の方へ向かう。
【写真左】参道
 明見山城から一旦西側の道を少し下り、改めて北に向かう道で、すでに参道の一部となっている。
【写真左】天神社
 手前の楼門を潜ると、天神社の社殿が正面に鎮座している。
【写真左】境内東側
 奥に本殿が見えるが、この部分が当該丘陵(明見山)の中で最高所となるので、先述したように、北を扼する櫓的機能があったのかもしれない。
【写真左】磐座か

 奥には注連縄が掛かった岩がある。磐座(いわくら)と思われる。

【写真左】「明見宮」の鳥居

 下山は別の道を選んだが、終点近くに鳥居があったので見上げたところ、額束に「明見宮」とあった。

 本殿が天神社で、入口が明見宮となっていることから途中で主祭神も変更になったのかもしれない。

2019年10月11日金曜日

備前・船山城(岡山県岡山市北区原)

備前・船山城(びぜん・ふなやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区原
●別名 須々木城
●高さ H:50m(比高 40m)
●築城期 永正・大永年間ごろ以前か
●築城者 須々木氏
●城主 須々木氏
●遺構 郭・土塁・堀切等
●登城日 2016年10月26日

解説(参考文献 『日本城郭体系 第13巻』等)
 備前・船山城(以下「船山城」とする。)は、岡山県の三大河川の一つ旭川の中流域に築かれた連郭式の丘城である。
【写真左】船山城遠望
 南側から見たもので、写真の右側には旭川が流れている。








須々木氏

 船山城の築城期は不明だが、鎌倉期後半以降に備前国御野郡北東部(旭川東岸山間部)に本拠を持っていた国人領主・須々木氏が戦国期(永正~大永年間)に当地に居城を構えたと推定されている。

 この須々木氏は、もともと武蔵七党の一つ「丹党」を始祖としている。そして、この丹党の中から、丹長房が秩父郡小鹿野町両神大字薄(すすき)に居を構え、薄四郎と称した。この場所は、現在の群馬との県境に近い奥秩父の埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄である。

 そして薄氏本家である中村氏が播磨に国替えになった際、薄氏は備前に移ったといわれている。備前国に下向したあと、姓文字を薄から須々木に替えた。

 因みに、薄氏本家の中村氏とは、以前紹介した波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)  の城主・中村氏と考えられ、同氏が赤松氏の有力家臣であったことから、おそらく須々木氏は、後段で紹介する備前の金川城主・松田氏に属する前は、旭川東岸に本拠を持ち、本家・中村氏と同じく赤松氏の被官であったと考えられる。
【写真左】東麓側の道路から見上げる。
 小規模な城郭だが、近くに寄ってみると、斜面の険峻さはかなりのものだ。




宇喜多氏による領地没収と廃城

 船山城の東麓を流れる旭川をおよそ18キロほど遡ると、以前紹介した金川城(岡山県岡山市北区御津金川) がある。須々木氏は、その後、旭川西岸に移り、この金川城の松田氏に従っている。おそらく、赤松氏の凋落によって鞍替えしたのだろう。
 その後、永禄6年(1563)備中の三村家親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原) 参照)に攻められ、降伏し三村氏に従うことになった。

 しかし、その4年後の永禄10年(1567)、三村氏と宇喜多氏(備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)参照) の戦いとなった明禅寺合戦(明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)参照) で宇喜多氏が大勝したため、須々木氏は宇喜多氏へ従属する願いを出したが、宇喜多氏(直家)はこれを認めず、居城である船山城をはじめとする須々木氏の領地を没収、同氏はここに事実上消滅した(『日本城郭体系 第13巻』)。

 ただ、同氏の嫡流かどうか不明だが、その後須々木行連という武将が宇喜多氏によって知行30石を与えられていたようで、関ヶ原の戦いまで同氏の旗下にあったとされる。そのためか、最終的には帰農し、当地(船山城周辺)にもその子孫と思われる須々木姓の家々が現在でも点在している(写真:墓地周辺参照)。
【写真左】登城開始
 南西麓に階段があったので、ここから登る。









縄張

 当城は写真でも分かるように小規模な丘城である。現在は東麓を流れる旭川の川岸から250mほど入ったところに位置しているが、当時の地勢を考えると、川湊の機能を優先したいわゆる「河城」であった可能性が高い。

 特に、船山城の西麓は現在集落ができているが、船溜まりの場所として使われていた可能性が高く、居館及び屋形の施設なども併設していたものと思われる。
 また、当城から旭川沿いに2㎞ほど降った三野本町の明見山城が支城であったことから、少なくとも、旭川西岸部の中流域は、同氏の支配下に置かれていたのだろう。
【写真左】墓地
 階段を上がっていくと、墓地が現れた。墓地の造成により改変されていると思われるが、このあたりから城域だったものと思われる。


 当城の最高所である船山の頂部は標高50mほどであるが、この南側に本丸に置き、さらに南に一段下がって出丸郭を設け、その周りに帯郭を2~3列に配置している。

 本丸の北側には土塁を介して堀切で画し、その北に二段構えの郭(二の丸)を設け、その先の尾根続きを堀切で切断している。
【写真左】本丸・その1
 墓地からさらに登って行くと、やがて開けた場所に出る。

 これが本丸のようだが、出丸郭とはほとんど区画されてておらず、若干出丸側が傾斜している。
【写真左】本丸・その2
 本丸跡には小祠と石碑などが祀られている。
【写真左】須々木神社
 小規模な社だが、当時はもう少し大きなものだったのだろう。
【写真左】石碑・その1
 昭和59年10月に建立された須々木城の石碑で、「須々木城懐古」と筆耕されている。
【写真左】石碑・その2
 上記の石碑とは別に、明治35年2月に勲四等を受けた吉原三郎某という人物らが撰文した石碑も傍らにある。
 かなり古いものなので、読解は困難だが、「須々木氏」及び「松田氏」「宇喜多氏」などの文字が見える。
【写真左】本丸・その2
 振り返って見る。
【写真左】土塁
 石碑の後背に土塁が築かれている。ただ、石碑など近世に建立されたとき、大分削られたような跡がある。
 このあと、このまま奥に進んでみる。
【写真左】空堀・その1
 上の写真では分からないが、この土塁の後ろには並行して空堀が築かれている。
【写真左】空堀・その2
 現状はかなり埋まっているようだが、南北に伸びる尾根をこの場所で、断ち切っている。
【写真左】空堀・その3
 反対側
【写真左】切岸
 さらに奥に進むと、多少のアップダウンはあるものの、さほど高低差は感じない。
【写真左】削平地
 途中からどのあたりを踏査しているのか分からなくなったが、西側の帯郭から北に向かったあたりで、御覧の削平地が出てきた。
 おそらく帯郭の一角と思われるが、感覚ではこの付近が最高所のような気もする。
【写真左】笠井山を遠望する。
 上記の削平地から北西方向を見ると、展望台などがある笠井山が見える。
【写真左】石垣・その1
 西側の帯郭区域に見えたもので、規模は小さいものの、保存状態は良好。
【写真左】石垣・その2
 別の箇所にある石垣。
【写真左】船山城から旭川を望む。
 木立に遮られて視界はよくないが、当時はここから川を往来する船がよく見えたことだろう。
【写真左】須々木家の墓地
 登城途中に墓地があり、須々木姓の墓が多くみられる。
 家紋が酢漿草となっていることから、宇喜多氏時代につけられたのかもしれない。
 なお、この墓地付近も元は郭跡だったと推測される。
【写真左】船山城西麓の集落
 旭川の川岸から奥行600m、幅300mほどの狭隘な谷間に数十軒の家が建っている。
 このあたりに須々木氏の居館などがあったのだろう。
 奥に御崎宮がみえる(下段の写真参照)。
【写真左】御崎宮
 船山城から集落を隔てた西南の片山側に鎮座する社で、「オンサキグウ」と呼称する。

 当社本宮は、船山から旭川をおよそ3キロ余り降った北区北方の川土手下にあるが、「吉備温故」によると、上道郡竹田地内(現在の岡山市中島)に出雲の日御碕神社から勧請された。
【写真左】日御碕神社
 所在地 島根県出雲市大社町日御碕





 その後、天正年間に宇喜多秀家が岡山城に引き水するため、現在の岡山市北区北方に遷宮された。
 おそらく、船山の御崎宮もこれに合わせて天正年間に勧請されたものだろう。



金山寺

 ところで、船山城から北へ直線距離で3キロほど山の方へ向かうと、古刹金山寺(きんざんじ・かなやまじ)がある。
【写真左】金山寺・その1
 天台宗 銘金山 金山寺
所在地 岡山市北区金山寺481

 当寺は嘉応年間(1169~1170)宋より帰国した栄西によって護摩堂などが建てられ、天台宗に改宗されている。
写真:本堂

参拝日 2011年8月26日


 奈良時代に創建され、法相宗としていたが、後に天台宗に改宗した。戦国時代には、金川城の松田氏が自身の信奉する日蓮宗に改宗するよう迫ったが、これを拒否したため堂宇は松田氏によって焼失した。その後、伯耆国(鳥取県)の大山寺より同寺中興の祖といわれる豪円(1535~1611)が来山し、宇喜多直家の援助を得て、天正3年(1575)に本堂・護摩堂を再建している。
【写真右】大山寺
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山9
天台宗別格本山 角盤山 大山寺





 同寺に伝わる「金山文書」によれば、文安2年(1445)に須々木大進という武将が、同寺の別当職的立場であったことが知られ、長享3年(1489)には、同氏の行景・信行らが近在の一族・住民らと連署した起請文を提出し、一揆的な結びつきを確立していたことが知られる。
【写真左】金山寺・その2
 県指定重要文化財となっている三重塔








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