備前・亀山城(びぜん・かめやまじょう)
●所在地 岡山県岡山市東区沼
●別名 沼城
●築城期 天文年間(1532~頃)
●築城者 中山信正
●城主 中山信正・宇喜多直家・浮田春家
●高さ 30m(比高30m)
●遺構 郭・土塁・櫓台・堀切等
●形態 平山城
●登城日 2011年8月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・亀山城については、前稿明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)でも紹介したように、宇喜多直家が戦国大名として成長する足掛けとなった居城とされている。
所在地は、明禅寺城から北東へ8キロほど向かった沼地区にある。
【写真左】亀山城遠望・その1
南側から見たもので、手前の建物は市立浮田幼稚園。
この後背に本丸があり、その東側少し低くなったところが二の丸跡とされる。
【写真左】亀山城遠望・その2
後段で示すように、東方の本城とは別に、現在の道路を挟んで西側の丘陵部にも城域を設けている。おそらく前城のような役割があったものだろう。
現在は、市立浮田小学校の施設が建ち、遺構の半分以上が消滅しているようだ。
現地の説明板より・その1
“亀山城跡
亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう。小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
【写真左】登城口付近
本丸跡には社が祀られているため、麓の階段には鳥居が建つ。
この階段を上っていくが、傾斜はかなりある。
【写真左】亀山城(沼城)古図
現地に掲示されているもので、この図の右側が本城部分となっている。
周囲の青い部分は「深田」と記され、湿田であったことが分かる。
戦国時代中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移った。以来、直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。
天正元年(1573)岡山城に移るまで14年間在城した。
慶長6年(1600)春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天王)は、岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。”
【写真左】本丸・その1
本丸跡はほとんど社の境内といった趣をなし、遺構の状況は不明だが、概ね2段の高低差をもった平坦地となっている。規模は30m四方程度か。
「兒」という文字が二つ記された幟が建っている。幼児とか、童といった意味があるが、この社の祭神と関係があるのだろう。
中山備中守信正
亀山城の築城者は中山備中信正といわれている。詳細な史料はないが、天文初年(1532年ごろ)地元の国人領主であった中山信正が居城を構えていたという。信正は当初沼城の西方を流れる旭川を遡った御津の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主・松田氏に属していた。
【写真左】本丸・その2
北側が少し高くなっており、南側が広い。
写真にみえる建物はよく分からないが、社務所のようなものか。休憩所も設置してある。
しかし、松田氏の勢威が衰えていくと、信正は今度は東方の吉井川を遡った和気の天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1の浦上宗景に属した。
そして、後段の説明板(その2)でも記されているように、当時浦上氏の中で頭角を現してきた宇喜多直家は、信正の娘・奈美を娶ることになる。しかし、その後信正は婿であった直家によって謀殺されることなる。このあたりのくだりは、「説明板その2」に詳しく述べられている。
【写真左】本丸・その3
祠と注連縄
管理人の出雲地方ではあまり見かけない注連縄だが、瀬戸内や太平洋側ではこうした「茅の輪」をよく見かける。
現地の説明板より・その2
“亀山城《沼城》物語
永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀叛の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然とする。
中山備中守は、妻奈美の実の父である。自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受ける。
直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駈けらせて山野に入り、鹿や猪を追う狩猟の日々が多くなった。亀山城近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も多くなった。
【写真左】本丸・その4
本殿
弁財天だろうか。
永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので泊りがけで遊びに来られたいと、中山備中守より招待を受けた。
酒宴もようやく終わりに近づき中山備中守が酔って寝所へ入ろうとした時、やにわに抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に鬨の声を挙げて城中に乱入し亀山城を制した。
実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害した。
戦国時代は弱肉強食の時代である。直家は、主君浦上宗景より亀山城を賜り新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城とした。
【写真左】本丸跡に立つ石碑
左側には「直家飛躍の地」とあり、中央下の球体には「秀家生誕地」と記され、右の石碑には「亀山城跡」と刻銘されている。
このあと、本丸の東側には「二の丸」の案内板があり、東側に降りていく。
永禄9年(1566)備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って亀山城へ嫁いで来た。ときに直家38歳の早春である。歳月は7年を経て、天正元年正月14日、城中で玉のような男の子が生まれた。
直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄することを神に祈った。
後の備前・美作57万4千石の大、大名そして豊臣家の五大老と破格の出世をし関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多中納言秀家の誕生である。
【写真左】二の丸・その1
本丸から約5,6mほど下った東側の丘陵部にになるが、ご覧の通り現在は畑地となっている。
そしてこの年の秋、直家父子は岡山城へ移るのである。
天正10年(1582)6月4日、備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。
梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。東の空に朝日が輝いたのは8日だった。
秀吉の突進が始まる。亀山城から姫路まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。
天正10年6月13日、亡君織田信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。
平成8年3月”
【写真左】二の丸・その2
畑地となっているが、おそらく当時もこのような平坦地だったと思われる。
なお、本丸も二の丸いずれもこれらの郭の下に帯郭を設けているが、現在はその箇所に民家が大分建っているようだ。
亀山城
登城したのが2年近く前の2011年だったこともあり、大分記憶が薄らいでいるが、沼地区に入った途端、あきらかに低湿地帯の場所であったことは印象に残っている。そして、田圃の周辺部を流れる中小の川も殆ど流れがなく、淀んだものとなっていた。土地名が「沼」といわれるのも頷ける。
【写真左】亀山城遠望
東方から見たもので、左側手前の藪が二の丸にあたり、その右奥が本丸になる。
なお、写真の右端には山陽新幹線及び山陽線の高架が見える。
こうした湿地帯の中に、東西二か所に頂部をもった丘陵上にあるのが亀山城である。おそらく戦国期、築城者中山信正は、この周辺部の湿地帯をいわば水濠としての役割を持たせるため、地取りしたのではないだろうか。この点では、周防の須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)にも似ている。
縄張としては、東側を本城とし、西側の頂部に本丸を置いた。本丸の周囲に腰郭を輪郭状に配し、東の尾根に2か所の出郭を設けている。凡その配置は写真(古図)の通りである。
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●城主 中山信正・宇喜多直家・浮田春家
●高さ 30m(比高30m)
●遺構 郭・土塁・櫓台・堀切等
●形態 平山城
●登城日 2011年8月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
備前・亀山城については、前稿明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)でも紹介したように、宇喜多直家が戦国大名として成長する足掛けとなった居城とされている。
所在地は、明禅寺城から北東へ8キロほど向かった沼地区にある。
【写真左】亀山城遠望・その1
南側から見たもので、手前の建物は市立浮田幼稚園。
この後背に本丸があり、その東側少し低くなったところが二の丸跡とされる。
後段で示すように、東方の本城とは別に、現在の道路を挟んで西側の丘陵部にも城域を設けている。おそらく前城のような役割があったものだろう。
現在は、市立浮田小学校の施設が建ち、遺構の半分以上が消滅しているようだ。
現地の説明板より・その1
“亀山城跡
亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう。小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
【写真左】登城口付近
本丸跡には社が祀られているため、麓の階段には鳥居が建つ。
この階段を上っていくが、傾斜はかなりある。
【写真左】亀山城(沼城)古図
現地に掲示されているもので、この図の右側が本城部分となっている。
周囲の青い部分は「深田」と記され、湿田であったことが分かる。
戦国時代中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移った。以来、直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。
天正元年(1573)岡山城に移るまで14年間在城した。
慶長6年(1600)春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天王)は、岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。”
【写真左】本丸・その1
本丸跡はほとんど社の境内といった趣をなし、遺構の状況は不明だが、概ね2段の高低差をもった平坦地となっている。規模は30m四方程度か。
「兒」という文字が二つ記された幟が建っている。幼児とか、童といった意味があるが、この社の祭神と関係があるのだろう。
中山備中守信正
亀山城の築城者は中山備中信正といわれている。詳細な史料はないが、天文初年(1532年ごろ)地元の国人領主であった中山信正が居城を構えていたという。信正は当初沼城の西方を流れる旭川を遡った御津の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主・松田氏に属していた。
【写真左】本丸・その2
北側が少し高くなっており、南側が広い。
写真にみえる建物はよく分からないが、社務所のようなものか。休憩所も設置してある。
しかし、松田氏の勢威が衰えていくと、信正は今度は東方の吉井川を遡った和気の天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1の浦上宗景に属した。
そして、後段の説明板(その2)でも記されているように、当時浦上氏の中で頭角を現してきた宇喜多直家は、信正の娘・奈美を娶ることになる。しかし、その後信正は婿であった直家によって謀殺されることなる。このあたりのくだりは、「説明板その2」に詳しく述べられている。
【写真左】本丸・その3
祠と注連縄
管理人の出雲地方ではあまり見かけない注連縄だが、瀬戸内や太平洋側ではこうした「茅の輪」をよく見かける。
現地の説明板より・その2
“亀山城《沼城》物語
永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀叛の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然とする。
中山備中守は、妻奈美の実の父である。自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受ける。
直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駈けらせて山野に入り、鹿や猪を追う狩猟の日々が多くなった。亀山城近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も多くなった。
【写真左】本丸・その4
本殿
弁財天だろうか。
永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので泊りがけで遊びに来られたいと、中山備中守より招待を受けた。
酒宴もようやく終わりに近づき中山備中守が酔って寝所へ入ろうとした時、やにわに抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に鬨の声を挙げて城中に乱入し亀山城を制した。
実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害した。
戦国時代は弱肉強食の時代である。直家は、主君浦上宗景より亀山城を賜り新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城とした。
【写真左】本丸跡に立つ石碑
左側には「直家飛躍の地」とあり、中央下の球体には「秀家生誕地」と記され、右の石碑には「亀山城跡」と刻銘されている。
このあと、本丸の東側には「二の丸」の案内板があり、東側に降りていく。
永禄9年(1566)備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って亀山城へ嫁いで来た。ときに直家38歳の早春である。歳月は7年を経て、天正元年正月14日、城中で玉のような男の子が生まれた。
直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄することを神に祈った。
後の備前・美作57万4千石の大、大名そして豊臣家の五大老と破格の出世をし関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多中納言秀家の誕生である。
【写真左】二の丸・その1
本丸から約5,6mほど下った東側の丘陵部にになるが、ご覧の通り現在は畑地となっている。
そしてこの年の秋、直家父子は岡山城へ移るのである。
天正10年(1582)6月4日、備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。
梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。東の空に朝日が輝いたのは8日だった。
秀吉の突進が始まる。亀山城から姫路まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。
天正10年6月13日、亡君織田信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。
平成8年3月”
【写真左】二の丸・その2
畑地となっているが、おそらく当時もこのような平坦地だったと思われる。
なお、本丸も二の丸いずれもこれらの郭の下に帯郭を設けているが、現在はその箇所に民家が大分建っているようだ。
亀山城
登城したのが2年近く前の2011年だったこともあり、大分記憶が薄らいでいるが、沼地区に入った途端、あきらかに低湿地帯の場所であったことは印象に残っている。そして、田圃の周辺部を流れる中小の川も殆ど流れがなく、淀んだものとなっていた。土地名が「沼」といわれるのも頷ける。
【写真左】亀山城遠望
東方から見たもので、左側手前の藪が二の丸にあたり、その右奥が本丸になる。
なお、写真の右端には山陽新幹線及び山陽線の高架が見える。
こうした湿地帯の中に、東西二か所に頂部をもった丘陵上にあるのが亀山城である。おそらく戦国期、築城者中山信正は、この周辺部の湿地帯をいわば水濠としての役割を持たせるため、地取りしたのではないだろうか。この点では、周防の須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)にも似ている。
縄張としては、東側を本城とし、西側の頂部に本丸を置いた。本丸の周囲に腰郭を輪郭状に配し、東の尾根に2か所の出郭を設けている。凡その配置は写真(古図)の通りである。
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