皇踏山城(おうとざんじょう)
●所在地 香川県小豆郡土庄町淵崎
●高さ 標高394m
●築城期 不明(中世か)
●築城者 不明
●遺構 各種曲輪・空堀・土塁・石塁・虎口その他
●登城日 2012年9月24日
◆解説
皇踏山城は、 前稿「星ヶ城(山)」とは反対の西方の位置皇踏山に築かれた山城である。
南麓にある土庄町の町並みから見ると、北の方向に巨大な岩壁のように立ちはだかる山容だが、皇踏山頂部はこの位置から大分北に向かったところにある。
残念ながら南麓から見た当山の写真を撮っていないため、紹介できないが、独特の景観である。
【写真左】皇踏山城遠望・その1
新岡山港から土庄港に向かうフェリー船上から小豆島を見たもので、左後方には前稿で紹介した星ヶ城(山)の雄大な山容も見える。
【写真左】皇踏山城遠望・その2
北東麓の滝宮付近から見たもので、皇踏山の頂部はこの写真の尾根伝いを右(西)に進む。
さて、この山城名・皇踏山とかいて、「おうとざん」と呼称する。かなりアテ字に近い呼び名だが、「皇」という字は、「すめらぎ」すなわち帝(みかど)や、天皇といった意味を持つ。
文字列からそのままに解釈すれば、「天皇が踏んだ山」ということなるが、皇という単独の意味からすれば、歴代の天皇、すなわち皇統を意味しているので、昔(往古)天皇もしくは上皇クラスの方がこの山に登った、ということになるのだろうか。
【写真上】更新された案内板
下段の現在地から少し車で上(南)に上がった所に駐車場があったのだが、この日は八坂神社境内に停めた。
ここから一旦ぐるっと左(東)に歩き、途中で鋭角に西に進む。しばらくすると芝生広場というところがあり、この地点が事実上の登城口となる。
そして、小豆島は平安初期から鎌倉末期まで皇室御領であったといわれる。このことから、この時期に時の天皇が訪れたという伝承が残ったと推測される。
ただ残念ながら、皇踏山城には城砦としての手がかりになるような文献上の記録なども全くない。従って、築城期・築城者なども不明だが、昭和52年頃より発掘調査が行われ、これまでのところ、遺構などの形態から「中世の山城」ではないかとされている。
ただ、後段で示すように当城を踏査した限り、管理人の印象では現地の遺構が、「中世山城」のものには思えなかった。
【写真左】ハイキングコース入口
上図でいえば、芝生広場といわれている箇所で、ここまで車で来れないことはないが、轍(わだち)が深いので、普通車は避けた方がよい。
この手前には公園が設置されているが、雑草が生い茂り、最近はほとんど使用されていないようだ。
ここから本格的な登城コースに入る。
現地の説明板より
“瀬戸内海国立公園 皇踏山頂上園地案内板
中世の山城跡
皇踏山へようこそ。
皇踏山は中世の山城があったところです。今あなたがいるところは皇踏山のほぼ真ん中です。一休みしたら遊歩道を歩いてみましょう。
左に進むと道沿いに石で築かれた石塁が続いているのがわかります。途中には展望広場があり、土庄町の風景が眼下に望めます。さらに進むとウバメガシの純林があり、ウバメガシのトンネルの中を気持ちよく歩くことができます。
右に進むと皇踏山の頂上に行くことができます。中世の山城跡に残る文化財が多くあるので、解説板を読みながらゆっくり歩いてください。
途中の展望所からは、瀬戸内海の雄大な景色をながめることができます。
ここから笠ケ滝不動尊までは、1,700m、皇踏山頂上までは950mあります。”
【写真左】登城道
登城入口(上の写真)から、本曲輪(本丸)中心部まで800m余で、皇踏山山頂までは1,300m余の距離となる。
道そのものは管理され、歩きやすい。
【写真左】遺構配置図
上段の案内図と重複するが、主だった遺構を示したものが左図である。
先ず中央部の赤い「現在地」から南(上方)へ向かって、土塁がめぐり、その先に「二の曲輪」「一の曲輪」があり、西(右)に向かって「水の手曲輪」がある。
中央部の道を隔てて北側には皇踏山頂上が北端にそびえ、麓には「詰の曲輪」があり、東(左)に「北の曲輪」などがある。
皇踏山城の特徴として挙げられるのが、南方の東西に延びる尾根にそってのびる「石塁」である。この石塁は、下段の写真でも示すように高さは低く、1~2m程度で、幅も1m前後のものが多い。
【写真左】石塁
左側に見えるのが石塁で、この高さでは防禦性はさほどあるとは見えない。
このあと、道標に従って進んだが、途中からどのあたりを回っているのか、分からなくなってしまった。事前に案内図を持っていないと、まったく迷走してしまう。このため、このあとの写真は順不同の紹介となる。
【写真左】詰め曲輪(皇踏山山頂付近)手前650mの地点
中央坂道の右側に「第1土塁」の看板が落ちている。
【写真左】「虎口左右の土塁と空堀」と記された説明板
図そのものはよく分かるが、現地の遺構部については、雑草雑木が多く、ほとんど確認できない。
【写真左】本曲輪
やっと郭らしき遺構が見えたが、この周辺部には段差があまり見られず、自然地形のままのようにも見える。
近くには、次のような説明板が設置してある。
“皇踏山城
皇踏山には古くから山城伝説があったが、幻の城であった。
山城に関する拠るべき文献はないが、これまでの調査で土塁、空堀の構造、虎口部の遺構等からみて、中世の山城があったことが知れた。
第三曲輪
ここには、山城の木戸口(出入口)とみなされる部分で、ほぼ中央に食違い虎口がある。即ち、皇踏山城大手(城の表口)に当たっている。
イ、虎口(兵馬の出入口、馬出し)
ロ、北第1土塁(幅15m)
ハ、北空濠(幅35m)
ニ、第2土塁(高さ25~30m、幅40m)
ホ、南土塁
ヘ、南空壕
第三曲輪
ト、南石籬
チ、北石籬
リ、第一木戸”
【写真左】南側の展望所から星ヶ城山を遠望する。
皇踏山城エリアには主だった展望箇所が2か所あり、この写真はそのうちの一つで一の曲輪から先に進んだ箇所である。
【写真左】皇踏権現神社
この辺りで完全に迷走してしまい、記憶がはっきりしないが、城域内には東権現社と西権現社の二つがあり、これはそのうちの東権現社と思われる。
【写真左】四国の屋島を見る
この景色はもう一つあった展望所から見えたものだが、源平合戦が繰り広げられた屋島がこれほど近くにはっきりと見えたことに思わず興奮した。
【写真左】水の手曲輪
東西に延びる城域のほぼ中央部にあるもので、唯一の湿地帯である。 全山が岩塊のような地質だが、この箇所だけは全く違う光景である。
説明板では、井戸を掘ることは困難なため、雨水を貯めるための場所をここに求めたのではないかとしている。
規模は目測で50m四方といったところか。
このあと、西に進んで西端部の「見晴らし台」に向かう。
【写真左】「見晴らし台」から土庄港・高見山城及び屋島を見る。
高見山城は次稿で予定している山城で、周辺部は森林運動公園になっている。
右に見えるのがフェリー乗り場の土庄の港で、元々高見山を含めたところと、皇踏山城側は別々の島で分かれており、土庄の低地の町部は瀬戸となって、現在でも土淵海峡と呼んでいる。
【写真左】「見晴らし台」からエンジェルロードを見る。
小豆島の観光名所の一つで、小豆島土庄の南岸弁天島と4つの島が、1日2回の引き潮時に砂浜となって繋がることから「エンジェルロード」といわれるようになった。
このあと、いよいよ皇踏山城頂部に向かう。
【写真左】詰の曲輪
皇踏山麓は「詰の曲輪」と呼ばれているが、ご覧の通り岩だらけの景観だが、それでもこれらの岩を使って、区画をしているような痕跡が認められる。
【写真左】皇踏山頂上
標高394mの頂上部はやはり岩の上で、一般的な主郭としては限りなく狭い。
物見櫓の役割を兼ねていたものだろう。
中世山城としての疑問点
今回の登城を終えたあと感じたことは、説明板では確かに中世山城としているが、踏査した限りではそれを完全に裏付ける遺構がほとんど見られなかったことである。
確かに当城のピーク(300m前後)までに至るまでの険峻さは多少感じられたが、一般的な中世山城としての遺構と比べると、曲輪・堀切といったものが、管理人には比定できなかった。
むしろ、城域を延々と歩いたその広大な規模に印象が残り、中世山城というより、古代(朝鮮式)山城に近いものだった。
讃岐国の古代山城としては、これまで城山城(香川県坂出市府中町)や、引田城跡(香川県東かがわ市 引田)を挙げているが、瀬戸内の水島灘~播磨灘間を往来する軍船を監視するために、件の2城等と併せて築かれた可能性が高いように思われる。
●所在地 香川県小豆郡土庄町淵崎
●高さ 標高394m
●築城期 不明(中世か)
●築城者 不明
●遺構 各種曲輪・空堀・土塁・石塁・虎口その他
●登城日 2012年9月24日
◆解説
皇踏山城は、 前稿「星ヶ城(山)」とは反対の西方の位置皇踏山に築かれた山城である。
南麓にある土庄町の町並みから見ると、北の方向に巨大な岩壁のように立ちはだかる山容だが、皇踏山頂部はこの位置から大分北に向かったところにある。
残念ながら南麓から見た当山の写真を撮っていないため、紹介できないが、独特の景観である。
【写真左】皇踏山城遠望・その1
新岡山港から土庄港に向かうフェリー船上から小豆島を見たもので、左後方には前稿で紹介した星ヶ城(山)の雄大な山容も見える。
【写真左】皇踏山城遠望・その2
北東麓の滝宮付近から見たもので、皇踏山の頂部はこの写真の尾根伝いを右(西)に進む。
さて、この山城名・皇踏山とかいて、「おうとざん」と呼称する。かなりアテ字に近い呼び名だが、「皇」という字は、「すめらぎ」すなわち帝(みかど)や、天皇といった意味を持つ。
文字列からそのままに解釈すれば、「天皇が踏んだ山」ということなるが、皇という単独の意味からすれば、歴代の天皇、すなわち皇統を意味しているので、昔(往古)天皇もしくは上皇クラスの方がこの山に登った、ということになるのだろうか。
【写真上】更新された案内板
下段の現在地から少し車で上(南)に上がった所に駐車場があったのだが、この日は八坂神社境内に停めた。
ここから一旦ぐるっと左(東)に歩き、途中で鋭角に西に進む。しばらくすると芝生広場というところがあり、この地点が事実上の登城口となる。
そして、小豆島は平安初期から鎌倉末期まで皇室御領であったといわれる。このことから、この時期に時の天皇が訪れたという伝承が残ったと推測される。
ただ残念ながら、皇踏山城には城砦としての手がかりになるような文献上の記録なども全くない。従って、築城期・築城者なども不明だが、昭和52年頃より発掘調査が行われ、これまでのところ、遺構などの形態から「中世の山城」ではないかとされている。
ただ、後段で示すように当城を踏査した限り、管理人の印象では現地の遺構が、「中世山城」のものには思えなかった。
【写真左】ハイキングコース入口
上図でいえば、芝生広場といわれている箇所で、ここまで車で来れないことはないが、轍(わだち)が深いので、普通車は避けた方がよい。
この手前には公園が設置されているが、雑草が生い茂り、最近はほとんど使用されていないようだ。
ここから本格的な登城コースに入る。
現地の説明板より
“瀬戸内海国立公園 皇踏山頂上園地案内板
中世の山城跡
皇踏山へようこそ。
皇踏山は中世の山城があったところです。今あなたがいるところは皇踏山のほぼ真ん中です。一休みしたら遊歩道を歩いてみましょう。
左に進むと道沿いに石で築かれた石塁が続いているのがわかります。途中には展望広場があり、土庄町の風景が眼下に望めます。さらに進むとウバメガシの純林があり、ウバメガシのトンネルの中を気持ちよく歩くことができます。
右に進むと皇踏山の頂上に行くことができます。中世の山城跡に残る文化財が多くあるので、解説板を読みながらゆっくり歩いてください。
途中の展望所からは、瀬戸内海の雄大な景色をながめることができます。
ここから笠ケ滝不動尊までは、1,700m、皇踏山頂上までは950mあります。”
【写真左】登城道
登城入口(上の写真)から、本曲輪(本丸)中心部まで800m余で、皇踏山山頂までは1,300m余の距離となる。
道そのものは管理され、歩きやすい。
上段の案内図と重複するが、主だった遺構を示したものが左図である。
先ず中央部の赤い「現在地」から南(上方)へ向かって、土塁がめぐり、その先に「二の曲輪」「一の曲輪」があり、西(右)に向かって「水の手曲輪」がある。
中央部の道を隔てて北側には皇踏山頂上が北端にそびえ、麓には「詰の曲輪」があり、東(左)に「北の曲輪」などがある。
皇踏山城の特徴として挙げられるのが、南方の東西に延びる尾根にそってのびる「石塁」である。この石塁は、下段の写真でも示すように高さは低く、1~2m程度で、幅も1m前後のものが多い。
【写真左】石塁
左側に見えるのが石塁で、この高さでは防禦性はさほどあるとは見えない。
このあと、道標に従って進んだが、途中からどのあたりを回っているのか、分からなくなってしまった。事前に案内図を持っていないと、まったく迷走してしまう。このため、このあとの写真は順不同の紹介となる。
【写真左】詰め曲輪(皇踏山山頂付近)手前650mの地点
中央坂道の右側に「第1土塁」の看板が落ちている。
【写真左】「虎口左右の土塁と空堀」と記された説明板
図そのものはよく分かるが、現地の遺構部については、雑草雑木が多く、ほとんど確認できない。
【写真左】本曲輪
やっと郭らしき遺構が見えたが、この周辺部には段差があまり見られず、自然地形のままのようにも見える。
近くには、次のような説明板が設置してある。
“皇踏山城
皇踏山には古くから山城伝説があったが、幻の城であった。
山城に関する拠るべき文献はないが、これまでの調査で土塁、空堀の構造、虎口部の遺構等からみて、中世の山城があったことが知れた。
第三曲輪
ここには、山城の木戸口(出入口)とみなされる部分で、ほぼ中央に食違い虎口がある。即ち、皇踏山城大手(城の表口)に当たっている。
イ、虎口(兵馬の出入口、馬出し)
ロ、北第1土塁(幅15m)
ハ、北空濠(幅35m)
ニ、第2土塁(高さ25~30m、幅40m)
ホ、南土塁
ヘ、南空壕
第三曲輪
ト、南石籬
チ、北石籬
リ、第一木戸”
【写真左】南側の展望所から星ヶ城山を遠望する。
皇踏山城エリアには主だった展望箇所が2か所あり、この写真はそのうちの一つで一の曲輪から先に進んだ箇所である。
【写真左】皇踏権現神社
この辺りで完全に迷走してしまい、記憶がはっきりしないが、城域内には東権現社と西権現社の二つがあり、これはそのうちの東権現社と思われる。
【写真左】四国の屋島を見る
この景色はもう一つあった展望所から見えたものだが、源平合戦が繰り広げられた屋島がこれほど近くにはっきりと見えたことに思わず興奮した。
【写真左】水の手曲輪
東西に延びる城域のほぼ中央部にあるもので、唯一の湿地帯である。 全山が岩塊のような地質だが、この箇所だけは全く違う光景である。
説明板では、井戸を掘ることは困難なため、雨水を貯めるための場所をここに求めたのではないかとしている。
規模は目測で50m四方といったところか。
このあと、西に進んで西端部の「見晴らし台」に向かう。
【写真左】「見晴らし台」から土庄港・高見山城及び屋島を見る。
高見山城は次稿で予定している山城で、周辺部は森林運動公園になっている。
右に見えるのがフェリー乗り場の土庄の港で、元々高見山を含めたところと、皇踏山城側は別々の島で分かれており、土庄の低地の町部は瀬戸となって、現在でも土淵海峡と呼んでいる。
小豆島の観光名所の一つで、小豆島土庄の南岸弁天島と4つの島が、1日2回の引き潮時に砂浜となって繋がることから「エンジェルロード」といわれるようになった。
このあと、いよいよ皇踏山城頂部に向かう。
【写真左】詰の曲輪
皇踏山麓は「詰の曲輪」と呼ばれているが、ご覧の通り岩だらけの景観だが、それでもこれらの岩を使って、区画をしているような痕跡が認められる。
【写真左】皇踏山頂上
標高394mの頂上部はやはり岩の上で、一般的な主郭としては限りなく狭い。
物見櫓の役割を兼ねていたものだろう。
中世山城としての疑問点
今回の登城を終えたあと感じたことは、説明板では確かに中世山城としているが、踏査した限りではそれを完全に裏付ける遺構がほとんど見られなかったことである。
確かに当城のピーク(300m前後)までに至るまでの険峻さは多少感じられたが、一般的な中世山城としての遺構と比べると、曲輪・堀切といったものが、管理人には比定できなかった。
むしろ、城域を延々と歩いたその広大な規模に印象が残り、中世山城というより、古代(朝鮮式)山城に近いものだった。
讃岐国の古代山城としては、これまで城山城(香川県坂出市府中町)や、引田城跡(香川県東かがわ市 引田)を挙げているが、瀬戸内の水島灘~播磨灘間を往来する軍船を監視するために、件の2城等と併せて築かれた可能性が高いように思われる。
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