備中・猿掛城(びっちゅう・さるかけじょう)・その2
●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷
●登城日 2012年11月16日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
今稿では前稿に引き続いて、猿掛城の四の丸から下方の遺構、および庄氏関連の寺院を併せて紹介したい。
【写真左】四の丸
手前が四の丸郭部だが、その奥は三の丸の切崖である。比高5m前後とかなりの高さを保つ。
四の丸の規模は、12m×20mとややこぶりなもの。
【写真左】石列
前稿では紹介していなかったが、三の丸やこの四の丸・五の丸のほぼ中央部には南北に長くこのような2列に並んだ石列が残る。
『日本城郭体系』では、何らかの建造物を物語るもの、としている。実際、本丸では礎石配列と思わせる遺構が確認できたが、三の丸から下方の石列は、その配置から考えて建造物のものではないような気がする。
いずれ紹介する予定にしている播磨の「置塩城」などにもこうした石列状のものが散見されるが、これはほぼ生活及び雨水排水のための側溝跡で、猿掛城に配置された石列はこれとは異質な用途と思われる。不可解である。
【写真左】五の丸
四の丸から1.5m下がったところに五の丸が控える。
32m×25mの規模で、ここで軸線が北東に20度程度振れていく。
【写真左】六の丸
この郭も上段より1.5m下がり、幅25mの規模となっている。
一応この六の丸までが、本丸から連続するいわゆる連郭式郭群の構成をなしている。
六の丸からさらに数十メートル下がっていくと、次の「大夫丸」が出丸の一つとして配置されている。
【写真左】大夫丸・その1
前稿で紹介した内容と重複する部分もあるが、猿掛合戦の結果は事実上庄氏の敗北に近い形であった。
このため、毛利方(三村氏)によって、城代庄実近は幽閉に近い扱いを受けることになる。その場所がこの「大夫丸」といわれている。
現地の説明板より
“大夫丸(たゆうまる)の由来
天文2年(1533)、猿掛城主の庄為資(しょうためすけ)は松山城へ移り、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。
その際、為資は一族の庄実近を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553)、毛利元春(吉川元春)の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。
【写真左】大夫丸・その2
しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年(1554)三村家親の長男の三村元祐が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会”
昭和の大戦中、この場所が炭焼き場として使用されたが、郭段(3段)の遺構は当時のままだという。
【写真左】寺丸・その1
大夫丸の尾根筋から逸れて、大手道を下っていくと、途中で「寺丸」という小郭が現れる
現地の説明板より
“寺丸の由来
延徳4年(1492)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は、孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。
庄元資は、香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。
【写真左】寺丸・その2
礎石などが残る。
寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
のち、庄氏は永正5年(1508)に山麓の椿原に洞松寺(とうしょうじ)の末寺・見性寺(けんしょうじ)を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。
矢掛町教育委員会
猿掛城へ登る会実行委員会”
【写真左】寺丸・その3
猿掛城からの眺望はあまり期待できないが、この寺丸からは西方を俯瞰できる。
中央の川は小田川で、上流部の矢掛の町並みが少し見える。
洞松寺(とうしょうじ)
●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷3798
●山号 舟木山
●宗派 曹洞宗
●本尊 宝冠釈迦如来
●創建 天智天皇時代(伝)
●探訪日 2012年7月11日
◆解説
猿掛城の西麓の谷を南に約2キロほど登った谷間にある寺院で、当城主の菩提寺とされている。
【写真左】洞松寺山門
如何にも禅寺といった趣がある。
現地の説明板より
“舟木山 洞松寺
洞松寺は山号を舟木山といい、曹洞宗の禅寺で応永19年(1412)に喜山性讃(きさんしょうさん)という名僧が再興しました。猿掛城主庄氏や毛利元清の帰依を受け、最盛期には備中国を中心に1,200の末寺を従えた中本山として栄えました。
【写真左】もう一つの山門
上の写真にある山門とは別に、この手前にも山門があり、その脇には「下馬」と刻銘された石碑が建つ。
手前にあるので、総門ということだろうか。
その存在は室町時代より地域を代表する寺院として、猿掛城主の菩提寺として歴史的ゆかりが深く、境内全域が町の史跡として指定を受けています。
また、喜山性讃・恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)の頂相(ちんそう)彫刻(県指定)をはじめ、洞松寺山門(町指定)や毛利元清宝篋印塔(町指定)、庄元資宝篋印塔(町指定)が現存し、洞松寺の歴史ひいては備中地域の歴史を物語る上ではなくてはならないものといえます。
【写真左】本堂
参詣したこの日はちょうど改修工事の真っ最中のようで、中のほうは入ることはできなかった。
境内でたまたま背の高い剃髪した若い修行僧に出合った。驚いたことにこの方は、女性で出身は確かオーストラリアだったと記憶している。他にも外国人の方がいるようで、どうやら当院はこうした外国の方にも門戸を開いて行う修験道場でもあるらしい。
猿掛城主・庄氏のことについて聞いたところ、未だ自分は日本に来て日が浅く、お答えできないと大変丁寧に詫びられ、却ってこちらの方が恐縮してしまった。
なかでも洞松寺文書は、文安5年(1448)9月27日の庄資冬田地沽券(でんじこけん)をはじめ、室町時代から戦国時代にかけての田地沽券や寄進状、寺領関係文書が一括して保存されており、当該時期の備中南部を拠点とした地方武士のあり方や、経済活動の一端をうかがえる貴重な史料として歴史的評価が高く、平成16年3月に岡山県重要文化財に指定されました。
また、寺宝として伝世する室町期の古備前の壺・瓶も町の重要文化財に指定されています。これら多くの重要文化財の一部は、矢掛町教育委員会が寄託をうけ保管しています。
矢掛町教育委員会”
【写真左】庄元資の墓
町重要文化財(石造美術)で、相輪上部などが欠損しているが、関西形式としての古さを伝えていると記されている。
【写真左】毛利元清の墓?
付近には何も紹介するようなものがなく、分からないが、おそらくこの宝篋印塔が毛利元清の墓と思われる。
◎関連投稿
洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)
●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷
●登城日 2012年11月16日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
今稿では前稿に引き続いて、猿掛城の四の丸から下方の遺構、および庄氏関連の寺院を併せて紹介したい。
【写真左】四の丸
手前が四の丸郭部だが、その奥は三の丸の切崖である。比高5m前後とかなりの高さを保つ。
四の丸の規模は、12m×20mとややこぶりなもの。
【写真左】石列
前稿では紹介していなかったが、三の丸やこの四の丸・五の丸のほぼ中央部には南北に長くこのような2列に並んだ石列が残る。
『日本城郭体系』では、何らかの建造物を物語るもの、としている。実際、本丸では礎石配列と思わせる遺構が確認できたが、三の丸から下方の石列は、その配置から考えて建造物のものではないような気がする。
いずれ紹介する予定にしている播磨の「置塩城」などにもこうした石列状のものが散見されるが、これはほぼ生活及び雨水排水のための側溝跡で、猿掛城に配置された石列はこれとは異質な用途と思われる。不可解である。
【写真左】五の丸
四の丸から1.5m下がったところに五の丸が控える。
32m×25mの規模で、ここで軸線が北東に20度程度振れていく。
【写真左】六の丸
この郭も上段より1.5m下がり、幅25mの規模となっている。
一応この六の丸までが、本丸から連続するいわゆる連郭式郭群の構成をなしている。
六の丸からさらに数十メートル下がっていくと、次の「大夫丸」が出丸の一つとして配置されている。
【写真左】大夫丸・その1
前稿で紹介した内容と重複する部分もあるが、猿掛合戦の結果は事実上庄氏の敗北に近い形であった。
このため、毛利方(三村氏)によって、城代庄実近は幽閉に近い扱いを受けることになる。その場所がこの「大夫丸」といわれている。
現地の説明板より
“大夫丸(たゆうまる)の由来
天文2年(1533)、猿掛城主の庄為資(しょうためすけ)は松山城へ移り、備中半国の領主として、勢威隆盛を極めた。
その際、為資は一族の庄実近を猿掛城の城代として置き、これを守らせた。天文22年(1553)、毛利元春(吉川元春)の援助を受けた三村元親軍と庄為資軍が猿掛城のふもと、現在の横谷・東三成で激突し、大合戦となった(猿掛合戦)。
【写真左】大夫丸・その2
しかし毛利元春の調停により、庄と三村は講和し、翌天文23年(1554)三村家親の長男の三村元祐が庄為資の養子となった。三村元祐が猿掛城主として入城したので、城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫丸と公称したといわれている。
矢掛町教育委員会
猿掛城跡へ登る会実行委員会”
昭和の大戦中、この場所が炭焼き場として使用されたが、郭段(3段)の遺構は当時のままだという。
【写真左】寺丸・その1
大夫丸の尾根筋から逸れて、大手道を下っていくと、途中で「寺丸」という小郭が現れる
現地の説明板より
“寺丸の由来
延徳4年(1492)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資はかろうじて退避したが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は、孤軍奮闘したすえ、城中にて切腹して果ててしまった。
庄元資は、香西五郎右衛門一統の功績を称え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈った。
【写真左】寺丸・その2
礎石などが残る。
寺丸には今でも柱礎石、石垣基礎が残っている。
のち、庄氏は永正5年(1508)に山麓の椿原に洞松寺(とうしょうじ)の末寺・見性寺(けんしょうじ)を建立し、寺丸の位牌を移してまつり、永く供養を怠らなかったという。
矢掛町教育委員会
猿掛城へ登る会実行委員会”
【写真左】寺丸・その3
猿掛城からの眺望はあまり期待できないが、この寺丸からは西方を俯瞰できる。
中央の川は小田川で、上流部の矢掛の町並みが少し見える。
洞松寺(とうしょうじ)
●所在地 岡山県小田郡矢掛町横谷3798
●山号 舟木山
●宗派 曹洞宗
●本尊 宝冠釈迦如来
●創建 天智天皇時代(伝)
●探訪日 2012年7月11日
◆解説
猿掛城の西麓の谷を南に約2キロほど登った谷間にある寺院で、当城主の菩提寺とされている。
【写真左】洞松寺山門
如何にも禅寺といった趣がある。
現地の説明板より
“舟木山 洞松寺
洞松寺は山号を舟木山といい、曹洞宗の禅寺で応永19年(1412)に喜山性讃(きさんしょうさん)という名僧が再興しました。猿掛城主庄氏や毛利元清の帰依を受け、最盛期には備中国を中心に1,200の末寺を従えた中本山として栄えました。
【写真左】もう一つの山門
上の写真にある山門とは別に、この手前にも山門があり、その脇には「下馬」と刻銘された石碑が建つ。
手前にあるので、総門ということだろうか。
その存在は室町時代より地域を代表する寺院として、猿掛城主の菩提寺として歴史的ゆかりが深く、境内全域が町の史跡として指定を受けています。
また、喜山性讃・恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)の頂相(ちんそう)彫刻(県指定)をはじめ、洞松寺山門(町指定)や毛利元清宝篋印塔(町指定)、庄元資宝篋印塔(町指定)が現存し、洞松寺の歴史ひいては備中地域の歴史を物語る上ではなくてはならないものといえます。
【写真左】本堂
参詣したこの日はちょうど改修工事の真っ最中のようで、中のほうは入ることはできなかった。
境内でたまたま背の高い剃髪した若い修行僧に出合った。驚いたことにこの方は、女性で出身は確かオーストラリアだったと記憶している。他にも外国人の方がいるようで、どうやら当院はこうした外国の方にも門戸を開いて行う修験道場でもあるらしい。
猿掛城主・庄氏のことについて聞いたところ、未だ自分は日本に来て日が浅く、お答えできないと大変丁寧に詫びられ、却ってこちらの方が恐縮してしまった。
なかでも洞松寺文書は、文安5年(1448)9月27日の庄資冬田地沽券(でんじこけん)をはじめ、室町時代から戦国時代にかけての田地沽券や寄進状、寺領関係文書が一括して保存されており、当該時期の備中南部を拠点とした地方武士のあり方や、経済活動の一端をうかがえる貴重な史料として歴史的評価が高く、平成16年3月に岡山県重要文化財に指定されました。
また、寺宝として伝世する室町期の古備前の壺・瓶も町の重要文化財に指定されています。これら多くの重要文化財の一部は、矢掛町教育委員会が寄託をうけ保管しています。
矢掛町教育委員会”
【写真左】庄元資の墓
町重要文化財(石造美術)で、相輪上部などが欠損しているが、関西形式としての古さを伝えていると記されている。
【写真左】毛利元清の墓?
付近には何も紹介するようなものがなく、分からないが、おそらくこの宝篋印塔が毛利元清の墓と思われる。
◎関連投稿
洞雲寺(広島県廿日市市佐方1071番地1)
0 件のコメント:
コメントを投稿