2013年1月11日金曜日

土居構(愛媛県西条市中野日明)

土居構(どいかまえ)

●所在地 愛媛県西条市中野日明
●別名 東之館
●築城期 南北朝時代
●築城者 河野通直
●形態 居館
●遺構 土塁・石垣・堀
●規模 60m×70m
●高さ 標高17m
●指定 県指定史跡
●登城日 2012年7月31日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 今稿は山城ではなく、居館跡の史跡として残る「土居構跡」を紹介したい。所在地は、伊予(愛媛県)西条市にあって、河野氏一族のものといわれている。
【写真左】土居構・その1
 全体にこの辺りの道は狭い。

 手前に見える道は、後段で示すように、土佐方面に向かう旧街道であったと思われ、左側(北)へ進むと、河野氏の後に入った石川氏の墓がある保国寺に向かう。



 現地の説明板より

“(県指定)史跡
 土居構跡

 土居構とは古い城郭の形式である。此処は約600余年の昔、新居宇摩二郡を支配した河野通直が築造したと伝えられる。主峰高峠を中心に麓に加茂川の急流を繞(めぐ)らした城塞の拠点として偉容を誇った高外木城主の平生の居館の跡である。

 時代は移って石川氏がこれに拠ったが、天正13年(1585)の兵乱に建物等一切焼亡して僅かに石垣芝生の犬走等のみ残存している。

 寛永19年(1642)久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承して今日に至っている。
 寛文のはじめ建築した家屋は、その後改造を累(かさ)ねながら猶旧態を保っている。書院の庭園は江戸初期民家の代表的のものとして推奨されている。

 本邸を囲む巨木老樹を含む植物群は、旧時よりの居住者の生活様式を類推し得る意義深いものがある。

  昭和56年3月18日
    西条市教育委員会”
【写真左】その2














河野通直と高外木城

 当館を築造したのは河野通直といわれている。実はこの人物、同じ名前で南北朝時代から安土桃山時代にかけて、4人も存在している。いずれも伊予の河野氏である。このため、官位が分かる者については、それを附記して区別している。

 今稿の通直は、このうち南北朝時代に活躍した河野通堯(みちたか)の後の改名である。
 この通堯(通直)の父は、道朝(通朝)であるが、この頃の伊予河野氏はいち早く南朝に与し、延元元年・建武元年(1336)9月、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が征夷大将軍として讃岐に赴き、その後九州へ下るときも支援続けた。父道朝が北朝方細川氏に敗れた際、子の通堯は九州の懐良親王を頼っている。
【写真左】その3 漆喰土塀
 寛文年間に改築されたとあるが、おそらくこの塀の意匠は当時のものとさほど変わらないものだろう。
 現在の家主久門氏の本宅も残っている。建坪は当時とさほど変わらないものだったと思われる。


 この間の動きについては、以前世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)でも紹介しているように、室町幕府2代将軍・義詮から3代義満に至る間、幕府内で急激に実力を高めた執事・細川頼之と、伊予河野氏との戦いが発端となってしばらく続くことになる。

 通直の生誕年は不明だが、天授5年・康暦元年(1379)に亡くなっている。この年は、執事細川頼之の専横がついに幕府内諸将の反駁を引き起こし、頼之は出家して讃岐国に奔った(康暦の政変)。この政変後、西国を中心として大幅な守護領国支配の変更が行われ、伊予国では、名目上頼之から通堯となった。
【写真左】塞神と刻銘された祠
 土居構の入口付近にあるもので、道祖神の一種と思われるが、当時この狭い道が南方の寒風山越えして土佐国に至る街道筋だったのかもしれない。

 そして、足利義満は通堯に頼之追討の命を出したものの、逆に通堯は頼之の返討(かえりうち)にあって討死した。その場所は、現在の西条市上市佐々久山(佐々久神社)といわれている。

 ところで、説明板にある高外木城だが、別名高峠城といい、土居構の南西1キロの高峠(H:233m)に築かれている。管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が登城報告されているので、ご覧いただきたい。

石川氏

 さて、通直が細川氏によって返討にあったあと、当地に入ったのが細川氏の代官といわれた石川氏である。

 同氏の出自については詳細は不明だが、細川氏一門は、当時備中国守護でもあり、庄氏とともに有力被官(守護代)であった石川氏が実力を備えていた。従ってこの石川氏一族の中から(庶流か)伊予に渡ってきたものと思われる。
【写真左】八堂山城遠望
 土居構の東方1キロに聳える八堂山に築かれた城砦で、石川越前守の居城といわれている。
 越前守は後段の備中守の兄弟、もしくは前代の城主だったかもしれない。


 石川氏はその後天正13年(1585)の秀吉による四国攻めに至るまで、当地を支配した。

 前稿天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)でも述べたように、四国伊予攻めを担ったのは、毛利輝元を中心にした毛利軍である。

 なお、四国攻めの前年、当時の高峠城(高外木城)主であった石川備中守通清は病没している。墓所は土居構から700mほど南に登った保国寺に祀られている。


保国寺(ほうこくじ)

 保国寺境内には、室町時代の様式をとどめた国指定名勝「保国寺庭園」があり、古刹である。
【写真左】保國禅寺・その1 仁王門












現地の説明板より

“萬年山金光院 保國禅寺 平成大改修事業

 保國禅寺は、萬年山金光院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、神亀4年(727)、聖武天皇の勅願寺として建立され、当初は天台宗であったが、建治年中(1275~78)に仏通禅師により臨済宗東福寺派寺院として開山され七百有余年の法灯をかかげる由緒深い禅刹であります。
【写真左】保國禅寺・その2 本堂
 近年では珍しくなった見事な茅葺の屋根に仕上がっている。

 特に、保國時所蔵の仏通禅師坐像は室町初期の作と見られ、国の重要文化財に指定されています。黒光りする姿から「黒仏さん」と呼ばれ、日本の肖像彫刻の代表として昭和45年(1970)ボストン美術館に出展されました。

 本堂裏にある池泉観賞式の庭園は、永享年間(1429~41)の築造とみられ、石庭では四国最古の名園といわれています。
 往時は13の殿堂伽藍と24の塔院が建立されいたが、天正13年の戦乱により灰燼となるが、以後時代の人々が求める信を担って修復・再建等々により今日まで維持されています。
【写真左】保國禅寺・その3 庭園

 星霜を重ねた本堂や諸閣には、老朽・腐食化が著しく部分補修では到底維持できないものもあり、檀信徒の格別なるご理解と絶大なるご支援・ご協力を賜り、ここに檀信徒の夢である平成大改修事業が成就致しました。
 私たちの菩提寺である保國禅寺が安らぎや憩いの場として後世に引き継がれていくことを願っています。    合掌
   寄付金総額    三億二百萬円
     平成18年3月吉日
  萬年山金光院保國禅寺   住職 角田 智道
                   総代表 久門 忠夫
            総代・建設委員・世話人一同”
【写真左】石川備中守通清の墓・その1
【写真左】石川備中守通清の墓・その2
 五輪塔形式のものだが、大分欠損している。








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