2013年12月16日月曜日

上大野城(徳島県阿南市上大野町城山神社)

上大野城(かみおおのじょう)

●所在地 徳島県阿南市上大野町城山
●築城期 永禄8年3月(1565年)
●築城者 仁木伊賀守源高長
●城主 仁木伊賀守源高長
●高さ 143.4m
●遺構 郭等 
●備考 城山神社
●登城日 2013年11月17日

◆解説(参考資料 サイト「うるめしま」等)
 前稿までは主として吉野川流域に所在してきた城砦を取り上げてきたが、今稿は徳島県のもう一つの大河・那賀川沿いに築城された上大野城を取り上げたい。
【写真左】上大野城遠望
 東側から見たもの。











 ところで、吉野川は西隣の高知県を源流とし、徳島県を東西に横断する一級河川だが、那賀川は徳島県域のみを流れる川で、この条件としては、吉野川より長く、その距離は125キロにも及ぶ。
【写真左】本丸付近から那賀川を望む
 上大野城は、那賀川が大きく蛇行を繰り返す場所の東岸に築かれている。






 今でこそ、上大野城付近は河口から約13キロ余り入った中流域になるが、戦国期にはこの辺りまでは紀伊水道が深く食い込み、深江の地勢であったと思われる。

現地の説明板・その1より

“城山神社参拝の拜

 位置 阿南市上大野町大山田62番地
 標高 143.4m(阿南市都市計画地図)

1、城山の由来
 旧大野村誌によると、戦国時代に京都より来た仁木伊賀守源高長という武将が、永禄8年3月(1565年)にこの地に築城、家臣130人を城下(今の城之内地区)に住まわせたが、やがて土佐の長宗我部の軍に攻められ、天正5年(1577)落城焼失したとある。
 以来、この地を城山と呼ぶようになったのである。
【写真左】登城口付近
 登城道は南側と、北側の二か所あるようだが、この日は阿南養護学校側の南側から向かった。

 麓から当城中腹部まで一面にミカン畑が広がり、往来できる道は、車一台分がやっと通れる狭い道がほとんどで、写真にある道は、四駆の軽トラックなら向かうことができるが、普通車には厳しい。このため、麓の空き地に止め、ここから歩いて登る。


2、城山神社
 当社建立の年代は詳らかでないが、手洗鉢・石段・獅子狛等の年号その他から推測して、170年前すでに有名であったようである。
 祭神は、素戔鳴尊である。尊は天照大神の御弟で武勇に勝れ、出雲に降って八岐大蛇を退治された。またその地で櫛稲田姫とご同棲のみぎり詠まれた「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の歌は、短歌の起源となっている。
 このように素戔鳴尊は、文武両道に秀でた知勇兼備の神様である。従って尊をお祀りしている当社には武運長久、学業成就を祈願するため参詣する軍人や学者が多いのである。
【写真左】北側ルートとの合流点
 最初のピークで、このあたりにもミカン畑があり、収穫中の農家の人に出会った。
 この位置からさらに簡易舗装された道が続くが、急峻で狭く、徒歩が安全だ。


3、城山の花崗岩質
 城山を形成している花崗岩質の岩盤は、4億2千万年前のもので、地質学上極めて価値の高いものである。昭和42年(1967)に徳島県の天然記念物に指定されている。
 以上の如く当城山には歴史的、宗教的、学術的に貴重なばかりでなく、昔から近郷近在の人々の信仰の支えとして、また大野の象徴として今日に至っている。

    昭和56年(1981)9月記”
【写真左】ミカン畑
 登城道途中に見たもので、幅の狭い畑が何層にも段を構成している。








仁木高長

 説明板にもあるように、築城期は戦国の後期で、しかも築城したのは地元阿波国出身でない人物・仁木氏という。仁木氏は「阿波誌」によれば、足利義廉を始祖とし、義国が仁木姓を名乗ったとある。
【写真左】二の丸付近
 ご覧の通り現在は城山神社が祀られているため、城砦としての遺構は明瞭に残っていないが、おそらくこの境内となった場所が二の丸と思われる。



 足利義廉(あしかがよしかど)、あまり馴染みのない人物である。
 江戸時代末期に編纂されたという『系図纂要』によれば、義廉は室町幕府第11代将軍足利義澄の次男・義維(よしつな)の末裔とされる。

 この流れはのちに、上大野城のある阿南市の平島を本拠として、14代将軍足利義栄(よしひで)を輩出し、後に当地名から平島公方と呼ばれた。(平島館(徳島県阿南市那賀川町古津字居)参照)

 永禄8年(1565)5月、第13代室町幕府将軍・足利義輝は、三好義継(義重・長慶の養嗣子)及び松永久秀らによって切腹させられた。これは三好長慶が亡くなった後、長慶のあとを継いだ三好三人衆と、長慶の臣下であった松永久秀が、義輝を排斥し、新たに義稙の養子であった義維の嫡男・義栄を新将軍として担ぎ、彼らは彼を傀儡とする政権を構築せんとしたからである。

 実際、義栄は3年後の永禄11年(1568)2月8日、三好三人衆の推薦によって朝廷から第14代将軍(征夷大将軍)の宣下を受けるが、このころ、既に彼を担ぎ出した三好三人衆と松永久秀の反目が顕著になり、さらには義栄自身の体調が芳しくなく、上洛しなかった将軍である。
【写真左】二の丸付近から本殿側を見る
 手前の二の丸と思われる削平地からさらに階段があり、手前に鳥居がある。
 この鳥居を潜り階段を上ると、城山神社が祀られている本丸跡にたどり着く。

  
 ところで、義栄が将軍の宣下を受けた2か月後、越前朝倉の一乗谷に匿われていた足利義秋は、4月15日、元服し名を「義昭」と改めた。

 それからほどなくして将軍となったばかりの義栄は、その年の10月ごろ病没した。享年30歳。

 余命いくばくもないという知らせは、すでにこの段階で織田信長の耳にも入っていたのだろう。義栄の死去と相前後し、9月26日、信長は義昭を奉じて上洛、10月18日には、義昭は朝廷から征夷大将軍・第15代将軍の宣下を受けることになった。

 見方によっては、、三好三人衆・松永久秀らが担ぐ義栄と、織田信長らが担ぐ義昭との義輝亡き後の将軍職を巡っての入京争いともいえる。
【写真左】本丸跡・その1
 南北25m×東西10m程度の規模のもので、北側には城山神社の本殿が建立されている。





 ところで、本稿の城主といわれる仁木氏が、この足利義廉を始祖とし、義国が仁木姓を名乗ったとある。

 これとは別に、同姓同名の仁木高長が細川高国の盟友として知られるが、彼が活躍していたのはこれよりだいぶ前のことで、別人と思われる。

 また、同じ仁木氏としては、三好衆とは反目して、足利義昭が還俗する前、一乗院に幽閉され覚慶を名乗っていたころ、甲賀の土豪・和田惟政と協力して、脱出を計画していた仁木長頼がいる。 おそらく、阿波に移住した義国は、元は長頼とは同族であったと思われるが、詳細は不明である。
【写真左】本丸跡・その2
 本殿裏の北端部にはご覧の祠祀られ、それを取り囲むように古木が佇む。






現地の説明板・その2より

“城山の「黄金の伝説」

 大野の城山落城の際、仁木伊賀守の一子高持式部大輔大学は、兵法を学ぶため、上洛していました。その大学に連絡をとり、仁木家の再興をはかろうとした家老紀伊守次郎五郎盛利■先祖は、上州上諏訪城主で秋元和泉平朝臣と言い、1502年阿波の国に罷り越し、現在の小松島市櫛渕に居所を構え名を渕和泉守盛貞と名のっていた。
【写真左】切崖
 本丸の西から北にかけては険しい切崖状の法面となっている。







 落城後櫛渕に身を隠していた盛利は、百姓に変装し夜陰に乗じて櫛渕をたちましたが、無念にも途中で追手に捕えられ斬殺されてしまいました。その時持っていた密書に、軍資金の隠し場所を(が)書いてあったそうですが、捕えた兵士は無学のため読むことができず、持っていた密書が何であるかを知ることができなかったのであります。後日この密書には、

 『朝に夕に日のあたる七原の見ゆるところ
    白い椿の花咲く此のところ、冬雪もつもらず』

 と書いてあったといわれ、これは軍資金のありかを示したものだと云い伝えられています。その後、軍資金は雪の積もらない白い椿の生えている場所だということで、城山中を探した人もあったようですが、いまだに探し当てた人はいないようです。
【写真左】五輪塔
 下山したとき、目にしたもので、南側の中腹部の谷間に建立されている。

 天正5年の長宗我部氏による落城の際、討死した仁木氏の一族もしくは城主・高長のものかもしれない。



 城山付近は、戦中戦後に開墾され、今では城山一帯はみかん畑になっています。その中には冷たい水が渾々と湧き出る場所は出てきたようですが、残念ながら、資金や宝物を隠した場所は見つかっていません。もう少し掘れば出てくるのではないかと、おおくの人々に億万長者の夢と希望を抱かせた城山の黄金の話は、昔から現代にこのように語りつがれているのであります。
 阿南第一中学校中大野学習会”
【写真左】説明板「黄金の伝説」が設置されている箇所の菩薩像
 下山した後、車を切り回しするため向かったところ見つけた箇所で、南無観世音菩薩像が祀られている。

 仁木氏を代々慰霊してきたものと思われる。

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