2013年12月10日火曜日

中鳥城(徳島県美馬市美馬町中鳥)・その1

中鳥城(なかとりじょう)・その1

●所在地 徳島県美馬市美馬町中鳥
●築城期  元亀元年ごろか
●築城者 浅野但馬守
●城主 浅野但馬守、久米刑馬亮、前田利恒(京本入道)
●形態 平山城(河城)
●遺構 石垣等
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 中鳥城は吉野川の川中に築城された珍しい城砦で、形態としては学術名にはないが、河城ともいうべき遺構である。

 所在地は、以前取り上げた同市内にある阿波・重清城から南方へ1キロほど向かった吉野川の川中にある。
 現在は下段に示すように、度重なる洪水のため、昭和63年から64年にかけて島内に住んでいた28戸が県内外へ移住、その後平成2年から築堤工事等が始まり、約20年間の工期をかけて完成した。
【写真左】中鳥城遠望
 吉野川北岸の「四国三郎の郷」側から見たもの。
 右が上流で、左が下流になる。





【写真左】周辺地図
 この辺りは「水辺の楽校・ふるさとハイキングマップ」といわれる箇所で、中鳥城跡(伊射奈美神社跡)が右下に表示されている(詳細は下段の図参照)
【写真左】中鳥城位置図
 伊射奈美神社の東側にあったとされるので、図示しておく。
【写真左】昭和48年頃の航空写真
 東西に長く両端部が尖った豆状の島であり、45haの面積を持っていたといわれるので、現在の東京ドームの10倍近い面積だったということになる。



現地の説明板より・その1

“記念碑
 日本一社 延喜式内社 伊射奈美神社

 鎮座地 徳島県美馬市美馬町中鳥589番地
 御祭神 伊邪那美尊 速玉之男神 事解男命
 合祀 天照大神 素戔嗚尊 大山祇神 猿田彦大神
 神紋 十六菊紋

由緒
 神社の創祀は不詳。神話時代の創建とされる淡路、伊沙奈美神社と同時期と考えられ、伊邪那美神社を建てられ、阿波の神々の中で最も格式の高いのは、貞観11年(869)阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う。伊邪那美尊を単独神として祀る全国唯一の神社として、延喜式神名帳に登載される最も格式の高い古社。
【写真左】移築された伊射奈美神社
 吉野川北岸の築堤から少し降りた場所に建立されている。







 阿波の美馬郡は古くから田畑の豊穣を祈願、古代の水の神として穀霊、穀神信仰、母神崇拝の稲作にゆかりの霊格の中心地。

 渡来人の法道仙人が伊宇摩山仏母寺を中鳥に建立開基。奈良時代、神社に付属の寺を聖武天皇勅令により忌部神宮寺と寺号を改め、文治3年(1186)神社再建され社殿戸扉に、神代自古御鎮座、伊射奈美尊神社と記す。
 本殿箱棟に神紋十六菊御紋あり、古昔最も盛大なる神詞にして美馬、三好の総鎮守として伝える。
【写真左】初代城主・浅野但馬守の墓・その1




 本殿裏の境内に建立されているもので、左石柱の側面には、

 二代久米刑馬 没 石井
 三代前田利恒

と刻銘されている。


 戦国動乱の時代、天文年間(1532)三好長慶の祈願所として綾地の御先幟を献納。

 元和3年(1617)蜂須賀候祈願の為黒昔幟、甲冑二領奉納、家老稲田稙元祈願の為長刀を奉納。

 室町時代の後期、中鳥城主に、元亀元年(1570)浅野但馬守、安土桃山時代天正年間(1573)久米刑馬亮拠る。後に前田京本入道が城主。神社再興の正徳3年(1713)享保16年(1731)棟札保存。
【写真左】初代城主・浅野但馬守の墓・その2
 後ろから見たもの。
 中鳥城が中鳥島にあった当時はこのほかにもこうした五輪塔などがあったのかもしれない。



 戦国から江戸時代、天文(1532)から明歴(1655)年間に、中鳥村三百有余の人家があったとされ、享保11年(1726)大洪水え吉野川南岸から切り離され、川中島となる。明治5年9月官制による神社分類で伊射奈美神社は村社に任ぜられ、明治8年神社建替え戸扉に神代自古御鎮座、式内村社伊射奈美神社とあり、社殿に保存。

 昭和9年6月1日中鳥は半田町から分離、重清村へ合併。昭和61年(1986)建設省が吉野川洪水時の浸水被害を防ぐため、西村中鳥堤防工事で用地買収、63年に28戸移転。神社は平成4年10月7日現在地に拝殿。神殿を新築落成し御鎮座。

    平成19年4月吉日 移転記念碑建立。”
【写真左】附近の史跡マップ
 地元重清西小学校の作成とある。









現地の説明板より・その2

 “中鳥島について

 中鳥島は、1726年(享保11年)の大洪水で南岸から切り離された吉野川河口から約58km上流に位置した面積45ヘクタールの川中島である。昭和9年6月1日に旧半田町から旧重清村に編入された。編入当時の戸数は43戸、人口225人であった。

西村・中鳥地区築堤について
 吉野川の築堤工事が実施されるにあたり、昭和57年に全島買収による住民移転の同意がなされ、昭和63年から64年にかけて島内に残っていた28戸が県内外へと移住し、平成2年12月に高瀬谷川の護岸工事が開始され、平成18年3月に中鳥川樋門が完成している。事業延長は3370m(高瀬谷川合流点~中野谷川合流点)、総事業費は約100億円、事業期間は昭和61年から平成18年3月までの20年間である。
【写真左】中鳥川公園
 左側に吉野川・中鳥島があり、右側には中鳥川がある。
 地元民の散歩・ジョギングコースのようだ。






伊射奈美神社・中鳥城跡・中鳥学校跡について
 伊射奈美神社は築堤による全島買収により平成4年10月7日に現在の場所に拝殿、神殿を新築落成している。この際に中鳥城主の墓も現在の伊射奈美神社に移築されている。

 神社の東側にはかつて吉野川の氾濫になやまされた中鳥住民の避難場所となっていた中鳥城本丸跡、島民が生活用水として利用した池が現在も残っている。また、旧中鳥神社境内地南側には、半田尋常高等小学校中鳥分教所があり、重清村への編入に際し、児童は重清村立重清西尋常高等小学校に編入していることを示す資料も残されている。

天文年間から明暦年間まで中鳥村
明歴年間より半田村に合併

1、明治14年 寺子屋式教授 17年間閉鎖
1、明治15年 半田校中鳥尋常小学校建築
1、昭和6年4月1日 廃止し、分教場として3年以下生徒
1、昭和10年 重清西尋常小学校に編入


注意
 堤外地の竹林の南側の親水階段を利用すると川原を通って中鳥島を訪ねることができます。
島を訪ねる際には、急な増水などに十分ご注意ください。”



伊射奈美神社

 上掲した説明板から推察すると、中鳥島に当社が祀られたのは相当古い時期のようである。

 貞観11年(869)阿波国伊射奈美神社正五位の神階を賜う

 とある。
【写真左】伊射奈美神社
 堤防側から見たもの。
 ここから右に少し向かったところには、「中鳥渡し跡」があった。





 この頃の日本の出来事としては、貞観3年に東大寺の大仏修理の供養がなされ、翌4年5月に、海賊が横行したため、山陽・南海二道諸国に海賊追補が命ぜられ、当年(貞観11年)12月には、新羅の海賊に備えて、諸国の俘囚を大宰府に配置したりしている。

 また、管理人の住む出雲国附近では、この動きが特に顕著であったらしく、隠岐国浪人の安曇福雄が、前隠岐守・越智宿祢貞厚と新羅人が共に叛逆を謀ったと誣告(ぶこく)した罪で、遠流に処せられる(「三実」)、という記録も見える。

【写真左】熊野本宮大社の旧社地大斎原
 所在地 和歌山県田辺市本宮町本宮


 ところで、伊射奈美神社のように、川の中にあった島に祀られた社として有名なのは、和歌山県の熊野本宮大社の旧社地大斎原だが、当社もそうした川の中に建立するという共通した意味づけがあったのだろう。




築城期

 中鳥城が築城されたのは、初代城主として元亀元年(1570)浅野但馬守の記録があるので、恐らくこの頃だろう。その後、安土桃山時代天正年間(1573)久米刑馬亮拠ると記されている。
【写真左】北岸から中鳥城を見る。
 この日は前日まで続いた長雨のため、渡河できず、渡ることは出来なかった。

 中鳥城が伊射奈美神社の東にあったというから、場合によっては神社の石垣かもしれない。



 ただ、これより先の天文年間(1532)に、三好長慶が祈願所として綾地の御先幟を献納したとあるので、既に砦もしくは番所的なものがあった可能性もある。

 さて、この中で、浅野但馬守なる人物が元亀年間当城主であったとされているが、この人物については詳細は不明である。ただ、このころ長慶の跡を引き継いだ三好三人衆(三好長逸・政康、岩成友通)らが、畿内統一を図り始め、母国阿波では篠原長房が背後を固めている時期である。

【写真左】伊射奈美神社から重清城方面を見る。
 重清城と中鳥城の距離は約1キロ程度であることから、長宗我部氏による阿波侵攻の際、重清城の南方(川沿い)を守備する役目を当城が担ったかもしれない。



 そして元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康らが、近江姉川畔で浅井長政・朝倉景健を破ると(姉川古戦場跡)、9月には、三好三人衆が本願寺顕如に味方し、本願寺門徒らも引き込んで信長の陣営を襲った(石山合戦の始まり)。

 こうした畿内の動きをみると、おそらく浅野但馬守は三好三人衆もしくは、当時味方であった篠原長房をはじめとする三好一族らと阿波を守備していたのかもしれない。
 そして、その後長宗我部氏による阿波侵攻において、当城に拠った武将が久米刑馬亮だったのだろう。

 ところで、この久米刑馬亮については、次稿で少し触れておきたい。

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