中鳥城(なかとりじょう)・その2
●所在地 徳島県美馬市美馬町中鳥
●築城期 元亀元年ごろか
●築城者 浅野但馬守
●城主 浅野但馬守、久米刑馬亮、前田利恒(京本入道)
●形態 平山城(河城)
●遺構 石垣等
●登城日 2013年11月16日
◆解説
中鳥城を築いたといわれる浅野但馬守のあと、天正年間(1573)に当城に拠ったといわれているのが、久米刑馬亮である。今稿ではこの久米某と川島城を中心にして、この頃の様子を推察してみたい。
【写真左】中鳥城遠望
川島城との関わり
ところで、中鳥城から吉野川を約28キロほど下った所には、以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がある。記録によれば、当城の築城期は元亀3年(1572)頃といわれ、中鳥城が築城された時期とほぼ同じころである。そして、築城したのが三好氏の家臣・川島兵衛之進とされている。
【写真左】川島城模擬天守
当然ながら戦国期にはこのような近世城郭形式の城郭などはなく、近代に入って建立された建物である。
ただ、後段でも示すように、築城期はこれより遡り、兵衛之進の祖父・惟重が築いたともされるが、ここでは孫の兵衛之進としておく。兵衛之進は、築城したその年当城において、三好氏一族の内訌により、長治に属し、重臣篠原長房と戦い(川島合戦)、その後、天正7年(1579)阿波国侵攻を図った長宗我部元親の猛攻に遭い、三好一族共々討死したとされる。
さて、この川島氏(河島氏)であるが、以前にも述べたように、永禄年間を主な時期として、美作(岡山)の上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)の城主であったという。
【写真左】上ノ殿城(うえんとじょう)
主郭跡には現在「河島神社」が祀られている。
川島氏が、その後阿波国に移ったのは、元々同氏が阿波小笠原氏の流れを持つことからで、おそらく長宗我部氏による阿波国侵攻に際し、阿波小笠原氏(三好氏など)からの救援を求められたからであろう。
【写真左】川島氏の墓
社には川島氏と思われる2基の宝篋印塔が祀られている。
久米刑馬亮
さて、天正年間に中鳥城に拠った久米刑馬亮なる人物だが、彼は当城とは別に当時、中鳥城から吉野川を14キロほど下った北岸の阿波町西林(阿波市)に陣も構えている。
また西林とは別に北方1.5キロの丘陵地の馬場・日吉付近には、西林城や日吉城なども長宗我部氏と戦った記録が残る。
このことから、久米氏は主として吉野川を中心とした船戦を担った武将と思われる。
【写真左】中鳥城附近の吉野川
下流の阿波町西林・川島城方面を見る。
ところで、この久米という姓だが、前段で紹介した美作の上ノ殿城のあった場所は、久米郡久米町である。おそらく、刑馬亮はこの久米の出身と考えられ、当然ながら川島氏と深い関係があったものと思われる。
●所在地 徳島県美馬市美馬町中鳥
●築城期 元亀元年ごろか
●築城者 浅野但馬守
●城主 浅野但馬守、久米刑馬亮、前田利恒(京本入道)
●形態 平山城(河城)
●遺構 石垣等
●登城日 2013年11月16日
◆解説
中鳥城を築いたといわれる浅野但馬守のあと、天正年間(1573)に当城に拠ったといわれているのが、久米刑馬亮である。今稿ではこの久米某と川島城を中心にして、この頃の様子を推察してみたい。
【写真左】中鳥城遠望
川島城との関わり
ところで、中鳥城から吉野川を約28キロほど下った所には、以前紹介した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)がある。記録によれば、当城の築城期は元亀3年(1572)頃といわれ、中鳥城が築城された時期とほぼ同じころである。そして、築城したのが三好氏の家臣・川島兵衛之進とされている。
【写真左】川島城模擬天守
当然ながら戦国期にはこのような近世城郭形式の城郭などはなく、近代に入って建立された建物である。
ただ、後段でも示すように、築城期はこれより遡り、兵衛之進の祖父・惟重が築いたともされるが、ここでは孫の兵衛之進としておく。兵衛之進は、築城したその年当城において、三好氏一族の内訌により、長治に属し、重臣篠原長房と戦い(川島合戦)、その後、天正7年(1579)阿波国侵攻を図った長宗我部元親の猛攻に遭い、三好一族共々討死したとされる。
さて、この川島氏(河島氏)であるが、以前にも述べたように、永禄年間を主な時期として、美作(岡山)の上ノ殿城(岡山県久米郡久米南町中籾)の城主であったという。
【写真左】上ノ殿城(うえんとじょう)
主郭跡には現在「河島神社」が祀られている。
川島氏が、その後阿波国に移ったのは、元々同氏が阿波小笠原氏の流れを持つことからで、おそらく長宗我部氏による阿波国侵攻に際し、阿波小笠原氏(三好氏など)からの救援を求められたからであろう。
【写真左】川島氏の墓
社には川島氏と思われる2基の宝篋印塔が祀られている。
久米刑馬亮
さて、天正年間に中鳥城に拠った久米刑馬亮なる人物だが、彼は当城とは別に当時、中鳥城から吉野川を14キロほど下った北岸の阿波町西林(阿波市)に陣も構えている。
また西林とは別に北方1.5キロの丘陵地の馬場・日吉付近には、西林城や日吉城なども長宗我部氏と戦った記録が残る。
このことから、久米氏は主として吉野川を中心とした船戦を担った武将と思われる。
【写真左】中鳥城附近の吉野川
下流の阿波町西林・川島城方面を見る。
ところで、この久米という姓だが、前段で紹介した美作の上ノ殿城のあった場所は、久米郡久米町である。おそらく、刑馬亮はこの久米の出身と考えられ、当然ながら川島氏と深い関係があったものと思われる。
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