夕景城(ゆうげじょう)及び金言寺(きんげんじ)
(1)夕景城
●所在地 島根県仁多郡奥出雲町小馬木大峠
●別名 矢筈山城・寒峰城・感目城・馬木城
●築城期 明徳年間(1390~94)以前
●築城者 馬来満綱か
●高さ 標高936m(比高420m余)
●遺構 郭・虎口・堀切・櫓台・土塁・石垣等
(2)金言寺
●所在地 島根県仁多郡奥出雲町大馬木
●創建 正安2年(1300)
●開祖 日尊上人
●宗旨 日蓮宗
●備考 馬来氏菩提寺 大銀杏
●探訪日 2012年11月23日、12月2日、2017年10月31日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『仁多町誌』等)
夕景城は凡そ1,000m近い高さを持つ矢筈山に築かれている。山陰地方はおろか、中国地方でも最も標高の高い山城の一つといえる。
所在地は文字通り出雲の最奥に当たり、ここから3キロほど南下すると、中国山地の背骨である吾妻山や比婆山が雲備との境をなす。
【写真左】夕景城遠望
2012年12月2日撮影したもので、北方の馬木大森から見たもの。
この日夕景城の矢筈山に雪が薄くかぶった。
夕景城は馬来氏の本城で、戦国期の尼子・毛利氏の戦いの間、馬来氏が当城に拠ったとされている。そのあと、馬来氏一族の健康上の理由から、平地の小林地区に移り小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)を居館としたとされる。
【写真左】甲斐の平城
夕景城(矢筈山)から尾根伝いに東に1キロ余り向かうと、「甲斐の平城(かいのひらじょう)」という出城が隣接している。当城の遺構には、郭・帯郭・堀切・竪堀などがあるという。
等高線を見ると、東側と西側(H:648mの頂部)を中心に約100mほどの削平地があるようだ。
またこのピークからさらに400mほど尾根筋を西に向かって夕景城方面に向かうと、H:750mのピークがあり、そこからさらに西に向かうと夕景城の本丸に向かう。
史料では、矢筈山頂部に城砦遺構が紹介されているが、甲斐の平城からこの間にもおそらく遺構が残っているのかもしれない。
写真は、手前の茅葺の建物が金言寺本堂。中央には葉がすべて落ちた大銀杏の木。
ところで、小林城の稿で明徳の乱において、馬来氏の動向を推察しているが、山名氏が義満に反旗を挙げ抗戦した諸所についてもう少し述べておきたい。
【写真左】三沢城・その1
元中8年・明徳2年(1391)12月30日、大内義弘・細川頼之ら幕府軍が京都内野において山名軍を破り、氏清が討死すると、満幸・氏家は西に奔った。この戦いで、満幸は出雲から2,000の兵を催促させ、その中には三沢氏一統(三沢城(島根県奥出雲町仁多三沢)参照)も含まれていた。
【写真左】三沢城・その2
三沢城本丸から南方に夕景城を俯瞰することができる。
吾妻山を越えると備後国に入る。
その際、三沢の惣領であった尾張守為忠(為長の孫)と、同族の為元も討死している。この合戦で満幸側は敗れ、西に奔った。最初に向かったのが伯耆である。これを知った細川頼之は、出雲・伯耆の武士たちに満幸討伐を命じた。
その後、満幸側が出雲において最も重要な対戦場所としたのが、月山富田城である。このとき、富田城には満幸に与した守護代塩冶師高がおり、さらに馬木の地頭馬来氏綱をはじめ満幸恩顧の武士たちが馳せ参じた。そして、塩冶師高は最後一族30人となるまで戦い自決したという。
戦国期
夕景城における戦いの記録が戦国期に出てくるのは、永禄年間である。安芸の毛利元就が石見銀山を中心として石見を攻めていた時期もこの頃で、当地での支配に目途がたったころから、次第に出雲にその戦力を移動させている。
夕景城のある馬木付近の攻撃の前段として、毛利方が最初に向かったのが、備後高野から国境の王貫峠を越えて奥出雲に入った上阿井地区である。これは温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷)で紹介したように、毛利氏の温湯城攻撃によって孤立無援となっていた温湯城主・小笠原氏救援のため、仁多の三沢城主・三沢為清をはじめとする尼子晴久らが出雲を留守にしていたからである。
この時期は永禄元年(1558)と思われ、その後奥出雲での戦いが続くことになる。
永禄4年(1561)、尼子方であった三沢為清はこのころ既に毛利方に属していた。為清が尼子から毛利に移った時期は、おそらく他の諸将らと同じく、永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急逝した後だったと思われる。
【写真左】蔀山城(高野町)
三沢為清と、備後高野の蔀山城主・多賀山首藤久意(新兵衛尉通続)(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)は、馬来氏の本居城夕景城及び、支城である小林城(前々稿参照)、並びに高尾の高尾城攻略を図った。
夕景城を挟んで、北に三沢城の三沢氏、南に蔀山城の多賀山首藤氏という配置であるため、文字通り挟み撃ちである。
最初に攻め落としたのが高尾城である。高尾城は未登城だが、北側から夕景城に向かう際の最初の位置に当たる。(標高375m、遺構 郭・竪堀・横堀)
【写真左】高尾城遠望
西麓側の上高尾付近から見たもので、標高375m、郭・竪堀などが残るという。
そして次に向かったのが、小林城と夕景城であった。記録によれば、為清は小林城攻めの際、手勢を坂敷と上市の二手に分けて攻めたてたという。上市というのは東側で、坂敷は西側に当たる。
夕景城攻略は小林城と同時並行的に行われた。小林城落城の際、残兵は城に火を放って、月山富田城へ逃れていったという。夕景城の攻防は三昼夜に及んだ。
馬来氏一族は弓矢の達人が多く、善戦したものの、城代だった渋谷長平は小林城と同じく、城に火を放って自刃したという。
勢市川原古戦場跡ともう一つの出城
ところで、夕景城から北に流れる大馬木川を少し下ると、馬木の中心部に入るが、ここからさらに北に下った位置(大馬木と小馬木の分岐点を1.5キロほど登った所)の道路脇に「勢市川原古戦場跡」という看板が建っている。
【写真左】勢市川原古戦場跡・その1
この看板に書かれている文字は大分薄くなって判読に難があるが、以下のように記されている。
“勢市川原古戦場跡
永禄年間矢筈山(夕景城)の出城大手門有り 兵や職人の住居で賑わっていた。
夕景城落城の折 三澤勢との最初の大合戦場跡と伝えられる。”
【写真左】勢市川原古戦場跡・その2
この近くにご覧のような祠跡らしきものが祀られている。
この説明板によると、勢市川原というこの地区に、出城の大手門があったということになる。小馬木川と大馬木川に挟まれた位置には、標高560m余りの南北に長い尾根を持った独立峰がある。南に本拠の夕景城を控え、西・北・東を扼するには理想的な地取りである。
【写真左】勢市川原古戦場跡・その3
古戦場向背の山で、最高所はH:565mで、南北に約300mの長い尾根を持つ。
このことから、小林城や高尾城とは別にもう一つ、この場所に出城があったということになるが、管理人の知る限り、文献や「島根県遺跡データベース」には登録されていない。
金言寺
夕景城の東麓に馬来氏の菩提寺とされた金言寺がある。最近当院が有名になり、多くの観光客が訪れるようになったのは、境内にある樹齢400年余といわれる、古木の大銀杏である。
【写真左】金言寺と大銀杏・その1
2012年12月2日撮影。
前月の11月23日にも探訪しているが、この時すでに黄色い鮮やかな葉はすべて落ちてしまっていた。
本堂は茅葺の屋根という珍しいもので、これがまた一層大銀杏との鮮やかなコントラスを描く。
「金言寺の大銀杏」で検索すると何点か紹介されているので、鮮やかな紅葉の時の写真を見ることができる。
【写真左】金言寺と大銀杏・その2
2017年10月31日撮影
【写真左】金言寺と大銀杏・その3
再訪した2017年10月31日、多くの人で賑わい、本堂の茅葺も更新され一段と趣が増した。
現地の説明板より
“当山の由来
当山は正安2年(1300)、日尊上人によって開山されました。日尊上人は日蓮聖人の弟子である日興上人に師事された方です。
上人は備後路より中国山地を越え、当地に入られ、当山をはじめ、安養寺・妙綱寺等、馬木一円を日蓮宗に改宗されたと伝えられています。
【写真左】金言時から夕景城を見る。
手前の山並みが若干遮っているが、本丸付近の尾根は見ることができる。
大銀杏のいわれ
この大銀杏は、宗旨をかけて日尊上人と囲碁の対戦をし、それに敗れた当山の住職が、碁盤を投げすてたところ、後にその碁盤から目が出たと伝えられています。枝下には気根(乳)があり、授乳に霊験があるとされ、かつては若い母親の信仰を集めたという霊木です。
樹高33m、幹回り6.3m、推定樹齢400年で、11月初旬の黄葉と、それに続く落葉の風情は華麗です。
【写真左】金言寺境内に建立されている「夕景城址」の石碑
夕景城について
右手に見える矢筈山には、夕景城跡があります。馬木氏(馬木村の始祖)の居城として、戦国時代に栄えましたが、永禄3年(1560)、毛利氏に攻められ落城しました。当山は夕景城主の菩提寺であったといわれています。
平成6年5月8日
日尊上人650遠忌にあたり
日蓮宗松尾山金言寺”
(1)夕景城
●所在地 島根県仁多郡奥出雲町小馬木大峠
●別名 矢筈山城・寒峰城・感目城・馬木城
●築城期 明徳年間(1390~94)以前
●築城者 馬来満綱か
●高さ 標高936m(比高420m余)
●遺構 郭・虎口・堀切・櫓台・土塁・石垣等
(2)金言寺
●所在地 島根県仁多郡奥出雲町大馬木
●創建 正安2年(1300)
●開祖 日尊上人
●宗旨 日蓮宗
●備考 馬来氏菩提寺 大銀杏
●探訪日 2012年11月23日、12月2日、2017年10月31日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』『仁多町誌』等)
夕景城は凡そ1,000m近い高さを持つ矢筈山に築かれている。山陰地方はおろか、中国地方でも最も標高の高い山城の一つといえる。
所在地は文字通り出雲の最奥に当たり、ここから3キロほど南下すると、中国山地の背骨である吾妻山や比婆山が雲備との境をなす。
2012年12月2日撮影したもので、北方の馬木大森から見たもの。
この日夕景城の矢筈山に雪が薄くかぶった。
夕景城は馬来氏の本城で、戦国期の尼子・毛利氏の戦いの間、馬来氏が当城に拠ったとされている。そのあと、馬来氏一族の健康上の理由から、平地の小林地区に移り小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)を居館としたとされる。
【写真左】甲斐の平城
夕景城(矢筈山)から尾根伝いに東に1キロ余り向かうと、「甲斐の平城(かいのひらじょう)」という出城が隣接している。当城の遺構には、郭・帯郭・堀切・竪堀などがあるという。
等高線を見ると、東側と西側(H:648mの頂部)を中心に約100mほどの削平地があるようだ。
またこのピークからさらに400mほど尾根筋を西に向かって夕景城方面に向かうと、H:750mのピークがあり、そこからさらに西に向かうと夕景城の本丸に向かう。
史料では、矢筈山頂部に城砦遺構が紹介されているが、甲斐の平城からこの間にもおそらく遺構が残っているのかもしれない。
写真は、手前の茅葺の建物が金言寺本堂。中央には葉がすべて落ちた大銀杏の木。
ところで、小林城の稿で明徳の乱において、馬来氏の動向を推察しているが、山名氏が義満に反旗を挙げ抗戦した諸所についてもう少し述べておきたい。
【写真左】三沢城・その1
元中8年・明徳2年(1391)12月30日、大内義弘・細川頼之ら幕府軍が京都内野において山名軍を破り、氏清が討死すると、満幸・氏家は西に奔った。この戦いで、満幸は出雲から2,000の兵を催促させ、その中には三沢氏一統(三沢城(島根県奥出雲町仁多三沢)参照)も含まれていた。
【写真左】三沢城・その2
三沢城本丸から南方に夕景城を俯瞰することができる。
吾妻山を越えると備後国に入る。
その際、三沢の惣領であった尾張守為忠(為長の孫)と、同族の為元も討死している。この合戦で満幸側は敗れ、西に奔った。最初に向かったのが伯耆である。これを知った細川頼之は、出雲・伯耆の武士たちに満幸討伐を命じた。
その後、満幸側が出雲において最も重要な対戦場所としたのが、月山富田城である。このとき、富田城には満幸に与した守護代塩冶師高がおり、さらに馬木の地頭馬来氏綱をはじめ満幸恩顧の武士たちが馳せ参じた。そして、塩冶師高は最後一族30人となるまで戦い自決したという。
戦国期
夕景城における戦いの記録が戦国期に出てくるのは、永禄年間である。安芸の毛利元就が石見銀山を中心として石見を攻めていた時期もこの頃で、当地での支配に目途がたったころから、次第に出雲にその戦力を移動させている。
夕景城のある馬木付近の攻撃の前段として、毛利方が最初に向かったのが、備後高野から国境の王貫峠を越えて奥出雲に入った上阿井地区である。これは温湯城・その3(島根県邑智郡川本町河本谷)で紹介したように、毛利氏の温湯城攻撃によって孤立無援となっていた温湯城主・小笠原氏救援のため、仁多の三沢城主・三沢為清をはじめとする尼子晴久らが出雲を留守にしていたからである。
この時期は永禄元年(1558)と思われ、その後奥出雲での戦いが続くことになる。
永禄4年(1561)、尼子方であった三沢為清はこのころ既に毛利方に属していた。為清が尼子から毛利に移った時期は、おそらく他の諸将らと同じく、永禄3年(1560)12月、尼子晴久が急逝した後だったと思われる。
【写真左】蔀山城(高野町)
三沢為清と、備後高野の蔀山城主・多賀山首藤久意(新兵衛尉通続)(蔀山城(広島県庄原市高野町新市)・その1参照)は、馬来氏の本居城夕景城及び、支城である小林城(前々稿参照)、並びに高尾の高尾城攻略を図った。
夕景城を挟んで、北に三沢城の三沢氏、南に蔀山城の多賀山首藤氏という配置であるため、文字通り挟み撃ちである。
最初に攻め落としたのが高尾城である。高尾城は未登城だが、北側から夕景城に向かう際の最初の位置に当たる。(標高375m、遺構 郭・竪堀・横堀)
【写真左】高尾城遠望
西麓側の上高尾付近から見たもので、標高375m、郭・竪堀などが残るという。
そして次に向かったのが、小林城と夕景城であった。記録によれば、為清は小林城攻めの際、手勢を坂敷と上市の二手に分けて攻めたてたという。上市というのは東側で、坂敷は西側に当たる。
夕景城攻略は小林城と同時並行的に行われた。小林城落城の際、残兵は城に火を放って、月山富田城へ逃れていったという。夕景城の攻防は三昼夜に及んだ。
馬来氏一族は弓矢の達人が多く、善戦したものの、城代だった渋谷長平は小林城と同じく、城に火を放って自刃したという。
馬来孝綱
永禄年間における夕景城の城主は馬来久綱(孝綱)であった。三沢氏などが攻め入った時久綱は、月山富田城へ出仕していたという。このため、城主自身(乗綱・孝綱)が夕景城で戦ったという記録は見えない。
このあとの経緯ははっきりしないが、最終的に尼子氏が毛利氏に降ることになり、他の諸将と同じく、毛利氏に属していった。
天正17年(1589)、三沢氏とともに安芸へ馬来氏一族の主だった者が移っている。このとき、6代乗綱、8代孝綱は、老齢・病弱(7代は早逝)のため、当地(小林城)へ残り生涯を終えたとある。
勢市川原古戦場跡ともう一つの出城
ところで、夕景城から北に流れる大馬木川を少し下ると、馬木の中心部に入るが、ここからさらに北に下った位置(大馬木と小馬木の分岐点を1.5キロほど登った所)の道路脇に「勢市川原古戦場跡」という看板が建っている。
【写真左】勢市川原古戦場跡・その1
この看板に書かれている文字は大分薄くなって判読に難があるが、以下のように記されている。
“勢市川原古戦場跡
永禄年間矢筈山(夕景城)の出城大手門有り 兵や職人の住居で賑わっていた。
夕景城落城の折 三澤勢との最初の大合戦場跡と伝えられる。”
【写真左】勢市川原古戦場跡・その2
この近くにご覧のような祠跡らしきものが祀られている。
この説明板によると、勢市川原というこの地区に、出城の大手門があったということになる。小馬木川と大馬木川に挟まれた位置には、標高560m余りの南北に長い尾根を持った独立峰がある。南に本拠の夕景城を控え、西・北・東を扼するには理想的な地取りである。
【写真左】勢市川原古戦場跡・その3
古戦場向背の山で、最高所はH:565mで、南北に約300mの長い尾根を持つ。
このことから、小林城や高尾城とは別にもう一つ、この場所に出城があったということになるが、管理人の知る限り、文献や「島根県遺跡データベース」には登録されていない。
金言寺
夕景城の東麓に馬来氏の菩提寺とされた金言寺がある。最近当院が有名になり、多くの観光客が訪れるようになったのは、境内にある樹齢400年余といわれる、古木の大銀杏である。
【写真左】金言寺と大銀杏・その1
2012年12月2日撮影。
前月の11月23日にも探訪しているが、この時すでに黄色い鮮やかな葉はすべて落ちてしまっていた。
本堂は茅葺の屋根という珍しいもので、これがまた一層大銀杏との鮮やかなコントラスを描く。
「金言寺の大銀杏」で検索すると何点か紹介されているので、鮮やかな紅葉の時の写真を見ることができる。
【写真左】金言寺と大銀杏・その2
2017年10月31日撮影
【写真左】金言寺と大銀杏・その3
再訪した2017年10月31日、多くの人で賑わい、本堂の茅葺も更新され一段と趣が増した。
現地の説明板より
“当山の由来
当山は正安2年(1300)、日尊上人によって開山されました。日尊上人は日蓮聖人の弟子である日興上人に師事された方です。
上人は備後路より中国山地を越え、当地に入られ、当山をはじめ、安養寺・妙綱寺等、馬木一円を日蓮宗に改宗されたと伝えられています。
【写真左】金言時から夕景城を見る。
手前の山並みが若干遮っているが、本丸付近の尾根は見ることができる。
大銀杏のいわれ
この大銀杏は、宗旨をかけて日尊上人と囲碁の対戦をし、それに敗れた当山の住職が、碁盤を投げすてたところ、後にその碁盤から目が出たと伝えられています。枝下には気根(乳)があり、授乳に霊験があるとされ、かつては若い母親の信仰を集めたという霊木です。
樹高33m、幹回り6.3m、推定樹齢400年で、11月初旬の黄葉と、それに続く落葉の風情は華麗です。
【写真左】金言寺境内に建立されている「夕景城址」の石碑
夕景城について
右手に見える矢筈山には、夕景城跡があります。馬木氏(馬木村の始祖)の居城として、戦国時代に栄えましたが、永禄3年(1560)、毛利氏に攻められ落城しました。当山は夕景城主の菩提寺であったといわれています。
平成6年5月8日
日尊上人650遠忌にあたり
日蓮宗松尾山金言寺”
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