吉川元春館跡(きっかわもとはる やかたあと)
●所在地 広島家山県郡北広島町海応寺
●指定 国指定史跡
●形態 居館
●高さ 標高380m(比高10m)
●施工開始時期 天正10年(1582)
●遺構 館・石垣・門跡・庭園跡その他
●規模 間口110m、奥行80m
●探訪日 2006年10月25日、及び2011年6月1日
◆解説(参考文献『吉川元春館跡 第5次発掘調査概要 1998 広島県教育委員会編』『日本城郭体系第13巻』等)
吉川元春館跡は、前稿日野山城(広島県山県郡北広島町新庄)から南西3キロほど下った江の川支流の志路原川の南岸に築かれた館跡である。
現地の説明板より
“吉川元春館跡
駿河国(静岡県)を本拠としていた吉川氏は、鎌倉時代の終わりごろに、大朝本庄(北広島町大朝)に地頭として入り、室町時代には安芸国の北部を中心とする地域を治める国人領主に成長します。その後戦国時代には周防国の大内氏と出雲国の尼子氏との間に立たされましたが、毛利元就の次男である元春を当主として迎えることにより毛利体制に入ります。
【写真左】配置図
右方が北を示す。
吉川元春は弟の小早川隆景とともに毛利氏を補佐し、おもに山陰攻略に貢献します。
1600年関ヶ原の戦い後、吉川氏は山口県岩国に移りますが、それまでの吉川氏に関わる遺跡が山県郡北広島町に分布しています。
そのうち、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷、万徳院跡、洞仙寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡の9遺跡が史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されており、小倉山城、万徳院跡、吉川元春館跡の3遺跡は広く一般へ活用するために整備し、歴史公園として公開しています。
北広島町教育委員会”
【写真左】門跡
東側の石積みの南北中央部に設置されている。
館建築工程の記録
当館跡については、数回にわたって遺跡調査が行われているが、そのうち平成10年(1998)5月から翌11年3月にかけて行われた「吉川元春館跡 第5次発掘調査」の概要報告書の中の文献調査によると、当館の建築工程のようすが次のように記されている。
- 天正11年(1583) 冬、工事着手
- 同12年 2月初旬、土地造成がある程度終わり、作事工事に移る。 桜の植えられた庭の整備。
- 同年 4~5月、家臣の掌握する番匠を雇って急ピッチの工事
- 同年 6月以前、元春夫妻の居所、衣服用の倉の完成
- 天正13年(1585) 5月以前、「ついし」=石垣の工事開始
- 同年 5月、石材不足、石の採取、運搬、館の背後に「山芝」の設置、その付近に塗り蔵の建設(「くらぬり」)。
- 同年 閏8月末、和浪の鍛冶が雇われ工事に加わる。
- 天正14年(1586) 9月、会所の建築。
- 同年 11月、元春没
- 天正15年(1587) 6月、元長没。経言(広家)家督相続。
- 天正16年(1588) 広家の結婚に当たり、「吉野原普請」。
- 天正19年(1591) 3月、広家、豊臣秀吉から出雲月山富田城居城を指示される。
- 同年 5月、「土居」に海応寺建立が決まる。寺領5町。
- 慶長5年(1600) 10月、毛利氏の防長移封が決まる。
- 同年 11月、周防における「広家領地」が打渡される。
【写真左】主殿舎跡
殿舎跡は敷地内に併せて4か所あり、これはそのうち最も大きなものである。
吉川元春
さて、吉川元春についてはこれまで度々紹介してきているが、毛利氏の山陰攻めの中心として活躍したのが元春である。対して、弟の小早川隆景は主として、南方の瀬戸内方面を担当した。
享禄3年(1530)、元就の次男として安芸吉田城に生まれた。同じ年に生まれた戦国武将としては、越後の上杉謙信や、豊後のキリシタン大名・大友宗麟らがいる。
天文16年(1547)、元春17歳のとき、母方の従兄となる吉川興経の養子となったが、これは最初から元就による吉川家乗っ取りの計画があったといわれている。事実、興経の子で幼年であった千法師を元春の養子とし、成長後に再び吉川家の当主とする約束をしておきながら、のちに興経と千法師を殺害してしまう。
【写真左】番所跡
門跡の南には通用口が別に設けられているが、この坂をあがったところにある。
出入りの監視をしているところだったのだろう。
元就が吉川興経に対して、このような処置をとった理由の一つは、天文12年(1543)の大内義隆軍による月山富田城攻めの際、大内軍が大敗することになるが、大内軍が背走している最中、従軍していた吉川興経は、同じく大内方に属していた三刀屋久扶らと一緒に突如、尼子方に寝返った。
元就にとってよほどこのことが終生忘れられなかったとみえ、三刀屋氏の場合も、毛利氏に属したものの、輝元の時代になっても不遇な扱いをされることになる。
ただ、三刀屋氏の場合は後に元春の計らいによって、当地大朝に預けられることになるが…。
【写真左】復元された台所・その1
番所の南には台所があり、現地には復元された建物がある。
【写真左】復元された台所・その2
土間にはカマドが造られ、料理のための板敷間も見える。
さて、元春の活躍については他の史料でも紹介されているので、詳細は省くが、元春館の建築途中、すなわち隠居した最晩年の天正14年(1586)、秀吉の九州征伐の際も病をおして参加している。
一説ではすでにこのころ癌に侵されていたといわれ、出征先の豊前小倉城で没した。享年57歳。
【写真左】館跡全景
西側から見たもので、右に台所があり、中央が門跡になる。
なお、写真にはないが、北西部には庭園跡が残る。
館跡から出土したものなど
2回目に訪れた昨年の6月、館跡の北側に「戦国の庭 歴史館」という資料館が建てられていた。入館したところ、客が管理人の我々二人だったこともあり、係の方にご親切に出土した主だった収蔵品などについて、説明をしていただいた。
出土物としては、輸入陶磁器・国産陶器、木製品、石製品、建築部材等がある。
この中で、特に印象に残ったものとしては、次のようなものが挙げられる。
- 下駄 この館に住んでいたであろう女・子供が履いていたもので、大人用でもかなり小さいもサイズのものが多い。
- 桶(結桶) 元々は食糧の保存・運搬用に造られたものだが、当館跡からは、その役目を終えた桶が、便槽用のものとして再利用されていたという。いまでいうリサイクルである。
- 便槽から出たもの 上記の便槽から出土したものとしては、便の中に残っていた木の実の種や、動物性の骨などがあったという。この中で、驚いたのが、「鶴」を食べていたということである。いまでは考えらないことだが、当時「ハレ」の時、すなわち目出度い催しや、重要な客人を招いた時など、そうしたメニューが出たようだ。また、山間部であるにも関わらず、海の幸が予想以上に料理として出されていたという。これは、石見の益田藤兼が元春と縁戚関係にあったことから、度々往来があり、石見からこうした海産物など貢物があったからといわれる。
【写真左】海応寺跡
館跡の西側に残るもので、南接して吉川元春・元長及び夭逝した末子のものと思われる墓がある。
【写真左】吉川氏の墓・その1
現地の説明板より
“史跡 吉川氏城館跡(昭和61年8月28日指定)
吉川元春の墓
吉川元春は1586年(天正14)豊臣秀吉の要請により九州の小倉へ進攻したときに57歳で病没した。遺骸をこの地に帰し葬送し、随浪院殿前駿州太守四品海翁正恵大居士と号す。
又、左に隣接しているのは、元春の長男元長の墓で、1587年(天正15)に宮崎県日向において40歳で病死したものである。
元春に同じくこの地で葬送し萬徳院殿前禮部中翁空山大居士と号す。
【写真左】吉川氏の墓・その2
【写真左】吉川氏の墓・その3
なお、右に離れている墓標は、元春の四男で早逝した禅岑法師の墓といわれているが定かでない。
吉川家が岩国に移封された後は、一時期荒廃したが、1827年(文政10)に修復され、玉垣・石塔ができた。さらに1908年(明治41)の進賞、追贈に際し改修が行われ現在に至っている。
昭和60年2月1日
広島県教育委員会
豊平町教育委員会”
【写真左】資料館「戦国の庭 歴史館」の建物
吉川氏関係のものが集められている。
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