馬来氏と真木氏(まきし と まきし)
◆解説
前稿まで夕景城を中心とした馬来氏について触れてきたが、この馬来氏が尼子経久の母の実家であったという話について、少し述べてみたい。
【写真左】旧馬木郷
金言寺附近から北方に馬木の棚田を見る。
現在、この馬来地区は全国ブランドとなった『仁多米』が多くつくられている。
尼子経久の母の実家とする真木氏
小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)で紹介した説明板には、
“出雲私史によると尼子経久の生母は、この地馬木の出身であると謳われている 。”
とあり、またその出自については
「清和源氏新田義重流山名氏の分かれといわれている」
と記されている。
経久が生まれたのは、長禄2年(1458)12月25日といわれる。父は清貞(清定)で、母は真木朝親の娘となっている。
この頃の出雲守護職は、京極持清で清貞の清は、この守護職であった持清から偏諱を受けて名乗ったものである。経久が生まれてから9年後の応仁元年(1467)、未曽有の大乱「応仁の乱」が勃発、出雲守護職京極持清は、東軍方細川勝元へ、石見守護職山名政清は西軍方山名宗全へ与した。
【写真左】馬来氏の居城・夕景城遠望
このことから、清貞に経久の母が嫁いだのは、少なくとも長禄2年以前となる。このころ、守護職であった京極持清は守護職として国内の領主に対し多くの所領安堵などを行っている。
直近の主な事績を拾ってみると、以下のようなものがある。
これらの動きを見ると、尼子経久の父清貞が馬木郷の馬来氏とこの時期接点を持つ機会がなく、むしろ馬木郷を含めた横田庄は三沢氏の勢力拡大が目立ってくる。
宇波の真木氏
こうしたことから、地元郷土史家の高橋一郎氏は次のように結論づけている(「『奥出雲横田とたたら』5.奈良・平安時代と横田庄の出現 横田の古い家8氏」より)。
“明治初年に執筆された「出雲私史」には、尼子経久の母の真木氏は仁多郡馬木村の住人としてあるが、ここの住人土豪武士は馬来氏で系図も明らかである。真木氏は富田城に近い能義郡宇波村の馬木氏である。”
【写真左】宇波城跡
所在地 島根県安来市広瀬町宇波
別名「土居城」ともいう。
宇波の真木氏については、拙稿宇波城(うなみ)跡・島根県安来市広瀬町宇波で紹介しているが、正中2年(1325)三村十郎朝貞が当地に宇波城を築城し、10代真木上野介朝貞の娘が尼子清貞に嫁いだ。
始祖である三村姓がいつから真木姓に替わったのか不明だが、上野介朝親(経久の母の実弟)は、文明18年(1486)の尼子経久が富田城を奪還する際、最大の功労者といわれている。
【写真左】宇波城遠望
また、元亀元年(1570)尼子再興軍が布部山で毛利軍と戦ったとき、13代惣右衛門高経の子・与一は激戦の果て討死した。
【写真左】宇波地区
◆解説
前稿まで夕景城を中心とした馬来氏について触れてきたが、この馬来氏が尼子経久の母の実家であったという話について、少し述べてみたい。
【写真左】旧馬木郷
金言寺附近から北方に馬木の棚田を見る。
現在、この馬来地区は全国ブランドとなった『仁多米』が多くつくられている。
尼子経久の母の実家とする真木氏
小林城(島根県仁多郡奥出雲町小馬木城山)で紹介した説明板には、
“出雲私史によると尼子経久の生母は、この地馬木の出身であると謳われている 。”
とあり、またその出自については
「清和源氏新田義重流山名氏の分かれといわれている」
と記されている。
経久が生まれたのは、長禄2年(1458)12月25日といわれる。父は清貞(清定)で、母は真木朝親の娘となっている。
この頃の出雲守護職は、京極持清で清貞の清は、この守護職であった持清から偏諱を受けて名乗ったものである。経久が生まれてから9年後の応仁元年(1467)、未曽有の大乱「応仁の乱」が勃発、出雲守護職京極持清は、東軍方細川勝元へ、石見守護職山名政清は西軍方山名宗全へ与した。
【写真左】馬来氏の居城・夕景城遠望
このことから、清貞に経久の母が嫁いだのは、少なくとも長禄2年以前となる。このころ、守護職であった京極持清は守護職として国内の領主に対し多くの所領安堵などを行っている。
直近の主な事績を拾ってみると、以下のようなものがある。
- 宝徳2年(1450)11月13日 出雲国守護・京極持清、牛尾忠実に出雲国荻原総領分内の田地・屋敷を安堵する(「日御碕神社文書」)。
- 享徳元年(1452)4月10日 出雲守護・京極持清、三刀屋助五郎に三刀屋郷地頭職を安堵する(「三刀屋文書」)。
- 同年11月15日 京極持清、杵築大社に同社領揖屋庄の侍所職・段銭を寄進し、先例にならい臨時課役を免除する(「出雲大社文書」)。
- 享徳2年(1453)8月9日 出雲国守護・京極持清、神魂社領の守護役・郡検断を免除する(「秋上文書」)。
- 長禄元年(1457) 杠氏相続について三沢氏仲裁を行う。
- 文明8年(1476) 馬場八幡宮へ地頭飯島左京亮為忠(三沢遠江守)寄進(棟札)、三沢代官中村右馬亮為磐、大催職を安堵する(杠文書)。
これらの動きを見ると、尼子経久の父清貞が馬木郷の馬来氏とこの時期接点を持つ機会がなく、むしろ馬木郷を含めた横田庄は三沢氏の勢力拡大が目立ってくる。
宇波の真木氏
こうしたことから、地元郷土史家の高橋一郎氏は次のように結論づけている(「『奥出雲横田とたたら』5.奈良・平安時代と横田庄の出現 横田の古い家8氏」より)。
“明治初年に執筆された「出雲私史」には、尼子経久の母の真木氏は仁多郡馬木村の住人としてあるが、ここの住人土豪武士は馬来氏で系図も明らかである。真木氏は富田城に近い能義郡宇波村の馬木氏である。”
【写真左】宇波城跡
所在地 島根県安来市広瀬町宇波
別名「土居城」ともいう。
宇波の真木氏については、拙稿宇波城(うなみ)跡・島根県安来市広瀬町宇波で紹介しているが、正中2年(1325)三村十郎朝貞が当地に宇波城を築城し、10代真木上野介朝貞の娘が尼子清貞に嫁いだ。
始祖である三村姓がいつから真木姓に替わったのか不明だが、上野介朝親(経久の母の実弟)は、文明18年(1486)の尼子経久が富田城を奪還する際、最大の功労者といわれている。
【写真左】宇波城遠望
また、元亀元年(1570)尼子再興軍が布部山で毛利軍と戦ったとき、13代惣右衛門高経の子・与一は激戦の果て討死した。
【写真左】宇波地区
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