備前・明見山城(びぜん・みょうけんやまじょう)
●所在地 岡山県岡山市北区三野本町 三野公園
●別名 妙見山城・鑵子の釣城・釣城
●高さ 60m(比高50m)
●築城期 不明(天文年間以前か)
●築城者 須々木氏
●城主 須々木四郎兵衛
●備考 三野公園
●登城日 2016年10月26日
●所在地 岡山県岡山市北区三野本町 三野公園
●別名 妙見山城・鑵子の釣城・釣城
●高さ 60m(比高50m)
●築城期 不明(天文年間以前か)
●築城者 須々木氏
●城主 須々木四郎兵衛
●備考 三野公園
●登城日 2016年10月26日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
備前・明見山城(以下「明見山城」とする。)は、前稿備前・船山城(岡山県岡山市北区原) の支城として、須々木氏一族が居城とした丘城である。
所在地は船山城から旭川沿いに南に2キロ余り降った三野本町の独立丘陵に築かれている。
【写真左】明見山城遠望
南側の道路から見たもの。右側には旭川が流れる。
須々木四郎兵衛
明見山城の築城期は不明だが、本城の船山城とほぼ同時期には構築されていたと考えられる。当城の城主として記録が残るのは、船山城主であった須々木豊前の子・四郎兵衛が在城していたとされ、前稿でも述べたように、永禄10年(1567)の明禅寺合戦後に、宇喜多直家に城と領地を没収されたと伝わる。
【写真左】登城口に設置された「三野公園」の看板
登城口は上の写真の道路(27号線)を進んでいくと、左側に御覧の看板があり、そこから入っていく。
縄張
当城は現在三野公園という施設に改変されているが、遺構としては、独立丘陵の南東側頂部を本丸とした郭や、一段下がった腰郭などはその面影を残している。
『日本城郭体系 第13巻』では、各郭基礎地形が土壇筑成となっており、掘立柱の建物、櫓、柵などを主体とした上部構造物から成り立っていることから、居館的山城と推定されるとしている。
なお、下段の写真でも指摘しているように、城域は尾根南側の公園部分となっているが、北側奥に祀られている天神社周辺部も数段の帯郭状の遺構が残っていることから、この付近も当時は北方を扼する櫓などがあった可能性もある。
所在地は船山城から旭川沿いに南に2キロ余り降った三野本町の独立丘陵に築かれている。
【写真左】明見山城遠望
南側の道路から見たもの。右側には旭川が流れる。
須々木四郎兵衛
明見山城の築城期は不明だが、本城の船山城とほぼ同時期には構築されていたと考えられる。当城の城主として記録が残るのは、船山城主であった須々木豊前の子・四郎兵衛が在城していたとされ、前稿でも述べたように、永禄10年(1567)の明禅寺合戦後に、宇喜多直家に城と領地を没収されたと伝わる。
【写真左】登城口に設置された「三野公園」の看板
登城口は上の写真の道路(27号線)を進んでいくと、左側に御覧の看板があり、そこから入っていく。
縄張
当城は現在三野公園という施設に改変されているが、遺構としては、独立丘陵の南東側頂部を本丸とした郭や、一段下がった腰郭などはその面影を残している。
『日本城郭体系 第13巻』では、各郭基礎地形が土壇筑成となっており、掘立柱の建物、櫓、柵などを主体とした上部構造物から成り立っていることから、居館的山城と推定されるとしている。
なお、下段の写真でも指摘しているように、城域は尾根南側の公園部分となっているが、北側奥に祀られている天神社周辺部も数段の帯郭状の遺構が残っていることから、この付近も当時は北方を扼する櫓などがあった可能性もある。
【写真左】登城道
御覧のように、南側は急傾斜となっているため、何度も屈曲する九十九折りの道となっている。
鑵子の渡し場
ところで、明見山城の東麓足下を旭川が流れているが、当時この付近には「鑵子(かんす)の渡し場」というところがあり、須々木氏はこの個所の権益すなわち、渡河等の許可権を持っていた。
このため、当城は別名・鑵子の釣城とか、釣城とも呼ばれた。
戦国末期に至ると、宇喜多直家が岡山城を築き、城内に引水を導く計画を立てるが、このころ旭川は度々氾濫を来したため、江戸時代になると、この渡し場付近から百閒川という人工的な放水路を新たに東側から分岐させ、直接瀬戸内海(児島湾)に流している。
こうしたことから、明見山城における須々木氏の役目は、前記した権益も含め、堰を主体とする水利や、治水など旭川中流域の疎水全般に関わるものが多かったものとみられる。
【写真左】この階段を登る。
九十九折りの道も途中からは緩やかな坂道となり、そのまま進めば本丸(公園)までたどり着けるが、途中で近道となるこの直線階段があり、これを使った。
以前はこの程度は一気に登れたが、だんだんと休憩回数が増えてきた。年には勝てない。
【写真左】帯郭
登りきるとやがて整備された公園がでてくる。
左が本丸側で、下のこの個所が帯郭。
【写真左】本丸
公園として造成する前の状況は分からないが、かなり広い規模だ。
【写真左】本丸から北側を見る。
本丸の北端部の先には、2m程度下がった段がある。腰郭というより二の丸といった方が相応しい大きさだ。
【写真左】小合金光翁の石碑
三野公園設立に尽力した地元岡山市議会議員の小合金光氏の顕彰碑。
戦前から桜の名勝地であったらしい。
このほか北側中央部奥には「岡山縣十勝地」と刻銘された石碑が建立されている。
これは戦前の昭和10年頃、当時の山陽新報社が募集して県下の景勝地・史跡などを投票によって決めたものだという。
この中には、城郭としては笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町) 、備中・福山城(岡山県総社市清音三因) などがランクインしている。
【写真左】下の段
本丸と並行して南北に走る郭
このあと、北側の天神社の方へ向かう。
【写真左】参道
明見山城から一旦西側の道を少し下り、改めて北に向かう道で、すでに参道の一部となっている。
【写真左】天神社
手前の楼門を潜ると、天神社の社殿が正面に鎮座している。
【写真左】境内東側
奥に本殿が見えるが、この部分が当該丘陵(明見山)の中で最高所となるので、先述したように、北を扼する櫓的機能があったのかもしれない。
【写真左】磐座か
奥には注連縄が掛かった岩がある。磐座(いわくら)と思われる。
【写真左】「明見宮」の鳥居
下山は別の道を選んだが、終点近くに鳥居があったので見上げたところ、額束に「明見宮」とあった。
本殿が天神社で、入口が明見宮となっていることから途中で主祭神も変更になったのかもしれない。
御覧のように、南側は急傾斜となっているため、何度も屈曲する九十九折りの道となっている。
鑵子の渡し場
ところで、明見山城の東麓足下を旭川が流れているが、当時この付近には「鑵子(かんす)の渡し場」というところがあり、須々木氏はこの個所の権益すなわち、渡河等の許可権を持っていた。
このため、当城は別名・鑵子の釣城とか、釣城とも呼ばれた。
戦国末期に至ると、宇喜多直家が岡山城を築き、城内に引水を導く計画を立てるが、このころ旭川は度々氾濫を来したため、江戸時代になると、この渡し場付近から百閒川という人工的な放水路を新たに東側から分岐させ、直接瀬戸内海(児島湾)に流している。
こうしたことから、明見山城における須々木氏の役目は、前記した権益も含め、堰を主体とする水利や、治水など旭川中流域の疎水全般に関わるものが多かったものとみられる。
【写真左】この階段を登る。
九十九折りの道も途中からは緩やかな坂道となり、そのまま進めば本丸(公園)までたどり着けるが、途中で近道となるこの直線階段があり、これを使った。
以前はこの程度は一気に登れたが、だんだんと休憩回数が増えてきた。年には勝てない。
【写真左】帯郭
登りきるとやがて整備された公園がでてくる。
左が本丸側で、下のこの個所が帯郭。
【写真左】本丸
公園として造成する前の状況は分からないが、かなり広い規模だ。
【写真左】本丸から北側を見る。
本丸の北端部の先には、2m程度下がった段がある。腰郭というより二の丸といった方が相応しい大きさだ。
【写真左】小合金光翁の石碑
三野公園設立に尽力した地元岡山市議会議員の小合金光氏の顕彰碑。
戦前から桜の名勝地であったらしい。
このほか北側中央部奥には「岡山縣十勝地」と刻銘された石碑が建立されている。
これは戦前の昭和10年頃、当時の山陽新報社が募集して県下の景勝地・史跡などを投票によって決めたものだという。
この中には、城郭としては笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町) 、備中・福山城(岡山県総社市清音三因) などがランクインしている。
【写真左】下の段
本丸と並行して南北に走る郭
このあと、北側の天神社の方へ向かう。
【写真左】参道
明見山城から一旦西側の道を少し下り、改めて北に向かう道で、すでに参道の一部となっている。
【写真左】天神社
手前の楼門を潜ると、天神社の社殿が正面に鎮座している。
【写真左】境内東側
奥に本殿が見えるが、この部分が当該丘陵(明見山)の中で最高所となるので、先述したように、北を扼する櫓的機能があったのかもしれない。
【写真左】磐座か
奥には注連縄が掛かった岩がある。磐座(いわくら)と思われる。
【写真左】「明見宮」の鳥居
下山は別の道を選んだが、終点近くに鳥居があったので見上げたところ、額束に「明見宮」とあった。
本殿が天神社で、入口が明見宮となっていることから途中で主祭神も変更になったのかもしれない。
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