鶴居城(つるいじょう)
●所在地 兵庫県神崎郡市川町鶴居
●別名 稲荷山城、永良山城、残要の城
●高さ H:433m(300m)
●築城期 南北朝後半期
●築城者 永良三郎則綱(赤松円心孫)
●城主 赤松氏、山名氏、広瀬近江守雅親
●遺構 郭・堀切・竪堀・石垣等
●登城日 2016年4月9日
◆解説(参考資料 『しそうSNS』等)
鶴居城が所在する市川町は兵庫県の中央部にあって、地名と同名の二級河川・市川が北から南に下り、播磨灘に注ぐ。市川と並行して走るのが但馬街道(生野街道)で、ほぼ同じコースをJR播但線が通り、さらに現在は播但連絡道路という高規格道路が同じく併設され、中国自動車道と山陽自動車道を繋ぐ。
鶴居城はこの市川町にあるJR鶴居駅から北西におよそ2キロほど向かった稲荷山に築かれている。
【写真左】鶴居城遠望
西側から見たもので、こちら側から見ると独立した山容に見えるが、実際には北西側から延びる尾根の先端部に築かれている。
現地の説明版より
❝稲荷山城
稲荷山城は標高433m稲荷山山頂にあり、東西14m、 南北31m、周囲約85m。その北側・南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫・永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
【写真左】麓にある案内版
登城道は「南コース」と「北コース」の二つがあるが、距離は少し長くなるが、「北コース」が負担が少ないため、こちらを選んだ。
赤松氏は嘉吉の乱(1441年)のあと、但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久2年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
その後、赤松政則は応仁の乱に失地を回復し、守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄3年(1560)討死したといわれています。
同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えらえれます。
鶴居歴史研究会❞
【写真左】登城口の門
登城口には「鶴居城山城址の会 平成21年度里山ふれあい森づくり(住民参画型)」と書かれた門が設置されている。
なお、この市川付近も含めた但馬街道は生野銀山を起点とした「銀の馬車道」でもあり、そのイラストも添えてある。
永良三郎則綱
鶴居城の築城者は赤松則村の孫・永良三郎則綱といわれる。赤松 則村、すなわち赤松円心についてはすでに白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松) 、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)などで度々とり上げているので詳細は省くが、赤松氏4代当主で、もともと六波羅探題の家臣であったとされ、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕時には逆に反幕府方として活躍し、その功によって播磨守護となり、建武の新政後は足利尊氏に与した。
【写真左】このあたりから郭段が見え始める。
登城道は前半緩い坂道で、後半から九十九折れとなり、次第に傾斜がついてくる。写真は頂上までおよそ300mとなったあたりの場所。
さて、鶴居城の築城者である永良三郎則綱だが、円心の孫であることから、その父は円心の子となる。これまで円心の子としては、次の面々が知られる。
途中から尾根筋にたどり着くが、そこから中小の細長い郭段が続く。
広瀬近江守雅親
さて、上掲した説明板では永禄3年、鶴居城の城主で谷城主も兼ねていた広瀬近江守雅親が討死したとある。そして谷城も永禄年間(1558~1570)に落城したとされている。
この広瀬氏は赤松氏の一族で、5代当主・範資の四男師頼を始祖とする。範資の跡を継いだ6代当主は三男則祐であるが、則祐が播磨守護となったとき、宍粟郡周辺を任せるため、兄範資の四男師頼を長水城の城主に任じ、広瀬氏を名乗った。
【写真左】南北登城道の合流点
反対側のコース(南)の整備状況は分からないが、当時は大手道だった可能性がある。
広瀬氏はその後の継嗣で赤松惣領家から養嗣子則親を迎え、満親と繋いだ。しかし、この滿親の代に赤松宗家であった満祐が京都で将軍足利義政を殺害、世にいう「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年6月24日)が勃発した。この乱において、幕府軍からの討伐を受けた赤松満祐は同年9月10日、播磨木山城にて自害、長水城城主であった広瀬氏も没落したといわれている。
【写真左】郭段
先ほどの合流点から次第に明瞭な郭段が出てくる。
写真のものは少し土塁のような遺構を残している。
しかし、今稿でとりあげた永禄年間における鶴居城の城主が、広瀬近江守雅親と記録されていることから、嘉吉の乱時に没落していた広瀬氏が潜伏後、戦国期に至って、西播磨から中播磨の神崎郡に移っていったことが推察される。
なお、嘉吉の乱後は宇野氏が代わって長水城を本拠としている(長水城についてはいずれ別稿で取り上げたい)。
【写真左】石積・その1
写真奥には、連続する郭段の切岸部に石積の一部が見える。
赤松晴政(政村)
ところで、永正17年(1520)から永禄年間ごろ(~1565)までの赤松氏当主は、第11代の晴政である。晴政については、(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)の稿でも述べたが、 彼の父義村は美作の守護代であった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照) との抗争に敗れ、晴政はわずか8歳のとき、家督を継いだ。
晴政はこのため一時的に浦上氏と和睦を結ぶが、これは依然として但馬をはじめ播磨の北部を窺う山名氏の脅威があったためである。しかし、山名氏の勢力が衰えると再び浦上氏と争った。
【写真左】石積・その2
さきほどの石積より明瞭に残っているもので、主郭直近に残るもの。
この後いよいよ主郭が姿を現す。
享禄4年(1531)、管領細川高国は細川晴元を攻めるため、浦上村宗を摂津国に侵攻させた。この時、晴政は村宗の後詰めとして参戦している。しかしこれは晴政による表向きの態度で、裏では晴元と画策を図り、高国及び村宗を挟み撃ちにし、村宗を戦死させ、その後高国も自害に追い込んだ(播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)参照)。
【写真右】浦上村宗の墓
所在地 岡山県備前市木谷
村宗は享禄4年(1531)6月4日、摂津天王寺で戦死。その後嫡子政宗等が遺体を収めて帰国し、当地木谷に葬ったといわれている。
参拝日 2018年9月19日
ところで、出雲の尼子氏が播磨国に関わりを持ち出すきっかけとなったのが、大永7年(1527)京都桂川で柳本賢治・三好元長らに敗れ、越前の朝倉氏などを頼り、享禄2年(1529)9月16日に越前から出雲国に入った細川高国による支援要請からである。
【写真左】本丸・その1
南北に延びる尾根頂部に楕円形の削平地を持つもので、眺望はすこぶる良い。
天文6年(1537)12月14日、尼子晴久(詮久)は大軍を率いて播磨国に入った。 その後の動きについては少し端折るが、天文21年(1552)尼子晴久は、因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の守護職に補任される。これにより、それまで備前・美作守護職であった晴政は2国を失った。
こののち、赤松氏の凋落ぶりは雪崩を打ったように落ちていくことになる。特に永禄元年(1558)8月に起こった重臣・小寺政職(まさもと)(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照) による晴政嫡男の義祐を担いだ奇襲により追放されると、晴政は娘婿の赤松政秀のもとにに逃れた。文字通り赤松家の分裂である。
鶴居城における広瀬雅親の討死及び、その支城とされる谷城もこのころ落城しているが、これらも赤松惣領家分裂に端を発し、さらに別所氏(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)などが攻略したことも起因に挙げられるだろう。
●所在地 兵庫県神崎郡市川町鶴居
●別名 稲荷山城、永良山城、残要の城
●高さ H:433m(300m)
●築城期 南北朝後半期
●築城者 永良三郎則綱(赤松円心孫)
●城主 赤松氏、山名氏、広瀬近江守雅親
●遺構 郭・堀切・竪堀・石垣等
●登城日 2016年4月9日
◆解説(参考資料 『しそうSNS』等)
鶴居城が所在する市川町は兵庫県の中央部にあって、地名と同名の二級河川・市川が北から南に下り、播磨灘に注ぐ。市川と並行して走るのが但馬街道(生野街道)で、ほぼ同じコースをJR播但線が通り、さらに現在は播但連絡道路という高規格道路が同じく併設され、中国自動車道と山陽自動車道を繋ぐ。
鶴居城はこの市川町にあるJR鶴居駅から北西におよそ2キロほど向かった稲荷山に築かれている。
【写真左】鶴居城遠望
西側から見たもので、こちら側から見ると独立した山容に見えるが、実際には北西側から延びる尾根の先端部に築かれている。
現地の説明版より
❝稲荷山城
稲荷山城は標高433m稲荷山山頂にあり、東西14m、 南北31m、周囲約85m。その北側・南側にはいくつもの平坦地、石積跡・土留めなども見られます。古老の話では井戸もあったそうです。
城は南北朝後半、赤松則村(円心)の孫・永良三郎則綱がここに城を築き居城としたのが始まりで、その子・孫と受け継ぎ播磨の北の要地とされていました。
【写真左】麓にある案内版
登城道は「南コース」と「北コース」の二つがあるが、距離は少し長くなるが、「北コース」が負担が少ないため、こちらを選んだ。
赤松氏は嘉吉の乱(1441年)のあと、但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長久2年(1488)赤松政則が播磨をとりかえすまでの45年の間、山名氏の支配のもとにおかれました。
その後、赤松政則は応仁の乱に失地を回復し、守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていましたが、永禄3年(1560)討死したといわれています。
同じく谷城は、永禄のころ(1558~1570)戦火により消失廃城とあり、両城とも同じ運命を辿ったと考えらえれます。
鶴居歴史研究会❞
【写真左】登城口の門
登城口には「鶴居城山城址の会 平成21年度里山ふれあい森づくり(住民参画型)」と書かれた門が設置されている。
なお、この市川付近も含めた但馬街道は生野銀山を起点とした「銀の馬車道」でもあり、そのイラストも添えてある。
永良三郎則綱
鶴居城の築城者は赤松則村の孫・永良三郎則綱といわれる。赤松 則村、すなわち赤松円心についてはすでに白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松) 、置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)などで度々とり上げているので詳細は省くが、赤松氏4代当主で、もともと六波羅探題の家臣であったとされ、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕時には逆に反幕府方として活躍し、その功によって播磨守護となり、建武の新政後は足利尊氏に与した。
【写真左】このあたりから郭段が見え始める。
登城道は前半緩い坂道で、後半から九十九折れとなり、次第に傾斜がついてくる。写真は頂上までおよそ300mとなったあたりの場所。
さて、鶴居城の築城者である永良三郎則綱だが、円心の孫であることから、その父は円心の子となる。これまで円心の子としては、次の面々が知られる。
- 長男・範資(のりすけ) 5代当主 摂津国・播磨国守護
- 次男・貞範(さだのり) 美作国守護
- 三男・則祐(のりすけ) 6代当主 室町幕府禅律方、播磨国・備前国・摂津国守護
- 四男・氏範(うじのり) 上記3人の兄弟とは不仲で、南朝方に与し、播磨清水寺にて自害。(下段の写真参照)
【写真右】赤松氏範の墓
所在地 兵庫県加東市平木 播州清水寺
赤松氏範弾正少弼 法名 本光院荘覺道成
永徳3年9月(南朝弘和3年)(1386年)
参拝日 2015年10月17日
墓所入口付近には昭和6年9月2日に建立された石碑があり、「南朝忠臣赤松氏範父子並一族憤死…」と筆耕されている。
このうち長男範資には、8人の子があり、則綱は八男になる。因みに範資の他の子としては、三男・師頼が在田氏(播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷) の祖となり、五男・範隆が葉山氏の祖となり、摂津国戸賀庄の地頭となった。また、七男・則広は佐用郡広岡郷に入り、広岡氏の祖となった。
則綱は民部大輔を称し、当時永良庄といわれた市川町に入り、永良氏を名乗った。則綱の孫・泰秀は、次稿に予定している鶴居城から南へ2キロほど下った谷地区に谷城を築いたといわれる。また泰秀は、併せて当城(鶴居城)を拾一城(豊池城)に移すが、こののちも鶴居城に城代を置いていた。
【写真左】本丸が見えてきた。所在地 兵庫県加東市平木 播州清水寺
赤松氏範弾正少弼 法名 本光院荘覺道成
永徳3年9月(南朝弘和3年)(1386年)
参拝日 2015年10月17日
墓所入口付近には昭和6年9月2日に建立された石碑があり、「南朝忠臣赤松氏範父子並一族憤死…」と筆耕されている。
このうち長男範資には、8人の子があり、則綱は八男になる。因みに範資の他の子としては、三男・師頼が在田氏(播磨・河内城(兵庫県加西市河内町西谷) の祖となり、五男・範隆が葉山氏の祖となり、摂津国戸賀庄の地頭となった。また、七男・則広は佐用郡広岡郷に入り、広岡氏の祖となった。
則綱は民部大輔を称し、当時永良庄といわれた市川町に入り、永良氏を名乗った。則綱の孫・泰秀は、次稿に予定している鶴居城から南へ2キロほど下った谷地区に谷城を築いたといわれる。また泰秀は、併せて当城(鶴居城)を拾一城(豊池城)に移すが、こののちも鶴居城に城代を置いていた。
途中から尾根筋にたどり着くが、そこから中小の細長い郭段が続く。
広瀬近江守雅親
さて、上掲した説明板では永禄3年、鶴居城の城主で谷城主も兼ねていた広瀬近江守雅親が討死したとある。そして谷城も永禄年間(1558~1570)に落城したとされている。
この広瀬氏は赤松氏の一族で、5代当主・範資の四男師頼を始祖とする。範資の跡を継いだ6代当主は三男則祐であるが、則祐が播磨守護となったとき、宍粟郡周辺を任せるため、兄範資の四男師頼を長水城の城主に任じ、広瀬氏を名乗った。
【写真左】南北登城道の合流点
反対側のコース(南)の整備状況は分からないが、当時は大手道だった可能性がある。
広瀬氏はその後の継嗣で赤松惣領家から養嗣子則親を迎え、満親と繋いだ。しかし、この滿親の代に赤松宗家であった満祐が京都で将軍足利義政を殺害、世にいう「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年6月24日)が勃発した。この乱において、幕府軍からの討伐を受けた赤松満祐は同年9月10日、播磨木山城にて自害、長水城城主であった広瀬氏も没落したといわれている。
【写真左】郭段
先ほどの合流点から次第に明瞭な郭段が出てくる。
写真のものは少し土塁のような遺構を残している。
しかし、今稿でとりあげた永禄年間における鶴居城の城主が、広瀬近江守雅親と記録されていることから、嘉吉の乱時に没落していた広瀬氏が潜伏後、戦国期に至って、西播磨から中播磨の神崎郡に移っていったことが推察される。
なお、嘉吉の乱後は宇野氏が代わって長水城を本拠としている(長水城についてはいずれ別稿で取り上げたい)。
【写真左】石積・その1
写真奥には、連続する郭段の切岸部に石積の一部が見える。
赤松晴政(政村)
ところで、永正17年(1520)から永禄年間ごろ(~1565)までの赤松氏当主は、第11代の晴政である。晴政については、(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)の稿でも述べたが、 彼の父義村は美作の守護代であった浦上村宗(三石城(岡山県備前市三石)参照) との抗争に敗れ、晴政はわずか8歳のとき、家督を継いだ。
晴政はこのため一時的に浦上氏と和睦を結ぶが、これは依然として但馬をはじめ播磨の北部を窺う山名氏の脅威があったためである。しかし、山名氏の勢力が衰えると再び浦上氏と争った。
【写真左】石積・その2
さきほどの石積より明瞭に残っているもので、主郭直近に残るもの。
この後いよいよ主郭が姿を現す。
享禄4年(1531)、管領細川高国は細川晴元を攻めるため、浦上村宗を摂津国に侵攻させた。この時、晴政は村宗の後詰めとして参戦している。しかしこれは晴政による表向きの態度で、裏では晴元と画策を図り、高国及び村宗を挟み撃ちにし、村宗を戦死させ、その後高国も自害に追い込んだ(播磨・小谷城(兵庫県加西市北条町小谷字城山)参照)。
【写真右】浦上村宗の墓
所在地 岡山県備前市木谷
村宗は享禄4年(1531)6月4日、摂津天王寺で戦死。その後嫡子政宗等が遺体を収めて帰国し、当地木谷に葬ったといわれている。
参拝日 2018年9月19日
ところで、出雲の尼子氏が播磨国に関わりを持ち出すきっかけとなったのが、大永7年(1527)京都桂川で柳本賢治・三好元長らに敗れ、越前の朝倉氏などを頼り、享禄2年(1529)9月16日に越前から出雲国に入った細川高国による支援要請からである。
【写真左】本丸・その1
南北に延びる尾根頂部に楕円形の削平地を持つもので、眺望はすこぶる良い。
天文6年(1537)12月14日、尼子晴久(詮久)は大軍を率いて播磨国に入った。 その後の動きについては少し端折るが、天文21年(1552)尼子晴久は、因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作の守護職に補任される。これにより、それまで備前・美作守護職であった晴政は2国を失った。
こののち、赤松氏の凋落ぶりは雪崩を打ったように落ちていくことになる。特に永禄元年(1558)8月に起こった重臣・小寺政職(まさもと)(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照) による晴政嫡男の義祐を担いだ奇襲により追放されると、晴政は娘婿の赤松政秀のもとにに逃れた。文字通り赤松家の分裂である。
鶴居城における広瀬雅親の討死及び、その支城とされる谷城もこのころ落城しているが、これらも赤松惣領家分裂に端を発し、さらに別所氏(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)などが攻略したことも起因に挙げられるだろう。
【写真左】本丸・その2
地元の団体「鶴居城山城址の会」によって設置された看板。
【写真左】本丸・その3 北端部に当たる箇所。
【写真左】本丸北の郭
最高所の本丸から北に少し下がると郭が残る。さらにその先に向かう。
【写真左】堀切
少し進むと堀切がある。またこの尾根筋には二条程度の竪堀も付随している。
【写真左】本丸から谷城及び飯盛山城を俯瞰する。
本丸からは南に、谷城、市川を挟んで西岸には飯盛山城が見える。両城とも鶴居城の支城といわれ、次稿で紹介する予定である。
【写真左】下山後再び遠望する。
【写真左】本丸・その3 北端部に当たる箇所。
最高所の本丸から北に少し下がると郭が残る。さらにその先に向かう。
【写真左】堀切
少し進むと堀切がある。またこの尾根筋には二条程度の竪堀も付随している。
【写真左】本丸から谷城及び飯盛山城を俯瞰する。
本丸からは南に、谷城、市川を挟んで西岸には飯盛山城が見える。両城とも鶴居城の支城といわれ、次稿で紹介する予定である。
【写真左】下山後再び遠望する。
0 件のコメント:
コメントを投稿