三木城(みきじょう)
●所在地 兵庫県三木市上の丸
●登城日 2009年3月1日
●形式 平山城
●別名 金山城、別所城
●築城期 明応元年(1492)前後
●築城者 別所則治
【写真左】北側(切崖)付近より三木城本丸跡付近を見上げる。
この傾斜法面は、現在崩落を防ぐための土木施工がされており、当時の面影は残していないが、かなりの険峻さがあったものと思われる。
◆解説
現地には、複数の説明板があるが、その中から最初に当城の略歴について転載する。
“三木城跡について
三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492~1501)に築かれました。
戦国時代末、五代城主長治のとき、天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められました。秀吉は、三木城を取り囲むように30余りの付城を築き、兵糧攻めにしました。
この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)4月より1年10カ月に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名です。天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。
合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続しました。
大阪夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって、元和3年(1617)に廃城となりました。”
【写真左】現在の城跡跡の配置図
当時の場所には現在、稲荷神社、図書館、美術館、旧校舎、保育所などがあり、三木城の遺構としては、「かんかん井戸」と、忠魂碑(本丸)付近が残っている程度である。
次に、400年祭記念碑というものには、別所長治にまつわる内容が記載されている。
“四百年祭記念之碑
村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。
昭和56年5月3日
別所長治公四百年祭実行委員会
名誉会長・三木市長 大原義治 会長 鈴木信次”
【写真左】当時の三木城想像図
本丸は北方の先端部に設け、その真下には、美嚢川が流れている。おそらくこの川は堀としての機能も考えられていたと思われる。
本丸の西南部には二の丸、その東からは帯郭状の平坦地があり、この上には本丸を補助するような形で「新城」という廓状のものがあり、以下東から南にかけて廓や、櫓段を設け、さらに南東部には「宮の上の要害」という見張り場の役目を持たしたような独立峰が建っている。
◆本願寺光教(証如)と尼子氏
ところで、当地の他の説明板に少し記されているが、この三木城には出雲の尼子氏も攻め入っている。時期は天文年間である。このころ、経久も晩年ながら元気で、孫の詮久(後の晴久)も亡父・政久に代わって山陰の雄として頭角を現してきた頃である。
【写真左】西側にある稲荷神社鳥居と、階段
稲荷神社は三木城跡の中央部に建立されている。
尼子氏が備中・美作国を支配する計画は、当初からあったと思われるが、播磨、それも摂津が近い東播磨まで触手を伸ばしていることは興味深い。そのきっかけを作ったのは、本願寺光教ではなかったかと思われる。
光教(法名:証如)は、本願寺第10世で、石山本願寺を創建している。
天文5年(1536)12月17日、彼・光教は尼子詮久に品物を送り、好(よしみ)を通ずる。この後両者の交流が深まり、明くる天文6年7月、光教は経久に太刀と織物を贈る。8月には経久は石見銀山を攻略し、石見武士が次々と尼子方に属していく、まさに絶頂期である。12月8日には、今度は詮久が光教に馬代などを贈っている。
そして、同月14日にいよいよ詮久軍が播磨国に入ってくる。このとき光教は、当時の播磨国守護赤松政村の安否を問い、併せて詮久の勝利を祝したとある(証如日記)。
【写真左】三木城本丸跡付近
いろいろな建物があるが、文字通り公園となっている。このあたりは特に広く、平坦地に改変されている。
尼子詮久が最初に三木城を攻めたのは、この時で、明くる天文7年1月初旬には出雲月山富田城に帰国している。
そしてその2ヶ月後、祖父・経久が律儀に光教に物を贈っているので、詮久が三木城攻めをした際に、光教が何らかの協力をしたということだろう。
続いて、同年11月に入り2回目の三木城攻めが始まる。このときは経久自身も播磨に向かった。この段階で、守護赤松政村は淡路島へ逃走する。光教はよほどうれしかったのか、経久にお礼の贈りものを渡している。もっともこの時も、三木城は陥落していない。
尼子氏が播磨に出かけている間に、天文8(1539)年5月、大内義隆が石見銀山を奪回する。急ぎ経久らは帰国する。そして改めて、同年暮れ(11月末)詮久が、播磨国で赤松晴政(政村)を破っている。
【写真左】三木合戦図
主だった三木合戦の流れを絵図にしたもので、法界寺において、この絵を使って絵解きが行われているという。
◆竹松丸について
さて、別所長治については、上掲の説明板の通りだが、鳥取県の「岸本町誌」に興味深い記録が載っている。
それは、自刃した長治一族の中で、唯一当時乳呑児だった「竹松丸」が、この伯耆国岸本の地で生き伸びていることである。経緯は次のとおりである。
三木城にて自刃した別所長治一族とは、本人、妻・照子、竹姫(5歳)、虎姫(4歳)、千松丸(3歳)、そして竹松丸(1歳)と、二男二女で、このほか長治の兄弟など約10人前後だったといわれている。妻・照子は長治の胸中を察して、先にわが子と痛ましい最期をとげ、そのあと長治は次の辞世の句を詠み、旅立った。
辞世の句
今はただ恨みもあらじ もろ人の
命にかわる わが身と思えば
【写真左】かんかん井戸
本丸にある井戸で、口径3.6m、深さ25mという。石をなげると「カンカン」と音がすることから、「かんかん井戸」と呼ばれた。
この井戸から出土したといわれている城主・別所氏の鐙が運龍寺(城内)に保存されているという。
ところが、長治の懇願か、妻・照子の遺志かわからないが、末子の乳呑児・竹松丸は、当時別所氏の別当として働いていた野脇新三郎と、その妻(竹松丸の乳母)に抱かれて、密かに三木城を脱出する。
野脇新三郎は、もともと伯耆国岸本町の出身である。さらに同行者としては、長治の従兄であった別所忠治が長治の念持仏を携えていた。
彼らが郷里の伯耆岸本に戻り、竹松丸はそこで野脇に育てられ、文禄4年(1595)年、判田別所小太郎と名乗り、尾高城の客分となる。
その後、別所長兵衛と改名して、元和8年(1622)44歳で没する。その後、同氏の後裔は1947年に絶家となっているが、別所姓が米子市方面に点在していることから、別所氏の庶流が生き延びてきていると思われる。
◎関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)
【写真左】天守跡
写真のように少し盛り上がった部分で、築山状態のものだが、当時はもう少し大きかったものと思われる。
【写真左】本町滑原(なめはら)遺跡出土石列遺構の説明板
この説明板中央の写真は、別所氏時代のものと思われる瓦片が出土しているもので、焼土層は、三木合戦時のものだという。
◎関連投稿
秀吉本陣跡・平井山ノ上付城跡(兵庫県三木市平井・与呂木・志染町安福田)
別所長治首塚(兵庫県三木市上の丸町9-4 雲龍寺)
山家城(京都府綾部市広瀬町)
●所在地 兵庫県三木市上の丸
●登城日 2009年3月1日
●形式 平山城
●別名 金山城、別所城
●築城期 明応元年(1492)前後
●築城者 別所則治
【写真左】北側(切崖)付近より三木城本丸跡付近を見上げる。
この傾斜法面は、現在崩落を防ぐための土木施工がされており、当時の面影は残していないが、かなりの険峻さがあったものと思われる。
◆解説
現地には、複数の説明板があるが、その中から最初に当城の略歴について転載する。
“三木城跡について
三木城は室町時代の後期、東播八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492~1501)に築かれました。
戦国時代末、五代城主長治のとき、天下統一を目指す織田信長の家臣羽柴秀吉に攻められました。秀吉は、三木城を取り囲むように30余りの付城を築き、兵糧攻めにしました。
この戦いは三木合戦といわれ、天正6年(1578)4月より1年10カ月に及び、籠城の悲惨さから「三木の干殺し」として全国的に有名です。天正8年(1580)1月17日に長治一族の自害によって開城し、籠城した人々の命が助けられました。
合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は、池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続しました。
大阪夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって、元和3年(1617)に廃城となりました。”
【写真左】現在の城跡跡の配置図
当時の場所には現在、稲荷神社、図書館、美術館、旧校舎、保育所などがあり、三木城の遺構としては、「かんかん井戸」と、忠魂碑(本丸)付近が残っている程度である。
次に、400年祭記念碑というものには、別所長治にまつわる内容が記載されている。
“四百年祭記念之碑
村上天皇を祖とし東播八郡を領した三木城主別所長治公が、織田信長の命により中国進攻に当たった羽柴秀吉の大軍を迎えた1年10カ月の長きにわたり三木城に拠り応戦。
将兵とともに果敢に戦ったが、天正8年1月17日ついに諸人の生命に代わって、一族とともに自刃し三木城を開城、再びこの地に平和をもたらしたのである。時に長治公は若干23歳であった。
想うに、当時の中央勢力に対し、敢然と戦い播州武士の面目を示した勇武と、これを最後まで支援した一族家臣の忠誠心は、他に類を見ないところである。
ここに別所長治公四百年祭にあたり、思いも新たにしてその遺徳を顕彰し、併せて三木合戦において散華した彼我物故者諸霊位の御冥福を祈って建碑の辞とする。
昭和56年5月3日
別所長治公四百年祭実行委員会
名誉会長・三木市長 大原義治 会長 鈴木信次”
【写真左】当時の三木城想像図
本丸は北方の先端部に設け、その真下には、美嚢川が流れている。おそらくこの川は堀としての機能も考えられていたと思われる。
本丸の西南部には二の丸、その東からは帯郭状の平坦地があり、この上には本丸を補助するような形で「新城」という廓状のものがあり、以下東から南にかけて廓や、櫓段を設け、さらに南東部には「宮の上の要害」という見張り場の役目を持たしたような独立峰が建っている。
◆本願寺光教(証如)と尼子氏
ところで、当地の他の説明板に少し記されているが、この三木城には出雲の尼子氏も攻め入っている。時期は天文年間である。このころ、経久も晩年ながら元気で、孫の詮久(後の晴久)も亡父・政久に代わって山陰の雄として頭角を現してきた頃である。
【写真左】西側にある稲荷神社鳥居と、階段
稲荷神社は三木城跡の中央部に建立されている。
尼子氏が備中・美作国を支配する計画は、当初からあったと思われるが、播磨、それも摂津が近い東播磨まで触手を伸ばしていることは興味深い。そのきっかけを作ったのは、本願寺光教ではなかったかと思われる。
光教(法名:証如)は、本願寺第10世で、石山本願寺を創建している。
天文5年(1536)12月17日、彼・光教は尼子詮久に品物を送り、好(よしみ)を通ずる。この後両者の交流が深まり、明くる天文6年7月、光教は経久に太刀と織物を贈る。8月には経久は石見銀山を攻略し、石見武士が次々と尼子方に属していく、まさに絶頂期である。12月8日には、今度は詮久が光教に馬代などを贈っている。
そして、同月14日にいよいよ詮久軍が播磨国に入ってくる。このとき光教は、当時の播磨国守護赤松政村の安否を問い、併せて詮久の勝利を祝したとある(証如日記)。
【写真左】三木城本丸跡付近
いろいろな建物があるが、文字通り公園となっている。このあたりは特に広く、平坦地に改変されている。
尼子詮久が最初に三木城を攻めたのは、この時で、明くる天文7年1月初旬には出雲月山富田城に帰国している。
そしてその2ヶ月後、祖父・経久が律儀に光教に物を贈っているので、詮久が三木城攻めをした際に、光教が何らかの協力をしたということだろう。
続いて、同年11月に入り2回目の三木城攻めが始まる。このときは経久自身も播磨に向かった。この段階で、守護赤松政村は淡路島へ逃走する。光教はよほどうれしかったのか、経久にお礼の贈りものを渡している。もっともこの時も、三木城は陥落していない。
尼子氏が播磨に出かけている間に、天文8(1539)年5月、大内義隆が石見銀山を奪回する。急ぎ経久らは帰国する。そして改めて、同年暮れ(11月末)詮久が、播磨国で赤松晴政(政村)を破っている。
【写真左】三木合戦図
主だった三木合戦の流れを絵図にしたもので、法界寺において、この絵を使って絵解きが行われているという。
◆竹松丸について
さて、別所長治については、上掲の説明板の通りだが、鳥取県の「岸本町誌」に興味深い記録が載っている。
それは、自刃した長治一族の中で、唯一当時乳呑児だった「竹松丸」が、この伯耆国岸本の地で生き伸びていることである。経緯は次のとおりである。
三木城にて自刃した別所長治一族とは、本人、妻・照子、竹姫(5歳)、虎姫(4歳)、千松丸(3歳)、そして竹松丸(1歳)と、二男二女で、このほか長治の兄弟など約10人前後だったといわれている。妻・照子は長治の胸中を察して、先にわが子と痛ましい最期をとげ、そのあと長治は次の辞世の句を詠み、旅立った。
辞世の句
今はただ恨みもあらじ もろ人の
命にかわる わが身と思えば
【写真左】かんかん井戸
本丸にある井戸で、口径3.6m、深さ25mという。石をなげると「カンカン」と音がすることから、「かんかん井戸」と呼ばれた。
この井戸から出土したといわれている城主・別所氏の鐙が運龍寺(城内)に保存されているという。
ところが、長治の懇願か、妻・照子の遺志かわからないが、末子の乳呑児・竹松丸は、当時別所氏の別当として働いていた野脇新三郎と、その妻(竹松丸の乳母)に抱かれて、密かに三木城を脱出する。
野脇新三郎は、もともと伯耆国岸本町の出身である。さらに同行者としては、長治の従兄であった別所忠治が長治の念持仏を携えていた。
彼らが郷里の伯耆岸本に戻り、竹松丸はそこで野脇に育てられ、文禄4年(1595)年、判田別所小太郎と名乗り、尾高城の客分となる。
その後、別所長兵衛と改名して、元和8年(1622)44歳で没する。その後、同氏の後裔は1947年に絶家となっているが、別所姓が米子市方面に点在していることから、別所氏の庶流が生き延びてきていると思われる。
◎関連投稿
瑞応寺と瑞仙寺(鳥取県西伯郡伯耆町・米子市日下)
【写真左】天守跡
写真のように少し盛り上がった部分で、築山状態のものだが、当時はもう少し大きかったものと思われる。
【写真左】本町滑原(なめはら)遺跡出土石列遺構の説明板
この説明板中央の写真は、別所氏時代のものと思われる瓦片が出土しているもので、焼土層は、三木合戦時のものだという。
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山家城(京都府綾部市広瀬町)
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