加古川城(かこがわじょう)・称名寺(しょうみょうじ)
●所在地 兵庫県加古川市加古川町本町
●探訪日 2009年9月18日
●形式 平城
●築城年 寿永3年(1184)
●築城者 糟谷有数
●遺構 ほとんど消滅
◆解説
平家追討の功により、糟谷有数が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。
糟谷氏累代の中でも、12代糟谷武頼は戦国期、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、いわゆる七本槍の一人に数えられた。そのご一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。
【写真左】称名寺入口
所在地は、姫路方面から向かうと、国道2号線を通って加古川橋を渡り、すぐ右側の脇道のようなところから入っていく。
当寺の案内板もはっきりしないが、路地のようなところをウロウロ探すと、何とか見つかるという目立たない寺院である。
現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどなく、山城探訪を目的とする者にとっては、参考になるものはほとんどない。
実は、この城跡を訪れた目的は、南北朝期、出雲の塩冶高貞が高師直に追われた際、家臣が高貞の身代わりとなって、追手をこの地で阻み、最後は全員が亡くなったということからだった。
【写真左】称名寺境内
はじめに、当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によって簡単に概要を示す。
“称名寺の文化財
加古川城址
城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後、書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。
後年各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。
(播磨鑑)
加古川城50間(約90m)四方
雁南庄加古川村
村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。
石幢(せきどう)
当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。
幢身高さ66cm
径 27×18.5cm
石棺
出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。
長さ 131cm
幅 73cm
厚さ 27cm
昭和62年3月 加古川市教育委員会”
【写真左】七騎供養塔その1
境内に建立された宝篋印塔で、その脇に説明板が設置されている。その内容を転載しておく。
“七騎供養塔
この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。
七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。
その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。
この七騎の塚が船頭付近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。
なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。
昭和59年3月 加古川市文化財保護協会”
上掲説明板の中の、船頭という地区は、当寺の北を流れる加古川橋付近で、400m程度下ったところである。
【写真左】七騎供養塔その2
塩冶高貞と顔世御前の逃亡
塩冶高貞については、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)などを取り上げた際、少し紹介しているので、そちらも参照していただきたいが、高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。
【写真左】境内にある塩冶家の墓
高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。
この加古川城(称名寺)付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。
ところで、上掲の説明板に、高貞が逃亡を図った時期を「正平5年」としている。正平5年とは、観応元年(1350)である。上記の事件があったのは、興国2年(暦応4年)(1341)であり、明らかな間違いである。
正平5年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っている。
おそらく、この説明板を書かれた方(加古川市文化財保護協会)は、高貞追討と、直冬追討を混同して書かれたのかもしれない。
糟谷氏
なお、冒頭記した加古川城主・糟谷氏だが、説明板によると、寿永3年に当城を築いて、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。
そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせた、とある。二つの説明板から推測すると、助右衛門と、12代武頼は同一人物のようだ。
となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。
そこで思い起こされるのは、昨年(2009)1月の投稿で取り上げた鳥取県の糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城である。糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職あった。
【写真左】岩井垣城
元弘3年(1333)船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡した、とある。
加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。
鶴林寺
所在地 兵庫県加古川市加古川町北在家424
参拝日 2009年9月18日
【写真左】鶴林寺仁王門
加古川城(称名寺)の近くには古刹・鶴林寺がある。
創建ははっきりしないが、すくなくとも養老2年(718)、七堂伽藍が建立されている。
当院には、黒田官兵衛及び父・職隆が鶴林寺に対して差し出した書状などが残る。信長・秀吉らの播磨侵攻の際、周辺の寺社仏閣が戦禍に遭っているが、鶴林寺は寺領などを差出したりしながら、延命を図った。
【写真左】配置図
国宝2件、重要文化財18件、県指定文化財19件、市指定文化財16件など多くの文化財が残されている。
【写真左】境内
◎関連投稿
塩冶氏と大廻城・塩冶神社(島根県出雲市塩冶町)
塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)など
桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)
旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)
芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)
但馬・塩冶氏について(城之助氏より)
田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)
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羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)
名和長年(5)船上山周辺の動き
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その他
●所在地 兵庫県加古川市加古川町本町
●探訪日 2009年9月18日
●形式 平城
●築城年 寿永3年(1184)
●築城者 糟谷有数
●遺構 ほとんど消滅
◆解説
平家追討の功により、糟谷有数が源頼朝よりこの地を与えられ、寿永3年(1184)に築城されたという。その後鎌倉時代まで糟谷氏が播磨守護代として在城した。
糟谷氏累代の中でも、12代糟谷武頼は戦国期、羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の戦いで軍功があり、いわゆる七本槍の一人に数えられた。そのご一万二千石の大名まで出世するが、関ヶ原の合戦では豊臣方についたため、領地没収され、当城も廃城となった。
【写真左】称名寺入口
所在地は、姫路方面から向かうと、国道2号線を通って加古川橋を渡り、すぐ右側の脇道のようなところから入っていく。
当寺の案内板もはっきりしないが、路地のようなところをウロウロ探すと、何とか見つかるという目立たない寺院である。
現在、この加古川城跡は、称名寺という寺院になっている。城跡としての遺構はほとんどなく、山城探訪を目的とする者にとっては、参考になるものはほとんどない。
実は、この城跡を訪れた目的は、南北朝期、出雲の塩冶高貞が高師直に追われた際、家臣が高貞の身代わりとなって、追手をこの地で阻み、最後は全員が亡くなったということからだった。
【写真左】称名寺境内
はじめに、当寺境内に設置された「加古川城」に関する説明板によって簡単に概要を示す。
“称名寺の文化財
加古川城址
城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。その後、書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。
後年各所に転戦し、賤ヶ岳一番槍に武名を挙げたという。
(播磨鑑)
加古川城50間(約90m)四方
雁南庄加古川村
村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。
石幢(せきどう)
当寺の内庭に六角石幢がある。凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。
幢身高さ66cm
径 27×18.5cm
石棺
出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。
長さ 131cm
幅 73cm
厚さ 27cm
昭和62年3月 加古川市教育委員会”
【写真左】七騎供養塔その1
境内に建立された宝篋印塔で、その脇に説明板が設置されている。その内容を転載しておく。
“七騎供養塔
この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。
七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。
その時、弟の六郎ほか郎党七人が主を討たせまいとして、この場所に踏みとどまり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。
この七騎の塚が船頭付近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。
なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。
昭和59年3月 加古川市文化財保護協会”
上掲説明板の中の、船頭という地区は、当寺の北を流れる加古川橋付近で、400m程度下ったところである。
【写真左】七騎供養塔その2
塩冶高貞と顔世御前の逃亡
塩冶高貞については、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)などを取り上げた際、少し紹介しているので、そちらも参照していただきたいが、高貞らが逃亡する際には、高貞を含む家臣グループと、高貞の妻で絶世の美女といわれた「顔世御前」のグループとの二手に分かれていた。
【写真左】境内にある塩冶家の墓
高貞らは一緒に逃亡すると、目立つことからの策だった。しかし、顔世御前らは子供連れであるため、姫路市蔭山というところで捕まり、自害する。
この加古川城(称名寺)付近の船頭で戦ったのは、元々高貞のグループだったと思われる。実際に追手としての役を担ったのは、高師直ではなく、山名時氏らである。
ところで、上掲の説明板に、高貞が逃亡を図った時期を「正平5年」としている。正平5年とは、観応元年(1350)である。上記の事件があったのは、興国2年(暦応4年)(1341)であり、明らかな間違いである。
正平5年は、足利尊氏が直冬追討のため、高師直を率いて京都を出発したり、足利直義が南朝に降ったりする時期で、塩冶高貞が死亡してから9年も経っている。
【写真左】くしくも、塩冶氏を討った山名氏関係の墓もある。
なお、写真にはないが、糟谷姓の墓石もあった。おそらく、この説明板を書かれた方(加古川市文化財保護協会)は、高貞追討と、直冬追討を混同して書かれたのかもしれない。
糟谷氏
なお、冒頭記した加古川城主・糟谷氏だが、説明板によると、寿永3年に当城を築いて、鎌倉期まで播磨守護代を務めたとある。
そして戦国期に至ると、羽柴秀吉が当地を訪れた際、糟谷助右衛門が館において休息をとらせた、とある。二つの説明板から推測すると、助右衛門と、12代武頼は同一人物のようだ。
となると、南北朝期の塩冶氏家臣の七騎が討死した際も、糟谷氏は当地・加古川城に拠っていたことになる。しかし、当地の説明板には同氏が関わったことは、一切書かれていない。地元にやってきた両者(高貞側、尊氏派)に対して、糟谷氏がどういう態度をとったのか、記録がないというのも不可解である。
そこで思い起こされるのは、昨年(2009)1月の投稿で取り上げた鳥取県の糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城である。糟谷弥二郎は、元々北条一門の守護代で、その一族は鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職あった。
【写真左】岩井垣城
元弘3年(1333)船上山に拠った後醍醐天皇は、名和長年に糟谷弥二郎の拠る岩井垣城を攻めさせ、同城は炎上し、同氏は滅亡した、とある。
加古川城主・糟谷氏が7,8年前に起こった伯耆国の同族の情報を知らないはずはない。元々倒幕の両者であるため、どちらにも与せず、城は傷つけられることを覚悟の上、一旦同城から避難していたのではないだろうか。
鶴林寺
所在地 兵庫県加古川市加古川町北在家424
参拝日 2009年9月18日
【写真左】鶴林寺仁王門
加古川城(称名寺)の近くには古刹・鶴林寺がある。
創建ははっきりしないが、すくなくとも養老2年(718)、七堂伽藍が建立されている。
当院には、黒田官兵衛及び父・職隆が鶴林寺に対して差し出した書状などが残る。信長・秀吉らの播磨侵攻の際、周辺の寺社仏閣が戦禍に遭っているが、鶴林寺は寺領などを差出したりしながら、延命を図った。
【写真左】配置図
国宝2件、重要文化財18件、県指定文化財19件、市指定文化財16件など多くの文化財が残されている。
【写真左】境内
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