八幡城跡(はちまんじょうあと)
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
八幡城のある美郷町浜原は、旧邑智町にあった場所で、中国一の大河・江の川がこの位置で大きく西南に蛇行している。
江の川とほぼ平行に走っているのが、JR西日本が経営する三江線である。八幡城は、この三江線の浜原駅の背後の山にあり、そのほぼ真下には国道375号線の浜原トンネルが走っている。
佐波氏は鎌倉、南北朝期にかけて活躍した一族で、後醍醐天皇が伯耆船上山で倒幕の旗を掲げた時、他の石見諸氏とともに馳せ参じた。
同氏はその後、以前取り上げた高津長幸、三隅兼連らと同様、南朝方となり、観応の擾乱が起こると、足利直冬に属し活躍する。観応元年(1350)、足利尊氏が派遣した高師泰の軍によって、八幡城の江の川対岸にある青杉ヶ城山にて、討死したとされている。
概要は現地本丸下の説明板から転載する。
“八幡城の由来
そのあと天正19年(1591)に、佐波越後守広忠が入ってくる。広忠と、説明にある恵連が同一人物か、はっきりしないが、同族であることは間違いない。
なお、説明にもあるように、佐波隆秀の子・恵連はのちに、備後(広島県)東城に移ったとあるが、これは、昨年取り上げた庄原市の「五品嶽城」の中でも記されたように、毛利氏の命によって、それまで治めていた宮氏は、出雲に転出する。
●所在地 島根県邑智郡美郷町浜原
●登城日 2008年6月24日
●標高 248m
●築城期 室町時代後期
●築城主 佐波興連(おきつら)
●備考 別名 唐樋山城、公園化により削平
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
【写真左】八幡城登城口付近
軽トラックの4WDなら中腹まで登れそうな道だが、幅が狭いため、車はこの付近に留めた。
八幡城のある美郷町浜原は、旧邑智町にあった場所で、中国一の大河・江の川がこの位置で大きく西南に蛇行している。
江の川とほぼ平行に走っているのが、JR西日本が経営する三江線である。八幡城は、この三江線の浜原駅の背後の山にあり、そのほぼ真下には国道375号線の浜原トンネルが走っている。
佐波氏は鎌倉、南北朝期にかけて活躍した一族で、後醍醐天皇が伯耆船上山で倒幕の旗を掲げた時、他の石見諸氏とともに馳せ参じた。
同氏はその後、以前取り上げた高津長幸、三隅兼連らと同様、南朝方となり、観応の擾乱が起こると、足利直冬に属し活躍する。観応元年(1350)、足利尊氏が派遣した高師泰の軍によって、八幡城の江の川対岸にある青杉ヶ城山にて、討死したとされている。
【写真左】現地にある説明板
本丸跡にも石碑があるが、雑草の繁茂により、判読不能。内容は下記の通り。
概要は現地本丸下の説明板から転載する。
“八幡城の由来
今を去る400年前、ここ八幡城は、佐波越後守興連、佐波家14代・常陸介隆秀父子により、弘治2年(1556)築城という。
天文20年8月、大内義隆滅亡のあと、石見銀山をめぐり、安芸の毛利元就、出雲の尼子晴久の抗争は激化し、弘治2年5月、元就銀山を奪うとともに、晴久は銀山の奪還を試み風雲は急となる。
天文20年8月、大内義隆滅亡のあと、石見銀山をめぐり、安芸の毛利元就、出雲の尼子晴久の抗争は激化し、弘治2年5月、元就銀山を奪うとともに、晴久は銀山の奪還を試み風雲は急となる。
龍岩寺城に拠る興連、隆秀は、元就の一翼となり、都賀の要路城を固め、八幡城を構築す。八幡城は、はじめ唐樋山城という。桂根八幡宮の背後に立つゆえ、その名を八幡城と称す。隆秀の子・恵連に至り、備後の東城に移り廃城となる。
標高253mの堅城、八幡城は赤名からの進攻に攻め口少なく、志学からの攻撃は久保の連峰、これを阻む。
頂上に立ては、沢谷川を一望に、はるか泉山城、瀬戸山城、幻を描き、江の川の上流は登矢が丸、青杉の諸城が歴史を浮かべる。足下に広がる浜原の町並み、下流に彩る小原の集落、さらに眼を移せば、霊峰・三瓶山の雄姿。戦国武将もかくや眺めんと、尽きせぬ往時の哀歓に浸る。
昭和62年11月吉日 建立 浜原交友会
撰文 石村 禎久 先生”
当時の郭なのか、改修されたものか不明だが、位置的には郭などがあった可能性は高い。
上記説明板の中にある、龍岩寺城は、浜原駅の次の駅である粕淵駅付近で、現在の邑智中学校に当たる。
当然、遺構はほとんど消滅している。要路城は、この場所から江の川をさらに登り、同線の石見都賀駅の対岸にある山城である。
上記説明板の中にある、龍岩寺城は、浜原駅の次の駅である粕淵駅付近で、現在の邑智中学校に当たる。
当然、遺構はほとんど消滅している。要路城は、この場所から江の川をさらに登り、同線の石見都賀駅の対岸にある山城である。
泉山城は、本流江の川を離れた支流・沢谷川を登り、旧石見銀山街道沿いにある山城で、鎌倉前期に当地を治めていた出羽(いずは)氏が築城している。この場所から東に向かうと、すぐに出雲国の来島郷(飯南町)に入り、赤名の瀬戸山城に繋がる。
弘治2年(1556)は、毛利元就が石見国を着々と手中に収めていく時期である。同年4月8日、元就・隆元は、出羽元祐に君谷半分・山南半分を与え、12月には、岡部元良に、都賀城在番料として、70貫の土地を与える。佐波氏については、隆秀に祖式郷福屋久佐村の土地を、9月26日付で与えている。
説明板が設置された昭和62年当時、おそらく現地は整備されていたのだろうが、最近はほとんど手が加えられていないようだ。
遺構の規模や、歴史的価値からみれば、指定を受けている山城に比べ、それらは劣るものかもしれないが、当時の地元の人たちの熱意が伝わる。
ただ、時代を経た次世代の人たちに受け継がれなくなるというのは、なんともさみしいものがある。地方の過疎化の象徴の一つとして、こうした史跡保存には端的にあらわれてくる。
ただ、時代を経た次世代の人たちに受け継がれなくなるというのは、なんともさみしいものがある。地方の過疎化の象徴の一つとして、こうした史跡保存には端的にあらわれてくる。
この絵図は、八幡城本丸から、江の川対岸にそびえる山並みを示したもので、左側の山が、青杉ヶ城で、その右の山にはテレビ塔が建っていると書かれている。
この峰々は、大きく迂回した江の川が挟むような位置にあり、青杉ヶ城のほかにも、鼓ヶ﨑城、丸屋城といった支城もある。さらに南方には、正治元年(1199)三善氏築城といわれる矢飼ヶ城もある。
この峰々は、大きく迂回した江の川が挟むような位置にあり、青杉ヶ城のほかにも、鼓ヶ﨑城、丸屋城といった支城もある。さらに南方には、正治元年(1199)三善氏築城といわれる矢飼ヶ城もある。
そのあと天正19年(1591)に、佐波越後守広忠が入ってくる。広忠と、説明にある恵連が同一人物か、はっきりしないが、同族であることは間違いない。
なお、説明にもあるように、佐波隆秀の子・恵連はのちに、備後(広島県)東城に移ったとあるが、これは、昨年取り上げた庄原市の「五品嶽城」の中でも記されたように、毛利氏の命によって、それまで治めていた宮氏は、出雲に転出する。
おそらくこの遠景が青杉ヶ城と思われるが、確証はない。どちらにしても見るからに要害堅固な山城のようだ。
何度か登城路を探しているが、いまだにわからない。ただ、現地の状況を考えると、道は管理されていないだろう。
【写真左】本丸跡から江の川が大きく旋回する粕淵駅付近を見る。
何度か登城路を探しているが、いまだにわからない。ただ、現地の状況を考えると、道は管理されていないだろう。
【写真左】本丸跡から江の川が大きく旋回する粕淵駅付近を見る。
毛利氏が度々石見にやってくる際の川路は、おそらくこのあたりまで船で下り、ここで降りて石見銀山などへ向かったものと思われる。
右側に見える道路は、375号線で大田市方面に向かっている。江の川をそのまま下ると、最終的には江津市に出、日本海へ注ぐ。
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