河口城(かわぐちじょう)
●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町園
●登城日 2009年12月7日
●築城期 南北朝期
●築城者 山名氏
●標高 68m
◆解説
これまで鳥取県の山城を探訪するたびに、河口城ほど、位置は分かっていても、登城口を探し出すのに手間取ったものはない。
【写真左】河口城の配置全体図
そのせいか、他の山城探訪者のサイトなどをみても、ほとんどが遠望写真のみで、現地踏査した写真がなかった。
今回も「駄目モト」覚悟で、現地をウロウロしながら探し当て、やっと目的の登城口を突き止めることができた。
添付写真にある「全体図」が設置されているのは、河口城より南にある山の中の道端にあるもので、案内標識の設置場所としてはいただけない。
やはり外部から来た者にとっては、近接のJR泊(とまり)駅構内付近など、分かりやすい場所に設置してもらいたいものだ。
この日、向かったコースとしては、この全体図の右側、すなわち農免道路から入って行った。この農免道路に入るには、西側の県道22号線から入る道もあるが、泊駅側からの場合は、当駅から西に国道9号線を300mほどいくと、南に向かう小さな農道のようなものがある。
この道に入ってJR山陰線の上を越え、南東に約1キロ行くと農免道路に突き当り、そこから東に向かう。途中はカーブが多く、山陰道(青谷羽合道路)の泊トンネルの上を走っていく。しばらくすると、日本海側に突き出し東側にカー
ブする手前の左側に上記案内図が設置されている。
【写真左】JR泊(とまり)駅側からみた河口城遠望
城域としては左先端部から写真全体が入っていると思われるが、この方向からみた斜面には雑木・雑草類が繁茂していて、山城の遺構はまったく確認できない。
さて、くだんの案内および説明板により当城の概要を転載する。
“河口城跡
村指定史跡 所在地 園字西前
昭和49年1月23日指定
東西40m、南北60m、標高68mの山城の遺構である。
城地は、北は絶壁となって海に迫り、南は山地と続き、東西に走る山陰道に立ちふさがる天然の要害である。
南北朝期の建武4年、伯耆の守護職に任ぜられた山名伊豆守時氏は、その守護所を田内(倉吉市)に置いた。後、治所は倉吉打吹山に移されたが、子孫は代々その職を世襲した。
唯一この手前の道路沿道に看板が設置されているため、見つけることができた。
その山名氏は、国の固めとして国内の軍事、交通の要点を選びその地に堅城を築いた。東の端因伯の国境近く築いたのがこの河口の城で、城主には世々一族を充てた。
代を重ねて刑部大輔久氏の世の大永4年(1524)5月、出雲尼子氏の伯耆侵攻を受け落城。城は、尼子方の領有となり、久氏らは諸国流浪の身となった。
永禄(1560)のころには、伯耆一円は完全に毛利の制圧下に置かれ、その庇護を受けてその昔放逐されていた伯耆の諸城主は、故城に帰ったが、天正年間、毛利に背き織田方に与した羽衣石南条は、幾度となく毛利方のこの城の攻略を試みたが、落とすことはできなかった。
天正9年(1581)秋、鳥取城を包囲中の羽柴秀吉の水軍は、毛利水軍の基地となっていたこの城を海から襲い、城は苦闘を重ねた。
豊臣政権下の天正13年(1585)以後は、羽衣石南条4万石の領域となり、その15年後の慶長5年(1600)の関ヶ原の役には南条は、大阪方西軍に味方して大敗し、ために城は付近一帯の山野とともに炎の中に消えた。今は「因伯古城跡図志」にわずかに当時を偲ぶことができる。(泊村誌より)
平成6年3月 湯梨浜町教育委員会”
このうち河口城の主郭を含む城域は、「自然の森」というエリアに含まれている。
公園化されているため、城跡の遺構がどの程度残った状態なのか、判然としないが、史料から判断すれば、上記のエリアでいえば、少なくとも、「自然の森」「魚見の森」と「憩いの森」の付近までは当時の城域と思われる。
【写真左】「魚見の森」から河口城本丸に向かう階段
手前の広場(魚見の森)は、あきらかに帯郭の形状を残している。左側(西)をさらに進むと、数段の郭を置きながら城下の泊の街へ向かう。
右(東)方向へ向かうと、主郭を取り巻くように北へ郭が伸び、そのあたりはさらに幅を広げた削平地を構成している。その先は一旦緩斜面が見えるが、雑林で確認できない。
【写真左】主郭付近
上記の階段は主郭部の西側に西側に設置されている。
写真でいえば右側に当たる。階段を上がると御覧のように、かなり広い郭段があり、この郭の南端部に、写真に見える石垣構成の本丸が設置されている。
【写真左】主郭部階段の脇に残る門柱用礎石
説明が前後するが、階段を上がったところに写真のような石が見える。
これと同じような礎石が対で残っているので、門柱用のものだろう。なお、柱穴の直径は25cm前後ある。
【写真左】本丸跡
高さは2.5m前後あり、右側の崩れた石垣階段から登れる。幅は3m前後、東西長さは7m前後だろうか。
【写真左】上記石垣
雑草が巻きついているので、全体の状況は分かりにくいが、石積みの保存状況は予想以上に残っている。
【写真左】本丸石垣上から北の郭を見る
名称は便宜上使っているので、主郭と本丸の区分をこの城で明確にすることは難しい。石垣で組まれたこの部分は、見張的あるいは櫓の用途の可能性が高いので、戦時の陣所としては下の広い郭(本丸)が使用されていたのだろう。
広さだが、目測では南北、50m以上、東西30m弱といったところか。なお、この写真の北側から西側にかけても不規則ながら数段の腰郭が取り巻いている。現状は雑木類が多いため、紹介していないが、戦国期は北の日本海からみれば、その威容を十分みせていたものと思われる。
【写真左】本丸下の郭(魚見の森)から、西方下のJR山陰線、山陰道を見る
このあたりには、多くのモミジの木が植えられている。おそらく秋には紅葉を楽しむ場所として使われているのだろう。
●所在地 鳥取県東伯郡湯梨浜町園
●登城日 2009年12月7日
●築城期 南北朝期
●築城者 山名氏
●標高 68m
◆解説
これまで鳥取県の山城を探訪するたびに、河口城ほど、位置は分かっていても、登城口を探し出すのに手間取ったものはない。
【写真左】河口城の配置全体図
そのせいか、他の山城探訪者のサイトなどをみても、ほとんどが遠望写真のみで、現地踏査した写真がなかった。
今回も「駄目モト」覚悟で、現地をウロウロしながら探し当て、やっと目的の登城口を突き止めることができた。
添付写真にある「全体図」が設置されているのは、河口城より南にある山の中の道端にあるもので、案内標識の設置場所としてはいただけない。
やはり外部から来た者にとっては、近接のJR泊(とまり)駅構内付近など、分かりやすい場所に設置してもらいたいものだ。
この日、向かったコースとしては、この全体図の右側、すなわち農免道路から入って行った。この農免道路に入るには、西側の県道22号線から入る道もあるが、泊駅側からの場合は、当駅から西に国道9号線を300mほどいくと、南に向かう小さな農道のようなものがある。
この道に入ってJR山陰線の上を越え、南東に約1キロ行くと農免道路に突き当り、そこから東に向かう。途中はカーブが多く、山陰道(青谷羽合道路)の泊トンネルの上を走っていく。しばらくすると、日本海側に突き出し東側にカー
ブする手前の左側に上記案内図が設置されている。
【写真左】JR泊(とまり)駅側からみた河口城遠望
城域としては左先端部から写真全体が入っていると思われるが、この方向からみた斜面には雑木・雑草類が繁茂していて、山城の遺構はまったく確認できない。
さて、くだんの案内および説明板により当城の概要を転載する。
“河口城跡
村指定史跡 所在地 園字西前
昭和49年1月23日指定
東西40m、南北60m、標高68mの山城の遺構である。
城地は、北は絶壁となって海に迫り、南は山地と続き、東西に走る山陰道に立ちふさがる天然の要害である。
南北朝期の建武4年、伯耆の守護職に任ぜられた山名伊豆守時氏は、その守護所を田内(倉吉市)に置いた。後、治所は倉吉打吹山に移されたが、子孫は代々その職を世襲した。
【写真左】登城口付近
この写真をみると、まったくのブッシュに見える。
おそらく平成6年当時は整備されていたのだろうが、現在はこういう状態なので、よほど気をつけてみないと、通り過ぎてしまう。
その山名氏は、国の固めとして国内の軍事、交通の要点を選びその地に堅城を築いた。東の端因伯の国境近く築いたのがこの河口の城で、城主には世々一族を充てた。
代を重ねて刑部大輔久氏の世の大永4年(1524)5月、出雲尼子氏の伯耆侵攻を受け落城。城は、尼子方の領有となり、久氏らは諸国流浪の身となった。
永禄(1560)のころには、伯耆一円は完全に毛利の制圧下に置かれ、その庇護を受けてその昔放逐されていた伯耆の諸城主は、故城に帰ったが、天正年間、毛利に背き織田方に与した羽衣石南条は、幾度となく毛利方のこの城の攻略を試みたが、落とすことはできなかった。
天正9年(1581)秋、鳥取城を包囲中の羽柴秀吉の水軍は、毛利水軍の基地となっていたこの城を海から襲い、城は苦闘を重ねた。
豊臣政権下の天正13年(1585)以後は、羽衣石南条4万石の領域となり、その15年後の慶長5年(1600)の関ヶ原の役には南条は、大阪方西軍に味方して大敗し、ために城は付近一帯の山野とともに炎の中に消えた。今は「因伯古城跡図志」にわずかに当時を偲ぶことができる。(泊村誌より)
平成6年3月 湯梨浜町教育委員会”
【写真左】「河口城跡ふれあいの森」の「魚見の森」付近
当城は現在「河口城跡ふれあいの森」という公園のような扱いになっている。
上の写真に示した農免道路側からは、登るというより、下がっていくコースになり、公園の各ブロックエリアの名称でいうと、「果実の森」「針葉樹の森」「憩いの森」「魚見の森」と続き、最終の北端部が「自然の森」とされている。
公園化されているため、城跡の遺構がどの程度残った状態なのか、判然としないが、史料から判断すれば、上記のエリアでいえば、少なくとも、「自然の森」「魚見の森」と「憩いの森」の付近までは当時の城域と思われる。
【写真左】「魚見の森」から河口城本丸に向かう階段
手前の広場(魚見の森)は、あきらかに帯郭の形状を残している。左側(西)をさらに進むと、数段の郭を置きながら城下の泊の街へ向かう。
右(東)方向へ向かうと、主郭を取り巻くように北へ郭が伸び、そのあたりはさらに幅を広げた削平地を構成している。その先は一旦緩斜面が見えるが、雑林で確認できない。
【写真左】主郭付近
上記の階段は主郭部の西側に西側に設置されている。
写真でいえば右側に当たる。階段を上がると御覧のように、かなり広い郭段があり、この郭の南端部に、写真に見える石垣構成の本丸が設置されている。
【写真左】主郭部階段の脇に残る門柱用礎石
説明が前後するが、階段を上がったところに写真のような石が見える。
これと同じような礎石が対で残っているので、門柱用のものだろう。なお、柱穴の直径は25cm前後ある。
【写真左】本丸跡
高さは2.5m前後あり、右側の崩れた石垣階段から登れる。幅は3m前後、東西長さは7m前後だろうか。
【写真左】上記石垣
雑草が巻きついているので、全体の状況は分かりにくいが、石積みの保存状況は予想以上に残っている。
【写真左】本丸石垣上から北の郭を見る
名称は便宜上使っているので、主郭と本丸の区分をこの城で明確にすることは難しい。石垣で組まれたこの部分は、見張的あるいは櫓の用途の可能性が高いので、戦時の陣所としては下の広い郭(本丸)が使用されていたのだろう。
広さだが、目測では南北、50m以上、東西30m弱といったところか。なお、この写真の北側から西側にかけても不規則ながら数段の腰郭が取り巻いている。現状は雑木類が多いため、紹介していないが、戦国期は北の日本海からみれば、その威容を十分みせていたものと思われる。
【写真左】本丸下の郭(魚見の森)から、西方下のJR山陰線、山陰道を見る
このあたりには、多くのモミジの木が植えられている。おそらく秋には紅葉を楽しむ場所として使われているのだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿