洲本城(すもとじょう)
“史跡 洲本城について
境城 三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面および北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で、広さは278,459.9㎡。
●所在地 兵庫県洲本市小路谷・三熊山
●探訪日 2008年8月22日
●高さ 125m
●築城期 永正年間(1500年代初頭)
●築城者 紀州熊野水軍安宅氏
写真中央奥の建物は、模擬天守のもので、展望台となっている。当城の見ものとしては写真にある保存状態がいい石垣群である。
◆解説
現地の説明板に詳細な記録が記載されているので、下段に示す。
“史跡 洲本城について
境城 三熊山(高熊山)の山頂付近、北斜面および北部山麓一帯に分布する城郭遺構地域で、広さは278,459.9㎡。
洲本城は、約500年の歴史があり、城に関連した史実を年代順に見ると次のようになる。
- 永正年間(1500年代初頭 由良、炬口に進出してきた、紀州熊野水軍の安宅一族が、大坂湾制御の要として洲本城を築城し始める。
- 天文5年(1536) 阿波国守護三好元長の三男冬康、淡路安宅氏の養子となる。三好氏、上京作戦への布石。
- 天文23年(1554) 三好四兄弟(長慶、義賢、冬康、一存)洲本会談
- 永禄3年(1560) 三好兄弟、第2回洲本会談、天下制圧の打ち合わせ。
- 永禄7年(1564) 安宅冬康、河内飯盛城で兄・長慶に暗殺される。安宅信康・清康、洲本由良城を守る。
- 天正9年(1581)11月 織田信長の命により、羽柴秀吉淡路を征討。安宅清康開城して、信長を安土に訪れ帰国後、病死。 淡路安宅氏滅亡。 安宅氏時代の洲本城は、土塁を空堀により砦を守る中世山城なので、織田軍の鉄砲隊には対抗できなかった。
- 天正13年(1585) 秀吉の四国攻め始まる。弟秀長、養子秀次で戦闘指揮。 6月18日、洲本城より出陣、福良渡海。 仙石秀久は讃岐で奮戦、戦後高松城主となる。 11月、脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。 洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構はほとんどが脇坂氏在城中に修築したものである。 その間、安治は水軍の将として、左のとおり従軍している。
- 天正15年(1587) 九州攻め
- 天正18年(1590) 小田原攻め
- 文禄元年(1592) 朝鮮の役(壬申の倭乱)
- 慶長5年(1600) 関ヶ原戦では、東軍へ寝返り家康方で参戦。
- 慶長14年(1609) 伊予大洲五万三千で移封。 仙石、脇坂時代の洲本城は、大阪城を衛り、秀吉が西南方へ進出する拠点の城として、また水軍の戦闘指揮処としての本格的築城整備の行われた時代である。 関ヶ原戦後の家康にとっては、洲本城は不必要な城となった。むしろ廃城にすべき城であった。そこでこの城を永年腹心の藤堂高虎に預け、普請を中断放置せしめた。
- 慶長16年(1610) 姫路城の池田輝政に淡路を領知せしめ、輝政は三男・忠雄の抨知をした。忠雄は由良成山城を修築し、洲本城を廃城とした。
前稿「一宮城」でも示したように、天正13年(1585)秀長らが6月16日この港に約3万の軍を集めた。
- 元和元年(1615) 大阪陣の功により、阿波国主蜂須賀至鎮に淡路一国を加増したが、蜂須賀氏は池田氏の跡を継ぎ、由良成山城を拠点とした。 由良は淡路の東南隅にあり、土地も狭小で城下の経営も出来ないことを理由に、前年幕府に申請して承認され、洲本の地に城地を移転するようになった。移転作業は、寛永12年まで山上の城郭は使用せず、山麓には居館、石垣を設けて、城砦をしたが、「お城」の呼称をせず「お居館」と呼ばせた。城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に計画都市をして造成されている。 この状態が、明治5年(1872)の廃藩置県まで続いた。 山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、淡路文化史料館用地等になっている。
以上”
同説明板にある由良成山城というのは、洲本南方にある島に建っていたものだが、現在城跡としての遺構はほとんどなく、明治時代に砲台が築かれた跡が残っているという。
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