金鑵城(かなつるべじょう)
●所在地 兵庫県小野市昭和町小字大谷・夢の森公園
●高さ 95m(比高50m)
●築城期 室町時代か
●築城者 不明
●城主 中村氏(赤松氏家臣)
●遺構 郭・土塁・堀切・井戸等
●指定 小野市指定文化財
●登城日 2014年11月22日
◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」他)
金鑵城は兵庫県小野市にあって、東播磨を流れる加古川の西方に伸びる青野ヶ原の台地に築かれた山城である。特徴的なのは、この場所が元は弥生時代の集落であったことである。
【写真左】金鑵城
東方を望む櫓台。城域の東端部に設置されたもので、復元櫓であるが、この箇所から加古川を中心とした広大な平野が眺望できる。
現地の説明板より
“金鑵城跡
当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城(かわいじょう)、堀井城(ほりいじょう)、小堀城(こぼりじょう)など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。
【写真左】案内図
小野市観光マップという案内図が現地設置されている。この場所は「金鑵城遺跡広場」と隣接して「夢の森公園」があり、市民憩いの場となっている。
【写真左】金鑵城遺構配置図
現地に設置されているものだが、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆したもの。
城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。
台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋がゆいいつの通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる尾根の先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
【写真左】堀切に架けられた木橋
北端部に当たる所で、手前に「西郭」があったとされ、奥に主郭が控える。
なお、弥生時代には当然ながら堀切はなく、奥の主郭と連続した平坦地として構成され、下段にしめす「6号住居」を北端部に置き、主郭部には1~5号まで住居があったとされるが、おそらく弥生時代には堀切箇所にも数棟の住居があったものと思われる。
城内からは、甕(かめ)、壺、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘(どすい)などの漁労具、刀、鞘、笄(こうがい)などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭などの多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。
【写真左】木橋から堀切を望む。
当城の中でも最大の遺構で、最大幅約20mを誇り、深さは最大で5m以上はあると思われる。
【写真左】堀切
堀切底部から見たもので、現在は法面が緩やかになっているが、当時はもっと鋭角に深く掘られていたものと思われる。
この箇所の堀切がこれだけ大規模なものとなったのは、当城の位置が関係していると思われる。
というのも、金鑵城は南北に伸びる青野ヶ原台地の尾根軸線からあえてずれた東端部に設置されているため、当然ながら西方の尾根と連続する。このため城域に入る西側(北側)で南北方向にこうした大規模な堀切を設け、遮断する必要があったものと思われる。
中村氏
金鑵城の城主は赤松氏の有力な家臣中村氏とされている。播磨国における中村氏については、以前取り上げた波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)でもすでに紹介しているが、金鑵城の中村氏も同じ赤松氏の家臣であったことから、同族(庶流か)と思われる。
ただ、金鑵城と波賀城は同じ播磨国に所在するものの、波賀城は北播磨にあり、金鑵城は東播磨にあってその距離は60キロ余り隔てている。
【写真左】主郭入口付近
左側の入口が木橋を渡ったところのもので、奥の開口部が虎口とされている。
現地はごらんのように綺麗に整備された土塁が郭を囲繞している。
赤松氏については、白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)や置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)でも述べたように、もともと東播磨の佐用庄を本拠とし、のちに播磨及び備前・美作並びに因幡南部までも支配をした名族である。
また、説明板にもあるように、金鑵城が所在する小野市(東播磨)には当城の他に、赤松氏一族が関係する諸城としては下記のものがある。
同氏家臣であった中村氏が、北播磨と東播磨に分散していることを考えると、中村氏は赤松氏とかなり密接な関係を持った一族であったものと推察される。
【写真左】主郭・その1
入口側から南東方向を見たもので、郭は中間部ですこし右に折れる形となっている。
【写真左】建物1
主郭内には礎石建物跡が3か所あるが、その中の最大のもの。
東西15m×南北10mを誇る。
【写真左】復元井戸
説明板より
“井戸跡(イメージ復元)
金鑵城跡の「かなつるべ」という城の名前は、伝承によれば城内に井戸があり、その井戸の水を金(かね)の「つるべ」でくみ上げていたことからついたとされています。
井戸の場所や形がわかっていないことから「一遍聖絵」などを参考にして復元してみました。”
【写真左】主郭・その2
中央で少し折れて南東方向に伸びる箇所で、ここに2か所の礎石建物が認められている。
このあと、東端部に突出している櫓台に向かう。
【写真左】櫓台
主郭からおよそ30mほど細く伸びた連絡路が渡され、その先端部に櫓が設けられている。
【写真左】櫓台の北側にある小郭
櫓台よりさらに北の下がった位置にも道が残されているが、大手道だったかもしれない。
【写真左】小郭側から櫓台を見る。
下に降りて櫓台を見たもので、この位置からは険峻な光景に見える。
この後、再び上に戻る。
【写真左】東方に加古川を望む。
東播磨の中でも特にこのあたりには広大な平野が広がる。
【写真左】北東方面を望む
この先の加古川を遡っていくと、黒田官兵衛の生誕地といわれる黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)に繋がる。
金鑵城遺跡竪穴住居
参考までに、当城が金鑵城となる以前の遺跡についても紹介しておきたい。
現地の説明板より
“金鑵城遺跡
城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落と呼ばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1~3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高いところをわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内海地域や大阪湾岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
【写真左】金鑵城遺跡竪穴住居配置図
ご覧のように、主郭部には5ヵ所の住居跡があった。
当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれためずらしい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
【写真左】6号住居
西の郭部に残るもので、手前に張り出し部(出入口)を設け、周囲は高床とし、中央の円形部には炉跡があったとされる。
6棟の竪穴住居を検出し、1~6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられる長さ約3mの張り出し部があります。柱は7本で、壁の周囲には高床がめぐり、中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。”
●所在地 兵庫県小野市昭和町小字大谷・夢の森公園
●高さ 95m(比高50m)
●築城期 室町時代か
●築城者 不明
●城主 中村氏(赤松氏家臣)
●遺構 郭・土塁・堀切・井戸等
●指定 小野市指定文化財
●登城日 2014年11月22日
◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」他)
金鑵城は兵庫県小野市にあって、東播磨を流れる加古川の西方に伸びる青野ヶ原の台地に築かれた山城である。特徴的なのは、この場所が元は弥生時代の集落であったことである。
【写真左】金鑵城
東方を望む櫓台。城域の東端部に設置されたもので、復元櫓であるが、この箇所から加古川を中心とした広大な平野が眺望できる。
現地の説明板より
“金鑵城跡
当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城(かわいじょう)、堀井城(ほりいじょう)、小堀城(こぼりじょう)など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。
【写真左】案内図
小野市観光マップという案内図が現地設置されている。この場所は「金鑵城遺跡広場」と隣接して「夢の森公園」があり、市民憩いの場となっている。
【写真左】金鑵城遺構配置図
現地に設置されているものだが、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆したもの。
城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。
台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋がゆいいつの通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる尾根の先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
【写真左】堀切に架けられた木橋
北端部に当たる所で、手前に「西郭」があったとされ、奥に主郭が控える。
なお、弥生時代には当然ながら堀切はなく、奥の主郭と連続した平坦地として構成され、下段にしめす「6号住居」を北端部に置き、主郭部には1~5号まで住居があったとされるが、おそらく弥生時代には堀切箇所にも数棟の住居があったものと思われる。
城内からは、甕(かめ)、壺、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘(どすい)などの漁労具、刀、鞘、笄(こうがい)などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭などの多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。
【写真左】木橋から堀切を望む。
当城の中でも最大の遺構で、最大幅約20mを誇り、深さは最大で5m以上はあると思われる。
【写真左】堀切
堀切底部から見たもので、現在は法面が緩やかになっているが、当時はもっと鋭角に深く掘られていたものと思われる。
この箇所の堀切がこれだけ大規模なものとなったのは、当城の位置が関係していると思われる。
というのも、金鑵城は南北に伸びる青野ヶ原台地の尾根軸線からあえてずれた東端部に設置されているため、当然ながら西方の尾根と連続する。このため城域に入る西側(北側)で南北方向にこうした大規模な堀切を設け、遮断する必要があったものと思われる。
中村氏
金鑵城の城主は赤松氏の有力な家臣中村氏とされている。播磨国における中村氏については、以前取り上げた波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)でもすでに紹介しているが、金鑵城の中村氏も同じ赤松氏の家臣であったことから、同族(庶流か)と思われる。
ただ、金鑵城と波賀城は同じ播磨国に所在するものの、波賀城は北播磨にあり、金鑵城は東播磨にあってその距離は60キロ余り隔てている。
【写真左】主郭入口付近
左側の入口が木橋を渡ったところのもので、奥の開口部が虎口とされている。
現地はごらんのように綺麗に整備された土塁が郭を囲繞している。
赤松氏については、白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)や置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)でも述べたように、もともと東播磨の佐用庄を本拠とし、のちに播磨及び備前・美作並びに因幡南部までも支配をした名族である。
また、説明板にもあるように、金鑵城が所在する小野市(東播磨)には当城の他に、赤松氏一族が関係する諸城としては下記のものがある。
- 堀井城 小野市河合西町字構
- 岡城 小野市粟生町小字一文字山
- 赤松氏館 小野市下来住町小字平野
同氏家臣であった中村氏が、北播磨と東播磨に分散していることを考えると、中村氏は赤松氏とかなり密接な関係を持った一族であったものと推察される。
【写真左】主郭・その1
入口側から南東方向を見たもので、郭は中間部ですこし右に折れる形となっている。
【写真左】建物1
主郭内には礎石建物跡が3か所あるが、その中の最大のもの。
東西15m×南北10mを誇る。
【写真左】復元井戸
説明板より
“井戸跡(イメージ復元)
金鑵城跡の「かなつるべ」という城の名前は、伝承によれば城内に井戸があり、その井戸の水を金(かね)の「つるべ」でくみ上げていたことからついたとされています。
井戸の場所や形がわかっていないことから「一遍聖絵」などを参考にして復元してみました。”
【写真左】主郭・その2
中央で少し折れて南東方向に伸びる箇所で、ここに2か所の礎石建物が認められている。
このあと、東端部に突出している櫓台に向かう。
【写真左】櫓台
主郭からおよそ30mほど細く伸びた連絡路が渡され、その先端部に櫓が設けられている。
【写真左】櫓台の北側にある小郭
櫓台よりさらに北の下がった位置にも道が残されているが、大手道だったかもしれない。
【写真左】小郭側から櫓台を見る。
下に降りて櫓台を見たもので、この位置からは険峻な光景に見える。
この後、再び上に戻る。
【写真左】東方に加古川を望む。
東播磨の中でも特にこのあたりには広大な平野が広がる。
【写真左】北東方面を望む
この先の加古川を遡っていくと、黒田官兵衛の生誕地といわれる黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)に繋がる。
金鑵城遺跡竪穴住居
参考までに、当城が金鑵城となる以前の遺跡についても紹介しておきたい。
現地の説明板より
“金鑵城遺跡
城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落と呼ばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1~3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高いところをわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内海地域や大阪湾岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
【写真左】金鑵城遺跡竪穴住居配置図
ご覧のように、主郭部には5ヵ所の住居跡があった。
当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれためずらしい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
【写真左】6号住居
西の郭部に残るもので、手前に張り出し部(出入口)を設け、周囲は高床とし、中央の円形部には炉跡があったとされる。
6棟の竪穴住居を検出し、1~6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられる長さ約3mの張り出し部があります。柱は7本で、壁の周囲には高床がめぐり、中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。”
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