桐山城(きりやまじょう)
●所在地 鳥取県岩美郡岩美町浦富
●登城日 2010年1月18日
●築城期 鎌倉末期・南北朝期
●築城者 塩冶高貞
●城主 山中鹿助、垣屋光成・恒総、鵜殿氏
●標高 203m
【写真左】桐山城遠望
浦富の浜辺からみたもので、中央の最高所が本丸跡付近。右側尾根伝いにも遺構が点在してる(後段写真参照)
◆解説(参考文献「岩美町誌」等)
この城の築城者は、前稿「加古川城跡」で少し触れている塩冶高貞といわれている。先ず、略歴については、桐山城本丸跡にあった説明板より転載する。
“桐山城について
桐山城跡は標高203mの日本海を一望できる桐山頂上にあり、郭が頂上と南東尾根に4カ所、東の谷に7カ所残っています。古くから浦富は因但国境海上交通の要所の港町でした。
築城年は、不明ですが、鹽冶(えんや)周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられます。
そして、元亀3年(1572)尼子の勇者・山中鹿助が入城。その後は垣屋光成(1万石、子の恒総まで20年間)、池田政虎(5千石、15年間)さらに、鵜殿氏(5千石)が幕末まで浦富を領しました。
この頂上までの散策道は、地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件がよければ、遠く大山や隠岐島が見えます。この素晴らしい眺望と四季折々の動植物を大切にし、ゴミ等は必ず持ち帰ってください。
平成13年3月 建”
【写真左】荒砂神社
浦富海岸西部に突き出した岩山に鎮座する神社で、草創は白鳳期(7世紀後半)。
元亀3年桐山城に入城した山中鹿助は、山名豊国を援護し鳥取城を攻略する際、当社に戦勝祈願したという。
岩美町誌によれば、「稲場民談記」にこの山城名として、「浦住木井ノ山城」と書かれ、「太閤真顕記」には「磯部の城」とも書かれているという。
また、さらに古い「岩美郡史」によると、「雲州(出雲)佐々木氏の一族、塩冶判官高貞の築く所なり。(因州の守護・山名豊国の妹婿にして但州美方郡、阿勢井城主たる塩谷肥前守あり、以て塩谷家の因但に縁故あるを察すべし」 と書かれている。
【写真左】浦富海岸
上記荒砂神社本殿北端部からみる。夏になると多くの海水浴客が訪れる風光明美なところである。
同誌によると「古い国絵図に塩谷判官高貞の草創とある」ことから、築城者が高貞であっただろうと、断定はしないものの、記している。
ただ、同誌にもあるように、では築城時期はどうなのか、という課題が出てくる。なお同文に「塩冶」と「塩谷」が混在しているが、原文のままとしている。
後醍醐天皇が興した建武の新政時は、当然地元の最大の功労者である名和長年が領知している。しかし、それもつかの間で、長年は戦死してしまう。そのあと尊氏が実質上の政権を支配するが、これまで記したように、高貞と尊氏はたもとを分かち、暦応4年(1341)高貞は高師直の讒言によって、山名時氏により追われ自害している。
【写真左】登城口付近
主な登城ルートは2つあり、この場所はおそらく一番利用されている「奥内登山口」というところである。もうひとつは、西側の「いわし山登山口」という網代地区が近いところである。
写真後方の山が桐山城。なお、この日、出雲地方はほとんど雪が解けていたことから、こちらに向かったのだが、ごらんのとおり10センチ以上の積雪があり、これまでの山城探訪で初めての雪山登山となった。
従って、高貞がこの因幡国・桐山城を築城できる時期は、その直前までとなる。さらに絞ると、長年戦死の延元元年(1336)から暦応4年(1341)の間に築城したことになる。この5年間の高貞の動きを知る資料としては、残念ながら因幡・伯耆においては今のところ史料がなく、地元出雲の神社に寄進(延元2年)、鰐淵寺衆徒の恩賞を幕府に申請(延元3年)などといったものしか見えない。
しかも、状況を考えると、高貞も後醍醐と上洛した後、しばらくは京都にいたものと思われるので、因幡・伯耆に在任している期間はさらに短くなる。このような状況を考えると、高貞自身一時的には因幡国に来ているかもしれないが、実質上の築城者は、高貞の一族がその任を負っていたのではないだろうか。
【写真左】鵜殿家墓地遠望
江戸期当城・当地を治めていた鵜殿氏の墓地。雪があるため、登城口から写真を撮ったのみとした。
さて、戦国期である。 山中鹿助が同城に入るきっかけを作ったのは、以前にも紹介した塩冶氏の子孫塩冶周防守と、奈佐日本助の働きがあったからである。
元亀3年(1572)、鹿助らは日本助らの海賊船数十隻を使って、岩美町岩本の海辺に上陸、さらに桐山城に拠って守護・山名豊国と連携し、豊国の元家臣だった武田高信を討つ。このとき鹿助は、桐山城を離れ、国府町の甑山に城を築いている。その後、豊国は以前紹介した「天神山城」から鳥取城へ移った。
天正8年(1580)、秀吉の鳥取城攻めの際は、桐山城に垣屋播磨守を入れ、但馬との繋ぎを取らせる。同年、豊国が秀吉に降ったことにより、家中では豊国を追放、毛利方より吉川経家が入城し、のちに悲運の部将として最期を遂げていく。
なお、垣屋氏の出自は、もともと山名家四天王の一人として、現在の豊岡を治めていたという。ちなみに他の三人は、太田垣(朝来郡竹田)、八木(養父郡八木)、田結庄(豊岡市山本)で、垣屋氏はこれらの筆頭格であった。
【写真左】当城の登城路案内図
平成13年に当城の整備がされたようで、地権者のご厚意で登れるようになったようだ。
登城前に、こうした案内図があるとイメージができ、一段と登る楽しみも増える。
【写真左】登城口前半のころ
写真では分かりにくいが、この山のルートはいきなり急斜面を登る設定になっている。雪が上にいくほど多くなるので、何度も足を滑らす。(普通なら、この段階で断念するのだが、せっかく遠くから来たのだからという理由づけで、連れ合いを説得させながら、進んだ)
【写真左】最初のピーク到達点から下を見る
登城口からの急斜面をのぼること10数分(雪がなければ、数分で登れるだろう)、やっと尾根始点に着く。雪があるため、遺構の確認は断定できないが、このあたりから小郭が点在しているように見えた。
【写真左】奥内側からと、いわし山側との合流点
この地点にいくまでに、すこし小高い尾根があり、そこから少し下がると、写真にある別の尾根との接合部分に差し掛かる。写真左方向が桐山城本丸方面で、右奥方向が、「いわし山」へつながる尾根が続く。
なお、この合流点は盛り上がった地形になっており、戦略的にも小郭としての役目があったものと思われる。
【写真左】いわし山に向かう尾根
方向としては西方になるが、この尾根は非常に痩せ尾根になっており、意識的に加工された可能性もある。
【写真左】桐山城方面への尾根ルート
全体に登城コースに占める尾根の長さが多く、しかも尾根幅が狭いところが多い。右側は直接日本海の風が吹き付けるところで、この日も木立が途切れた場所では、強風と冷風で長居ができない。
【写真左】途中からみた「いわし山」の山容
写真左下が網代の港。桐山城へ向かうコースよりも長いかもしれない。
【写真左】本丸北端部
本丸北端部直下は急斜面で、ロープがあるものの、足もとは雪があるため、何度も足をすくわれた。そうやって苦労の末たどり着く。その甲斐があって、眺望は抜群である。写真は北端部から南に向いて伸びる主郭の奥行
【写真左】本丸跡からみた西南方向の網代の港、さらに遠く鳥取港をかすかに見る。
これでもう少し空が澄んでいると、説明板にもあるように大山も見えるだろう。
【写真左】最初に見た浦富の街と海岸
この位置からみると、但馬の芦屋城のある浜坂の港が非常に近く感じる。塩冶周防守や奈佐日本助が船で往来していたことが非常にリアリティをもって感じられる。
【写真左】本丸中央部
積雪のため、遺構の精度が不明だが、この中央部の東側にこんもりとした高まりがある。おそらくこの位置が主郭としての位置づけだっただろう。
また、南端部には3,4段の尾根幅に沿った郭段がみえた。
頂上部での高低差はほとんどなく、南北総延長約150m前後はあると思われる。ただ基本的に尾根を余り加工していないようで、幅は最大で20m程度、平均すると5m前後しかない。
【写真左】本丸跡から南東に「道竹城」を見る。
この山城は、昨年(2009)9月に取り上げた二上城の城主だった三上兵庫頭が、使い勝手が悪いとして同城を離れ、この地に築城したといわれる道竹城である。
当日、時間があればこの山城も登城しようと思ったが、桐山城で時間とエネルギーを使い果たしたため、断念した。いずれ雪のない時に登城したいと思っている。
●所在地 鳥取県岩美郡岩美町浦富
●登城日 2010年1月18日
●築城期 鎌倉末期・南北朝期
●築城者 塩冶高貞
●城主 山中鹿助、垣屋光成・恒総、鵜殿氏
●標高 203m
【写真左】桐山城遠望
浦富の浜辺からみたもので、中央の最高所が本丸跡付近。右側尾根伝いにも遺構が点在してる(後段写真参照)
◆解説(参考文献「岩美町誌」等)
この城の築城者は、前稿「加古川城跡」で少し触れている塩冶高貞といわれている。先ず、略歴については、桐山城本丸跡にあった説明板より転載する。
“桐山城について
桐山城跡は標高203mの日本海を一望できる桐山頂上にあり、郭が頂上と南東尾根に4カ所、東の谷に7カ所残っています。古くから浦富は因但国境海上交通の要所の港町でした。
築城年は、不明ですが、鹽冶(えんや)周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられます。
そして、元亀3年(1572)尼子の勇者・山中鹿助が入城。その後は垣屋光成(1万石、子の恒総まで20年間)、池田政虎(5千石、15年間)さらに、鵜殿氏(5千石)が幕末まで浦富を領しました。
この頂上までの散策道は、地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件がよければ、遠く大山や隠岐島が見えます。この素晴らしい眺望と四季折々の動植物を大切にし、ゴミ等は必ず持ち帰ってください。
平成13年3月 建”
【写真左】荒砂神社
浦富海岸西部に突き出した岩山に鎮座する神社で、草創は白鳳期(7世紀後半)。
元亀3年桐山城に入城した山中鹿助は、山名豊国を援護し鳥取城を攻略する際、当社に戦勝祈願したという。
岩美町誌によれば、「稲場民談記」にこの山城名として、「浦住木井ノ山城」と書かれ、「太閤真顕記」には「磯部の城」とも書かれているという。
また、さらに古い「岩美郡史」によると、「雲州(出雲)佐々木氏の一族、塩冶判官高貞の築く所なり。(因州の守護・山名豊国の妹婿にして但州美方郡、阿勢井城主たる塩谷肥前守あり、以て塩谷家の因但に縁故あるを察すべし」 と書かれている。
【写真左】浦富海岸
上記荒砂神社本殿北端部からみる。夏になると多くの海水浴客が訪れる風光明美なところである。
同誌によると「古い国絵図に塩谷判官高貞の草創とある」ことから、築城者が高貞であっただろうと、断定はしないものの、記している。
ただ、同誌にもあるように、では築城時期はどうなのか、という課題が出てくる。なお同文に「塩冶」と「塩谷」が混在しているが、原文のままとしている。
後醍醐天皇が興した建武の新政時は、当然地元の最大の功労者である名和長年が領知している。しかし、それもつかの間で、長年は戦死してしまう。そのあと尊氏が実質上の政権を支配するが、これまで記したように、高貞と尊氏はたもとを分かち、暦応4年(1341)高貞は高師直の讒言によって、山名時氏により追われ自害している。
【写真左】登城口付近
主な登城ルートは2つあり、この場所はおそらく一番利用されている「奥内登山口」というところである。もうひとつは、西側の「いわし山登山口」という網代地区が近いところである。
写真後方の山が桐山城。なお、この日、出雲地方はほとんど雪が解けていたことから、こちらに向かったのだが、ごらんのとおり10センチ以上の積雪があり、これまでの山城探訪で初めての雪山登山となった。
従って、高貞がこの因幡国・桐山城を築城できる時期は、その直前までとなる。さらに絞ると、長年戦死の延元元年(1336)から暦応4年(1341)の間に築城したことになる。この5年間の高貞の動きを知る資料としては、残念ながら因幡・伯耆においては今のところ史料がなく、地元出雲の神社に寄進(延元2年)、鰐淵寺衆徒の恩賞を幕府に申請(延元3年)などといったものしか見えない。
しかも、状況を考えると、高貞も後醍醐と上洛した後、しばらくは京都にいたものと思われるので、因幡・伯耆に在任している期間はさらに短くなる。このような状況を考えると、高貞自身一時的には因幡国に来ているかもしれないが、実質上の築城者は、高貞の一族がその任を負っていたのではないだろうか。
【写真左】鵜殿家墓地遠望
江戸期当城・当地を治めていた鵜殿氏の墓地。雪があるため、登城口から写真を撮ったのみとした。
さて、戦国期である。 山中鹿助が同城に入るきっかけを作ったのは、以前にも紹介した塩冶氏の子孫塩冶周防守と、奈佐日本助の働きがあったからである。
元亀3年(1572)、鹿助らは日本助らの海賊船数十隻を使って、岩美町岩本の海辺に上陸、さらに桐山城に拠って守護・山名豊国と連携し、豊国の元家臣だった武田高信を討つ。このとき鹿助は、桐山城を離れ、国府町の甑山に城を築いている。その後、豊国は以前紹介した「天神山城」から鳥取城へ移った。
天正8年(1580)、秀吉の鳥取城攻めの際は、桐山城に垣屋播磨守を入れ、但馬との繋ぎを取らせる。同年、豊国が秀吉に降ったことにより、家中では豊国を追放、毛利方より吉川経家が入城し、のちに悲運の部将として最期を遂げていく。
なお、垣屋氏の出自は、もともと山名家四天王の一人として、現在の豊岡を治めていたという。ちなみに他の三人は、太田垣(朝来郡竹田)、八木(養父郡八木)、田結庄(豊岡市山本)で、垣屋氏はこれらの筆頭格であった。
【写真左】当城の登城路案内図
平成13年に当城の整備がされたようで、地権者のご厚意で登れるようになったようだ。
登城前に、こうした案内図があるとイメージができ、一段と登る楽しみも増える。
【写真左】登城口前半のころ
写真では分かりにくいが、この山のルートはいきなり急斜面を登る設定になっている。雪が上にいくほど多くなるので、何度も足を滑らす。(普通なら、この段階で断念するのだが、せっかく遠くから来たのだからという理由づけで、連れ合いを説得させながら、進んだ)
【写真左】最初のピーク到達点から下を見る
登城口からの急斜面をのぼること10数分(雪がなければ、数分で登れるだろう)、やっと尾根始点に着く。雪があるため、遺構の確認は断定できないが、このあたりから小郭が点在しているように見えた。
【写真左】奥内側からと、いわし山側との合流点
この地点にいくまでに、すこし小高い尾根があり、そこから少し下がると、写真にある別の尾根との接合部分に差し掛かる。写真左方向が桐山城本丸方面で、右奥方向が、「いわし山」へつながる尾根が続く。
なお、この合流点は盛り上がった地形になっており、戦略的にも小郭としての役目があったものと思われる。
【写真左】いわし山に向かう尾根
方向としては西方になるが、この尾根は非常に痩せ尾根になっており、意識的に加工された可能性もある。
【写真左】桐山城方面への尾根ルート
全体に登城コースに占める尾根の長さが多く、しかも尾根幅が狭いところが多い。右側は直接日本海の風が吹き付けるところで、この日も木立が途切れた場所では、強風と冷風で長居ができない。
【写真左】途中からみた「いわし山」の山容
写真左下が網代の港。桐山城へ向かうコースよりも長いかもしれない。
【写真左】本丸北端部
本丸北端部直下は急斜面で、ロープがあるものの、足もとは雪があるため、何度も足をすくわれた。そうやって苦労の末たどり着く。その甲斐があって、眺望は抜群である。写真は北端部から南に向いて伸びる主郭の奥行
【写真左】本丸跡からみた西南方向の網代の港、さらに遠く鳥取港をかすかに見る。
これでもう少し空が澄んでいると、説明板にもあるように大山も見えるだろう。
【写真左】最初に見た浦富の街と海岸
この位置からみると、但馬の芦屋城のある浜坂の港が非常に近く感じる。塩冶周防守や奈佐日本助が船で往来していたことが非常にリアリティをもって感じられる。
【写真左】本丸中央部
積雪のため、遺構の精度が不明だが、この中央部の東側にこんもりとした高まりがある。おそらくこの位置が主郭としての位置づけだっただろう。
また、南端部には3,4段の尾根幅に沿った郭段がみえた。
頂上部での高低差はほとんどなく、南北総延長約150m前後はあると思われる。ただ基本的に尾根を余り加工していないようで、幅は最大で20m程度、平均すると5m前後しかない。
【写真左】本丸跡から南東に「道竹城」を見る。
この山城は、昨年(2009)9月に取り上げた二上城の城主だった三上兵庫頭が、使い勝手が悪いとして同城を離れ、この地に築城したといわれる道竹城である。
当日、時間があればこの山城も登城しようと思ったが、桐山城で時間とエネルギーを使い果たしたため、断念した。いずれ雪のない時に登城したいと思っている。
はじめまして。2018年3月28日に桐山城跡を歩いてみました。その後、このサイトを見つけて、歴史的な見地について学ばせていただきました。勝手ながら私の山歩き記録( https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1413692.html
返信削除)にここのURLを掲載させていただきました。
拝復
削除返事が遅くなりました。拙ブログご笑覧いただきありがとうございます。お役にたてれば幸いです。
トミー 拝