引田城跡(ひけだじょうあと)
●所在地 香川県東かがわ市 引田
●登城日 2008年4月29日
●築城期 西暦667年
●城主 四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏
●形式 海城
◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」など)
前稿に続き香川県の山城で、「多度津城」とは反対の位置(東部)にある引田城を取り上げる。
この城は、山城というより、断崖絶壁にたつ平山城もしくは、海城形式のもので、城の起源は現地の説明板によると、天智天皇の6年(667)という極めて古いものである。以下、説明板より転載する。
【写真左】現地の案内図
この場所は、瀬戸内海国立公園・城山園地という区域で、その東半分が引田城域になる。瀬戸内海の播磨灘を眼下に見るところで、さらに東に数キロ行くと、徳島県(鳴門市)と接している。
おもな遺構名としては、馬屋池、丹後丸、北の郭、櫓、玄関谷、西の郭、化粧池、石囲い、南の郭、東の郭、物見台、狼煙台跡等がある。
“引田城址
城の起源は遠く天智天皇の6年(667)11月、屋島築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城したものであるといわれ、また、屋島城(軍団)との連絡のためにできた「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったともいわれている。
この城が、内海の要塞として、代々の城主・四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となり、今は山上に石垣・土塁、そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模は分からない。
しかし、引田の住民は、この城を拠点として、事ある時は軍船を操り、水軍の衆として大活躍をなし、平時に当たっては内海はもとより、朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間、大内氏と結び、近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。
城址区域 東西250m、南北500m
引田町教育委員会”
【写真左】登城口下の駐車場
主な登城口は南北各1カ所あり、写真はその中で北側の登城口付近にある駐車場。
この駐車場は、この位置から下にあるキャンプ場用のものだが、登城口からさほど離れていない上に、駐車台数も多いため便利だ。
以上のように、このブログで取り上げてきた山城の築城時期の中では、最も古い部類に入る。天智天皇の時代というから、白鳳(飛鳥)時代である。
築城されたきっかけは、おそらく天智2年(663)に、日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍の白村江での戦いで大敗したとき、あわてて、西日本各地に造られた海城の一つと思われる。
【写真左】北の郭付近その1
登城口からしばらく歩くと、写真のような石垣をもった「北の郭」が見えてくる。
現地の説明板より
“北の郭
当城址中もっとも古い石垣の偉観が見られる場所であり、地元の和泉砂岩・礫岩を使った石垣の構造様式も、天正期の特色がよくあらわれている。
二段に築かれた上段の石垣は、南へ伸び城門跡から西の郭に続いており、一部石垣の崩れたところでは、裏ぐりに海の石を利用したと思われる丸いぐり石の露出が見られる。
北側は自然の岩山まで石垣を築き、その岩山と石垣上に近世の建物が建てられていたことを証する同時代の丸瓦が出土している。
引田町教育委員会”
【写真左】その2
【写真左】女郎島・西の郭・引田灯台方面との分岐点
このあたりから城域の中心部に差し掛かるところで、写真手前には櫓跡があり、当時の大手口がキャンプ場・西の郭の間にあった玄関谷方面と思われる。
【写真左】引田灯台
上記の位置から東に向かうと、物見台、東の郭にさしかかり、さらに東端部に足を延ばすと写真の引田灯台にたどり着く。
この灯台は昭和29年に設置されたものだが、戦国期にもおそらく同じような役目を負っていたのだろう。
この場所から突端にある「女郎島」にまつわる悲話が残されている。具体的な内容は書かれていないが、奥女中と若僧の悲恋物語「おせんごろし」の伝説という。
なお、写真にあるように、この場所から右(南)方面に向かい、化粧池、南の郭を目指した。
【写真左】化粧池
名前からして、さぞ綺麗な池と思ったが、現地は荒れ放題の湿地帯状態だった。
海岸部なので、生活する上では真水の確保は死活問題だっただろう。おそらくこの池がその役目を果たしたものと思われる。
【写真左】南の郭付近からみた引田の港と播磨灘
天気がよいと、この写真左前方に淡路島も見えるという。この景色でも十分堪能できる。
【写真左】南の郭
文字通り南側を防御する場所だが、上記写真にもあるように、播磨灘の東方や、陸路の阿波方面からの動きを監視する物見台的要素の強い郭と思われる。
現地には石碑が建っていた。
【写真左】西の郭
現地の説明板より
“西の郭・天守台・南の郭
ここは、西櫓跡といわれているところで、方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により、展望台道路の整備等をなし、現状が一部変更されている。
ここから南東方、魚の神付近に天守台、さらにその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた個所も多い。また、この付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。
その堤防は眼下南方に現存する。天守台等の建造物については、瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。 引田町教育委員会”
【写真左】狼煙台跡付近
このあたりからだんだんと下がっていく地形だが、数カ所でこうした眺望が堪能できる。
この位置にある狼煙台を考えると、引田城下の報にいち早く知らせる目的があったように思える。
【写真左】南側の登城口
最初に登城した位置より、南方(引田の街)側にあるもう一つの登城口。
結局、北側の登城口からスタートし、引田城域を周回し、南側に降りたことになる。このあと、最初に留めた駐車場まで徒歩で戻った。
なお、最初の登城口付近(北側)には、馬屋池というのもあったが、残念ながら写真に撮っていなかった。
◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)
●所在地 香川県東かがわ市 引田
●登城日 2008年4月29日
●築城期 西暦667年
●城主 四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏
●形式 海城
◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」など)
前稿に続き香川県の山城で、「多度津城」とは反対の位置(東部)にある引田城を取り上げる。
この城は、山城というより、断崖絶壁にたつ平山城もしくは、海城形式のもので、城の起源は現地の説明板によると、天智天皇の6年(667)という極めて古いものである。以下、説明板より転載する。
【写真左】現地の案内図
この場所は、瀬戸内海国立公園・城山園地という区域で、その東半分が引田城域になる。瀬戸内海の播磨灘を眼下に見るところで、さらに東に数キロ行くと、徳島県(鳴門市)と接している。
おもな遺構名としては、馬屋池、丹後丸、北の郭、櫓、玄関谷、西の郭、化粧池、石囲い、南の郭、東の郭、物見台、狼煙台跡等がある。
“引田城址
城の起源は遠く天智天皇の6年(667)11月、屋島築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城したものであるといわれ、また、屋島城(軍団)との連絡のためにできた「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったともいわれている。
この城が、内海の要塞として、代々の城主・四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となり、今は山上に石垣・土塁、そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模は分からない。
しかし、引田の住民は、この城を拠点として、事ある時は軍船を操り、水軍の衆として大活躍をなし、平時に当たっては内海はもとより、朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間、大内氏と結び、近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。
城址区域 東西250m、南北500m
引田町教育委員会”
【写真左】登城口下の駐車場
主な登城口は南北各1カ所あり、写真はその中で北側の登城口付近にある駐車場。
この駐車場は、この位置から下にあるキャンプ場用のものだが、登城口からさほど離れていない上に、駐車台数も多いため便利だ。
以上のように、このブログで取り上げてきた山城の築城時期の中では、最も古い部類に入る。天智天皇の時代というから、白鳳(飛鳥)時代である。
築城されたきっかけは、おそらく天智2年(663)に、日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍の白村江での戦いで大敗したとき、あわてて、西日本各地に造られた海城の一つと思われる。
【写真左】北の郭付近その1
登城口からしばらく歩くと、写真のような石垣をもった「北の郭」が見えてくる。
現地の説明板より
“北の郭
当城址中もっとも古い石垣の偉観が見られる場所であり、地元の和泉砂岩・礫岩を使った石垣の構造様式も、天正期の特色がよくあらわれている。
二段に築かれた上段の石垣は、南へ伸び城門跡から西の郭に続いており、一部石垣の崩れたところでは、裏ぐりに海の石を利用したと思われる丸いぐり石の露出が見られる。
北側は自然の岩山まで石垣を築き、その岩山と石垣上に近世の建物が建てられていたことを証する同時代の丸瓦が出土している。
引田町教育委員会”
【写真左】その2
【写真左】女郎島・西の郭・引田灯台方面との分岐点
このあたりから城域の中心部に差し掛かるところで、写真手前には櫓跡があり、当時の大手口がキャンプ場・西の郭の間にあった玄関谷方面と思われる。
【写真左】引田灯台
上記の位置から東に向かうと、物見台、東の郭にさしかかり、さらに東端部に足を延ばすと写真の引田灯台にたどり着く。
この灯台は昭和29年に設置されたものだが、戦国期にもおそらく同じような役目を負っていたのだろう。
この場所から突端にある「女郎島」にまつわる悲話が残されている。具体的な内容は書かれていないが、奥女中と若僧の悲恋物語「おせんごろし」の伝説という。
なお、写真にあるように、この場所から右(南)方面に向かい、化粧池、南の郭を目指した。
【写真左】化粧池
名前からして、さぞ綺麗な池と思ったが、現地は荒れ放題の湿地帯状態だった。
海岸部なので、生活する上では真水の確保は死活問題だっただろう。おそらくこの池がその役目を果たしたものと思われる。
【写真左】南の郭付近からみた引田の港と播磨灘
天気がよいと、この写真左前方に淡路島も見えるという。この景色でも十分堪能できる。
【写真左】南の郭
文字通り南側を防御する場所だが、上記写真にもあるように、播磨灘の東方や、陸路の阿波方面からの動きを監視する物見台的要素の強い郭と思われる。
現地には石碑が建っていた。
【写真左】西の郭
現地の説明板より
“西の郭・天守台・南の郭
ここは、西櫓跡といわれているところで、方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により、展望台道路の整備等をなし、現状が一部変更されている。
ここから南東方、魚の神付近に天守台、さらにその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた個所も多い。また、この付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。
その堤防は眼下南方に現存する。天守台等の建造物については、瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。 引田町教育委員会”
【写真左】狼煙台跡付近
このあたりからだんだんと下がっていく地形だが、数カ所でこうした眺望が堪能できる。
この位置にある狼煙台を考えると、引田城下の報にいち早く知らせる目的があったように思える。
【写真左】南側の登城口
最初に登城した位置より、南方(引田の街)側にあるもう一つの登城口。
結局、北側の登城口からスタートし、引田城域を周回し、南側に降りたことになる。このあと、最初に留めた駐車場まで徒歩で戻った。
なお、最初の登城口付近(北側)には、馬屋池というのもあったが、残念ながら写真に撮っていなかった。
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昼寝城(香川県さぬき市多和)
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