津和野城(つわのじょう)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町 後田・田二穂・鷲原
●登城日 2007年2月12日
●指定 国指定
●標高 367m
●築城期 永仁3年(1295)
●築城主 吉見頼行
●備考 別名 三本松城
●遺構 郭、帯郭、腰郭、石垣、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、虎口、櫓台その他
【写真左】津和野城遠望
国道9号線から見たもの。
撮影日 2017年3月11日
【写真左】津和野城遠望
東側を走る国道9号線から見たもの。
東麓の谷間に延びる津和野の街並みと、山上に残る石垣が往古を偲ばせる。
(2012年1月16日撮影)
【写真左】津和野観光リフトの下にある石碑と説明板
登城方法には、リフトに乗って尾根までたどり着く方法と、リフトより少し北に上がった位置から徒歩による方法とがある。この時は、徒歩で向かった。
◆解説(参考文献:現地説明板、「島根県遺跡データベース」「津和野郷土誌」等)
現地の説明板より
“中世山城 津和野三本松城跡
文永11年(1274)、弘安4年(1281)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。頼行は弘安5年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁3年(1295)この城山山脈に築城を始めた。
以後、吉見氏は14代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。
この山城は、天文23年(1554)の「三本松城の役」では、大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100日余の籠城戦に耐えた。
吉見氏は関ヶ原合戦(1600)で、毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。江戸期に入り、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に近世山城を築いた。(一部省略)”
【写真上】津和野城配置図
以上が当城の略歴である。
説明板にある「木曽野(木薗)」という地区は、津和野城より北北西へ約15キロ向かった場所で、山口県境(現萩市)まで北西2キロというところである。この場所が、当初本拠としたところで、吉見頼行は弘安5年(1282)から、永仁3年(1295)までの約13年間在住したことになる。
しかし、実際には、津和野城の築城後も、同地との往来はあったようで、吉見氏旧館跡である「御所屋敷」などが、嘉暦2年(1327)ごろまで使用され、頼行夫人の墓もこの地に埋まっている。
南北朝期については、以前「高津城」の稿で紹介したように、南朝方に入って活躍している。15世紀後半からは、以前にも述べたように、吉見氏VS益田氏の領有争いが始まり、応仁の乱を含め、戦国期になってもその構図は変わることがなかった。
特に、吉見正頼の代にはその激しさと、複雑さが交錯した。正頼は、当時石見守護であった大内義興の女大宮姫を室としたこともあり、陶晴賢のクーデターにより、大内義隆は正頼を頼ろうとしたが、長門大寧寺で自刃する。このため正頼は毛利元就と連絡をとり、大内氏復仇を決意する。その後の動きが、前掲「説明板」の内容である。なお、同板にある「大内」とは、大内義隆自刃後、陶晴賢は九州の大友義鎮の弟・晴英を迎えて大内氏の世継としたもので、傀儡領主であった。
【写真上】出丸跡の図
坂崎出羽守直盛が吉見氏に代わって入ったのは、慶長6年(1601)10月である。しかし、元和2年(1616)千姫事件に関連して自殺したため、同氏の治世はわずか17年間である。この後亀井氏の藩政が始まった。
【写真上】本丸跡から東方に青野山を見る
【写真上】本丸付近その1
【写真上】その2
【写真上】本丸跡付近より南方を見る
【写真上】本丸跡より津和野の街を見る(その1)
●所在地 島根県鹿足郡津和野町 後田・田二穂・鷲原
●登城日 2007年2月12日
●指定 国指定
●標高 367m
●築城期 永仁3年(1295)
●築城主 吉見頼行
●備考 別名 三本松城
●遺構 郭、帯郭、腰郭、石垣、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、虎口、櫓台その他
【写真左】津和野城遠望
国道9号線から見たもの。
撮影日 2017年3月11日
【写真左】津和野城遠望
東側を走る国道9号線から見たもの。
東麓の谷間に延びる津和野の街並みと、山上に残る石垣が往古を偲ばせる。
(2012年1月16日撮影)
【写真左】津和野観光リフトの下にある石碑と説明板
登城方法には、リフトに乗って尾根までたどり着く方法と、リフトより少し北に上がった位置から徒歩による方法とがある。この時は、徒歩で向かった。
◆解説(参考文献:現地説明板、「島根県遺跡データベース」「津和野郷土誌」等)
現地の説明板より
“中世山城 津和野三本松城跡
文永11年(1274)、弘安4年(1281)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。頼行は弘安5年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁3年(1295)この城山山脈に築城を始めた。
以後、吉見氏は14代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。
この山城は、天文23年(1554)の「三本松城の役」では、大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100日余の籠城戦に耐えた。
吉見氏は関ヶ原合戦(1600)で、毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。江戸期に入り、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に近世山城を築いた。(一部省略)”
【写真上】津和野城配置図
以上が当城の略歴である。
説明板にある「木曽野(木薗)」という地区は、津和野城より北北西へ約15キロ向かった場所で、山口県境(現萩市)まで北西2キロというところである。この場所が、当初本拠としたところで、吉見頼行は弘安5年(1282)から、永仁3年(1295)までの約13年間在住したことになる。
しかし、実際には、津和野城の築城後も、同地との往来はあったようで、吉見氏旧館跡である「御所屋敷」などが、嘉暦2年(1327)ごろまで使用され、頼行夫人の墓もこの地に埋まっている。
南北朝期については、以前「高津城」の稿で紹介したように、南朝方に入って活躍している。15世紀後半からは、以前にも述べたように、吉見氏VS益田氏の領有争いが始まり、応仁の乱を含め、戦国期になってもその構図は変わることがなかった。
特に、吉見正頼の代にはその激しさと、複雑さが交錯した。正頼は、当時石見守護であった大内義興の女大宮姫を室としたこともあり、陶晴賢のクーデターにより、大内義隆は正頼を頼ろうとしたが、長門大寧寺で自刃する。このため正頼は毛利元就と連絡をとり、大内氏復仇を決意する。その後の動きが、前掲「説明板」の内容である。なお、同板にある「大内」とは、大内義隆自刃後、陶晴賢は九州の大友義鎮の弟・晴英を迎えて大内氏の世継としたもので、傀儡領主であった。
【写真上】出丸跡の図
坂崎出羽守直盛が吉見氏に代わって入ったのは、慶長6年(1601)10月である。しかし、元和2年(1616)千姫事件に関連して自殺したため、同氏の治世はわずか17年間である。この後亀井氏の藩政が始まった。
【写真上】本丸跡から東方に青野山を見る
【写真上】本丸付近その1
【写真上】その2
【写真上】本丸跡付近より南方を見る
【写真上】本丸跡より津和野の街を見る(その1)
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