梨羽城(なしはじょう)
●所在地 広島県三原市本郷町上北方
●高さ 179m(比高150m)
●築城期 室町初期(応永年間か)
●築城者 梨羽時春
●城主 梨羽氏
●遺構 郭・竪堀・井戸など
●登城日 2014年3月25日
◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
梨羽城は、三原市本郷町上北方にあって、小早川氏の庶流・梨羽氏が築いた城である。また、南麓部から東へ向かい沼田川を少しさかのぼると、小早川氏の居城である安芸・高山城及び新高山城に繋がる。
【写真左】梨羽城遠望・その1
北西側の谷から見たもので、高山城と同じく当城の真下を山陽新幹線が走っている。
【写真左】梨羽城遠望・その2
これは反対に南東麓が見たもので、手前には梨和川が流れている。
この川を下っていく(右方向)と、沼田川にたどり着く。
現地の説明板より
“梨羽城周辺整備事業
梨羽城は梨羽氏の城で小早川9代春平の三男を初代としている。代々のお墓は今井谷にあります。
関ヶ原戦後慶長年中(1600年)長州(山口県)移転の時、城主6代の位牌を田中家(現在尾道市三成)に預けた。参勤交代等の節は墓所、田中家の位牌に参り、下北方心光寺の和尚にたのみ、供養をされることが明治維新まで行われていた。
文化財保護委員 兼保 義之
【写真左】梨羽城位置図
梨羽城の西麓付近に設置されている地図で、少し文字が小さいが、現在地付近(左側)に梨羽城、右側には高山城などが記されている。
梨羽氏系図
9代・小早川春平
↓
10代・則平
令薫
時春-潔景-元仁-景行-康平-友行-景宗(以下略)
梨羽城跡 三原市本郷町上北方
現状 山林、保存状況 完存、立地 丘陵頂部、標高 179m・比高150m
史料 芸藩通誌 巻85・92
概要
1郭は30m×25m程度の規模で、南側に2郭に通じる虎口が開く。2郭の北西下には径7mの凹みのある郭があり、井戸跡と思われる。1郭の東側には4条の、3郭の西側には2条の堀切がある。1・2郭の南側斜面には畝状空堀群がある。城主は梨羽氏と伝えられる。”
【写真左】道路脇の大きな看板
梨羽城の南麓を東西に走る道路(59号線)脇にご覧の大きな看板が設置されている。
その後ろには梨羽城登城道が見えている。
【写真左】梨羽城イメージ図
登城口一つである西麓付近に説明板が設置され、その中にご覧の絵が添えられている。
梨羽氏
説明板にもあるように、梨羽氏は小早川氏9代の春平の三男・時春を初代としている。9代の小早川春平については、以前三原市沼田東町の米山寺・小早川隆景墓でも紹介しているように、応永4年(1398)、古刹・仏通寺を開基した人物である。
春平の子には、長男・則平、二男・令薫、そして三男・時春がいた。長男・則平は、東広島市福富町上戸野にある安芸・高塚城でも触れたように、南北朝期、園城寺や東寺の寺領であった河内町・福富町を室町期に至ると、自らの所領として子息・煕平へとつないでいる。
三男・時春の生没年などははっきりしないが、父・春平や長兄・則平などの記録を見ると、梨羽氏を名乗った時期は、おそらく室町初期の応永年間(1394~1427)頃だろう。
【写真左】登城道
南西麓にある登城口付近には、北方のコミュニティセンターがあり、そこに駐車させていただいた。
そこから道路を渡ると、直ぐに登城道がある。傾斜は多少あるものの、幅約1m程度の簡易舗装が主郭直下まで施工されているので、歩きやすい。
【写真左】主郭が見えてきた。
西側から伸びる尾根を伝って進むが、途中で最初のピーク(見張櫓か)がある。このあたりから視界がぐんと広くなってくる。
【写真左】山陽新幹線
西麓に目をやると、山陽新幹線が見える。奥のトンネルを過ぎ、山を越えると竹原市に至る。
【写真左】堀切
最初に見えたもので、ここまで舗装されていると堀切のリアリティさが今一つ伝わってこないが、歩く分には助かる。
【写真左】今井谷城
南麓の梨和側をはさんで南西方向には梨羽城の支城といわれた今井谷城が見える。H:160m。
なお、この麓には梨羽氏累代の墓石がある(下段参照)。
【写真左】3郭西端部
登城道はこの辺りで尾根筋から北側斜面に代わり、簡易舗装はここまで。
写真右側の上には3郭が控えるが、その先端部にも小郭がある。
【写真左】井戸跡
北側に変わった登城道をしばらく進むと、左下の斜面に井戸跡が見えてくる。
現在は大分埋まっているが、直径約4m余とかなり大きなもの。
この位置から真上には2郭が控えている。
このあと、先ず2・3郭方面に登る。
【写真左】3郭
西に向かって細くなった三角形の郭で、奥行15m前後のもの。
【写真左】2郭
3郭の西に隣接するもので、長辺・短辺とも約15m前後の規模を持つ。
【写真左】2郭から1郭(主郭)を見上げる。
2郭天端から1郭天端までの比高差は約10m前後あるが、比較的なだらかな切崖となっている。
ここから1郭までの道は再び南側に設置されている。
【写真左】1郭に向かう階段部
北側の斜面(切崖)はかなり険しいため、こちら(南)に設置されたようだ。
【写真左】1郭(主郭)・その1
主郭は2,3郭に比べ傾斜は殆どなく、フラットな施工となっている。
長径20m×短径15m前後の規模を持つ。
なお、この写真の中央奥に見える台形状の山があるが、あるいは高山城かもしれない。
【写真左】主郭から西方に2郭・3郭を見る。
この位置からは支城の今井谷や今井谷城がよく見える。
【写真左】主郭から南東方面を俯瞰する。
この谷筋を下っていくと、沼田川本流や小早川家累代の墓所がある米山寺にたどり着く。
【写真左】畝状竪堀群
1郭及び2郭の南側には10条以上の数を誇る畝状竪堀群がある。
ただ現状は大分埋まっていて明瞭な箇所がすくなくなっている。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その1
梨羽城の南麓にあたる今井谷には今井谷城があるが、この麓に今井谷集会所がある。この写真は入口付近で、おそらく今井谷城の登城口であったと思われる。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その2
100mほど山の中に向かうと同氏累代の墓が祀られている。
●所在地 広島県三原市本郷町上北方
●高さ 179m(比高150m)
●築城期 室町初期(応永年間か)
●築城者 梨羽時春
●城主 梨羽氏
●遺構 郭・竪堀・井戸など
●登城日 2014年3月25日
◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
梨羽城は、三原市本郷町上北方にあって、小早川氏の庶流・梨羽氏が築いた城である。また、南麓部から東へ向かい沼田川を少しさかのぼると、小早川氏の居城である安芸・高山城及び新高山城に繋がる。
【写真左】梨羽城遠望・その1
北西側の谷から見たもので、高山城と同じく当城の真下を山陽新幹線が走っている。
【写真左】梨羽城遠望・その2
これは反対に南東麓が見たもので、手前には梨和川が流れている。
この川を下っていく(右方向)と、沼田川にたどり着く。
現地の説明板より
“梨羽城周辺整備事業
梨羽城は梨羽氏の城で小早川9代春平の三男を初代としている。代々のお墓は今井谷にあります。
関ヶ原戦後慶長年中(1600年)長州(山口県)移転の時、城主6代の位牌を田中家(現在尾道市三成)に預けた。参勤交代等の節は墓所、田中家の位牌に参り、下北方心光寺の和尚にたのみ、供養をされることが明治維新まで行われていた。
文化財保護委員 兼保 義之
【写真左】梨羽城位置図
梨羽城の西麓付近に設置されている地図で、少し文字が小さいが、現在地付近(左側)に梨羽城、右側には高山城などが記されている。
梨羽氏系図
9代・小早川春平
↓
10代・則平
令薫
時春-潔景-元仁-景行-康平-友行-景宗(以下略)
梨羽城跡 三原市本郷町上北方
現状 山林、保存状況 完存、立地 丘陵頂部、標高 179m・比高150m
史料 芸藩通誌 巻85・92
概要
1郭は30m×25m程度の規模で、南側に2郭に通じる虎口が開く。2郭の北西下には径7mの凹みのある郭があり、井戸跡と思われる。1郭の東側には4条の、3郭の西側には2条の堀切がある。1・2郭の南側斜面には畝状空堀群がある。城主は梨羽氏と伝えられる。”
【写真左】道路脇の大きな看板
梨羽城の南麓を東西に走る道路(59号線)脇にご覧の大きな看板が設置されている。
その後ろには梨羽城登城道が見えている。
【写真左】梨羽城イメージ図
登城口一つである西麓付近に説明板が設置され、その中にご覧の絵が添えられている。
梨羽氏
説明板にもあるように、梨羽氏は小早川氏9代の春平の三男・時春を初代としている。9代の小早川春平については、以前三原市沼田東町の米山寺・小早川隆景墓でも紹介しているように、応永4年(1398)、古刹・仏通寺を開基した人物である。
春平の子には、長男・則平、二男・令薫、そして三男・時春がいた。長男・則平は、東広島市福富町上戸野にある安芸・高塚城でも触れたように、南北朝期、園城寺や東寺の寺領であった河内町・福富町を室町期に至ると、自らの所領として子息・煕平へとつないでいる。
三男・時春の生没年などははっきりしないが、父・春平や長兄・則平などの記録を見ると、梨羽氏を名乗った時期は、おそらく室町初期の応永年間(1394~1427)頃だろう。
【写真左】登城道
南西麓にある登城口付近には、北方のコミュニティセンターがあり、そこに駐車させていただいた。
そこから道路を渡ると、直ぐに登城道がある。傾斜は多少あるものの、幅約1m程度の簡易舗装が主郭直下まで施工されているので、歩きやすい。
【写真左】主郭が見えてきた。
西側から伸びる尾根を伝って進むが、途中で最初のピーク(見張櫓か)がある。このあたりから視界がぐんと広くなってくる。
【写真左】山陽新幹線
西麓に目をやると、山陽新幹線が見える。奥のトンネルを過ぎ、山を越えると竹原市に至る。
【写真左】堀切
最初に見えたもので、ここまで舗装されていると堀切のリアリティさが今一つ伝わってこないが、歩く分には助かる。
【写真左】今井谷城
南麓の梨和側をはさんで南西方向には梨羽城の支城といわれた今井谷城が見える。H:160m。
なお、この麓には梨羽氏累代の墓石がある(下段参照)。
【写真左】3郭西端部
登城道はこの辺りで尾根筋から北側斜面に代わり、簡易舗装はここまで。
写真右側の上には3郭が控えるが、その先端部にも小郭がある。
【写真左】井戸跡
北側に変わった登城道をしばらく進むと、左下の斜面に井戸跡が見えてくる。
現在は大分埋まっているが、直径約4m余とかなり大きなもの。
この位置から真上には2郭が控えている。
このあと、先ず2・3郭方面に登る。
【写真左】3郭
西に向かって細くなった三角形の郭で、奥行15m前後のもの。
【写真左】2郭
3郭の西に隣接するもので、長辺・短辺とも約15m前後の規模を持つ。
【写真左】2郭から1郭(主郭)を見上げる。
2郭天端から1郭天端までの比高差は約10m前後あるが、比較的なだらかな切崖となっている。
ここから1郭までの道は再び南側に設置されている。
【写真左】1郭に向かう階段部
北側の斜面(切崖)はかなり険しいため、こちら(南)に設置されたようだ。
【写真左】1郭(主郭)・その1
主郭は2,3郭に比べ傾斜は殆どなく、フラットな施工となっている。
長径20m×短径15m前後の規模を持つ。
なお、この写真の中央奥に見える台形状の山があるが、あるいは高山城かもしれない。
【写真左】主郭から西方に2郭・3郭を見る。
この位置からは支城の今井谷や今井谷城がよく見える。
【写真左】主郭から南東方面を俯瞰する。
この谷筋を下っていくと、沼田川本流や小早川家累代の墓所がある米山寺にたどり着く。
【写真左】畝状竪堀群
1郭及び2郭の南側には10条以上の数を誇る畝状竪堀群がある。
ただ現状は大分埋まっていて明瞭な箇所がすくなくなっている。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その1
梨羽城の南麓にあたる今井谷には今井谷城があるが、この麓に今井谷集会所がある。この写真は入口付近で、おそらく今井谷城の登城口であったと思われる。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その2
100mほど山の中に向かうと同氏累代の墓が祀られている。
初代・時春
2代・煕平(潔景)
3代・元仁
4代・景行
5代・康平
6代・友行
2代・煕平(潔景)
3代・元仁
4代・景行
5代・康平
6代・友行
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