大津・天竺城(おおつ・てんじくじょう)
●所在地 高知県高知市大津
●別名 天竺城
●高さ 46m(比高40m)
●形態 丘城
●築城期 室町初期(応永年間か
●築城者 天竺氏
●城主 天竺氏・津野氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月18日
◆解説(参考文献 「室町幕府外様衆の基礎的研究」木下聡著(東京大学日本史学研究室紀要 第15号等)
高知港(浦戸湾)に注ぐ主だった河川には、鏡川と国分川の二つがある。このうち東方から流れる国分川には、支流・舟入川が注いでいる。そしてこの川の河口部から大津と呼ばれる地域があるが、下流部を大津乙といい、ここからさらに遡り、中流域に至ると大津甲となっている。
【写真左】二ノ段に祀られる八幡宮
当城の最高所だが、史料によればこの箇所は二ノ段とされ、その東側が詰ノ段といわれている。
大津という地名からわかるように、中世にはこのあたりも舟入川の各所に船着場が設けられ、大小さまざまな船が停泊していたものだろう。
大津・天竺城はこの大津甲という地区にあって、同川の南にある高さ約50m程の丘に築かれた城砦である。小規模な丘城であるが、当時の地勢・状況を推測すれば、水城であったと考えられる。
【写真左】北側から西端部を見る。
手前は舟入川に懸かる橋。
同川を下る(右方向)と国分川に合流し、高知港・浦戸湾にそそぐ。
【写真左】北側から中央部を見る。
この位置のほぼ中央部に主郭がある。
【写真左】北側から東端部を見る。
凡そ東西200m×南北150mの規模で、南側は細い尾根が繋がり、介良と境をなす高天ヶ原山(H:107m)が控える。
現地の説明板より
“大津天竺城跡
足利の世、土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏が居城したところで、天竺城と呼ばれた。
応仁の乱で細川氏の後だてを失い、その姿を史上から没し去るが、落城については諸説があり詳らかでない。
山上に古城八幡宮がある。”
【写真左】北側の登城口付近
主郭付近に八幡宮が祀られているので、参道でもあるが、その手前には「とさでん交通ごめん線」という電車が走っているため、先ずはこの踏切を渡らなくてはならない。
写真左には説明板と「天竺右近花氏大津城址」と刻銘された石碑が建つ。
室町幕府外様衆における天竺氏と細川氏
城主は天竺氏であったといわれている。説明板では「土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏」とされている。
天竺(てんじく)、この地名からあの「西遊記」を連想させるが、同氏の出自は、三河国幡豆郡天竺を名字の地としている(「『室町幕府外様衆の基礎的研究』木下聡 東京大学日本史学研究室紀要 第15号 2011年3月」以下『室町幕府外様衆』とする)。
【写真左】登城道(参道)の階段
写真では分かりづらいが、おそろしく急な階段である。
中央に手すりがあるから何とか登れるが、これまで登った階段の中では最も急傾斜のものだろう。
比高があまりないため、この傾斜は要害性を充分に保つものだろう。
なお、この階段を登る勇気と体力がない方には、別の道も用意されている。西側から向かうもので、こちらは緩やかとなっている。
因みに、この場所は現在の愛知県西尾市天竹町で、平安時代にこの地に中国大陸西方の渡来人が漂着し、綿が伝えられたという伝説があり、現在でもその地には「綿」を祀る天竹神社が所在しているという。
ところで、京における室町幕府を支えた組織としては、職制・地位で区分すると、相番衆・御供衆・外様衆・奉公衆などがあるが、このうち『室町幕府外様衆』によれば、奉公衆一番衆に細川天竺氏の名があり、永享年間(1429~41)に細川天竺三郎、文安年間(1444~49)に天竺駿河三郎、長享年間(1487~88)に細川天竺源命丸などの名が見える。
【写真左】詰ノ段
階段を登りきるとすぐに尾根筋となるが、ここから既に詰ノ段とされているところで、いわゆる主郭に相当する箇所である。
写真でも分かるように、現在は参道として中央部が削られているが、もともと削平されていて、南(左側)には土塁が囲繞している。
ここから奥に進む。
このころ外様衆として活躍した有力守護の細川一族は次のようなメンバーで構成されていた。
【写真左】堀切跡
詰ノ段と奥に祀られている八幡宮との間には堀切があった。現在は参道を整備したため埋められてしまっているが、南北に竪堀状の遺構を残している。
この先に冒頭で紹介している二ノ段・八幡宮がある。
備中・軽尾城主天竺氏
ところで、細川氏が守護職として領国支配をしたものとしては、土佐国以外としては備中国がある。
同国における細川氏の支配は、初期に細川頼之の末弟・満之を始めとし、その後幾多の争乱により勢力を弱め、その間、阿波細川氏や、野洲細川家などが断続的に繋いだりしているが、永正年間ごろより事実上細川氏による守護職補任はなくなってしまう。
【写真左】八幡宮本殿
最高所の二ノ段に祀られているもので、地元氏子のみなさんによって代々受け継がれているようだ。
このあと裏側(西)に廻る。
しかし、同国の中には、辛うじて細川氏の命脈を繋いだ一族もいた。その一人が軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)を居城とした備中・天竺氏である。
【写真右】軽尾城遠望
応仁の乱後、細川氏の勢力が弱まったものの、備中の軽尾城における城主として、天竺氏が戦国期に至るまで続いたのは、やはり地理的なものがあったからだろう。
この地は北に伯耆国、西に備後国を控える山深いところで、特に軽尾城の西麓は成羽川上流にあって、切り立つ溪谷が延々と続き、容易に人を寄せ付けない所である。
戦国期
さて、土佐の守護職・細川氏が応仁の乱において、当地の支配から離れることになると、天竺氏は後ろ楯を失うことになるが、それでも自力によって暫く続いたようである。
しかし、戦国期の天文13年(1544)11月20日、長宗我部国親の夜襲によって落城、当時の城主であった天竺右近守花氏は当城にて討死したとされる。
【写真左】土塁
八幡宮の南西隅に残る土塁で、石積の施工が残る。
この奥には堀切があるが、この場所からは急傾斜のため、直接行かず、一旦南側の参道まで降りて、向かうことにする。
高知市大津と愛知県西尾市天竹にある地名
先述したように大津・天竺城の所在する高知市大津の南方には、介良乙・甲があり、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)がある。
同稿でも述べているように、室町・戦国期に至ると、希義後裔として吉良氏が登場してくる。戦国期、吉良氏が活躍する場は高知市の西方、仁淀川東岸の弘岡(吉良城・春野町)だが、おそらく始祖はこの高知市介良辺りを本拠としていたのだろう。
【写真左】堀切・その1
当城最大の堀切で、右側が二ノ段(八幡宮)で、左側が三ノ段に当たる。
なお、天竺城にはこのほかの堀切としては、更に西に向かった三ノ段と四ノ段の間にもあり、詰ノ段と併せて3か所設置されている。
これに対し、前段で紹介している天竺氏元祖の地・愛知県西尾市天竹(町)付近を見てみると、天竹の東方を流れる矢作古川を境に、東岸には吉良町がある。この地は御存じ「赤穂浪士」で有名な吉良上野介の所領地・吉良荘である。
こうしてみると、土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。
【写真左】堀切・その2
先ほどの堀切を北側から見たもの。ところどころに岩塊が見える。
【写真左】三ノ段側の腰郭
三ノ段から四ノ段にかけては、ごらんのように竹が繁茂しているため分かりにくいが、三ノ段北側には腰郭が付随している。
ただ、この写真の右側から西にかけては斜面が崩落しているようで、遺構は殆ど残っていない。
【写真左】井戸跡か
西に向かう参道脇にあったもので、水の手としては、これ以上低い場所では海水が混ざるため、この附近しか確保できなかったと思われる。
【写真左】西に降りる参道
写真の右側が四ノ段に当たるが、おそらくこの参道は当時、犬走りに使われていたと思われる。
このまま降りていく。
【写真左】西側の参道
参道を降りて振り返って見たものだが、おそらく手前の宅地となっている箇所が船着場となっていて、ここから舟で舟入川を使って、出入りしていたものだろう。
下山後、再び北側に戻る。
【写真左】舟入川
右に天竺城があり、北麓を舟入川が流れる。
現地は今では陸地だが、当時は殆ど海と接近していたと思われる。
左側に見える水門は、そのための干満調整のものだろう。
【写真左】天竺神社
天竺城の東端部には、昭和60年代改築されたという天竺神社が祀られている。
この祠の後ろに、天竺右近守花氏の墓が建立されているが、その墓の裏には、
“天文13年11月20日 自刃
昭和3年2月改設 ”
と刻銘されている。
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●所在地 高知県高知市大津
●別名 天竺城
●高さ 46m(比高40m)
●形態 丘城
●築城期 室町初期(応永年間か
●築城者 天竺氏
●城主 天竺氏・津野氏
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月18日
◆解説(参考文献 「室町幕府外様衆の基礎的研究」木下聡著(東京大学日本史学研究室紀要 第15号等)
高知港(浦戸湾)に注ぐ主だった河川には、鏡川と国分川の二つがある。このうち東方から流れる国分川には、支流・舟入川が注いでいる。そしてこの川の河口部から大津と呼ばれる地域があるが、下流部を大津乙といい、ここからさらに遡り、中流域に至ると大津甲となっている。
【写真左】二ノ段に祀られる八幡宮
当城の最高所だが、史料によればこの箇所は二ノ段とされ、その東側が詰ノ段といわれている。
大津という地名からわかるように、中世にはこのあたりも舟入川の各所に船着場が設けられ、大小さまざまな船が停泊していたものだろう。
大津・天竺城はこの大津甲という地区にあって、同川の南にある高さ約50m程の丘に築かれた城砦である。小規模な丘城であるが、当時の地勢・状況を推測すれば、水城であったと考えられる。
【写真左】北側から西端部を見る。
手前は舟入川に懸かる橋。
同川を下る(右方向)と国分川に合流し、高知港・浦戸湾にそそぐ。
【写真左】北側から中央部を見る。
この位置のほぼ中央部に主郭がある。
【写真左】北側から東端部を見る。
凡そ東西200m×南北150mの規模で、南側は細い尾根が繋がり、介良と境をなす高天ヶ原山(H:107m)が控える。
現地の説明板より
“大津天竺城跡
足利の世、土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏が居城したところで、天竺城と呼ばれた。
応仁の乱で細川氏の後だてを失い、その姿を史上から没し去るが、落城については諸説があり詳らかでない。
山上に古城八幡宮がある。”
【写真左】北側の登城口付近
主郭付近に八幡宮が祀られているので、参道でもあるが、その手前には「とさでん交通ごめん線」という電車が走っているため、先ずはこの踏切を渡らなくてはならない。
写真左には説明板と「天竺右近花氏大津城址」と刻銘された石碑が建つ。
室町幕府外様衆における天竺氏と細川氏
城主は天竺氏であったといわれている。説明板では「土佐の守護代細川氏の一族・天竺右近花氏」とされている。
天竺(てんじく)、この地名からあの「西遊記」を連想させるが、同氏の出自は、三河国幡豆郡天竺を名字の地としている(「『室町幕府外様衆の基礎的研究』木下聡 東京大学日本史学研究室紀要 第15号 2011年3月」以下『室町幕府外様衆』とする)。
【写真左】登城道(参道)の階段
写真では分かりづらいが、おそろしく急な階段である。
中央に手すりがあるから何とか登れるが、これまで登った階段の中では最も急傾斜のものだろう。
比高があまりないため、この傾斜は要害性を充分に保つものだろう。
なお、この階段を登る勇気と体力がない方には、別の道も用意されている。西側から向かうもので、こちらは緩やかとなっている。
因みに、この場所は現在の愛知県西尾市天竹町で、平安時代にこの地に中国大陸西方の渡来人が漂着し、綿が伝えられたという伝説があり、現在でもその地には「綿」を祀る天竹神社が所在しているという。
ところで、京における室町幕府を支えた組織としては、職制・地位で区分すると、相番衆・御供衆・外様衆・奉公衆などがあるが、このうち『室町幕府外様衆』によれば、奉公衆一番衆に細川天竺氏の名があり、永享年間(1429~41)に細川天竺三郎、文安年間(1444~49)に天竺駿河三郎、長享年間(1487~88)に細川天竺源命丸などの名が見える。
【写真左】詰ノ段
階段を登りきるとすぐに尾根筋となるが、ここから既に詰ノ段とされているところで、いわゆる主郭に相当する箇所である。
写真でも分かるように、現在は参道として中央部が削られているが、もともと削平されていて、南(左側)には土塁が囲繞している。
ここから奥に進む。
このころ外様衆として活躍した有力守護の細川一族は次のようなメンバーで構成されていた。
- 細川奥州家 細川和氏の子・業氏を祖とする。
- 細川宍草 南北朝期斯波氏家臣で守護代を務めた細川鹿草の系譜か。
- 細川天竺・弥六 (本稿)
- 細川観音寺 讃岐国観音寺を名字の地とする細川一族か。
- 細川駿河守 永享年間に活躍した氏家が最初の駿河守、鎌倉期に分家したものか。
- 細川伊予守 細川伊予守賢氏など
- 細川土佐守 細川氏系譜では詳細不明。
【写真左】堀切跡
詰ノ段と奥に祀られている八幡宮との間には堀切があった。現在は参道を整備したため埋められてしまっているが、南北に竪堀状の遺構を残している。
この先に冒頭で紹介している二ノ段・八幡宮がある。
備中・軽尾城主天竺氏
ところで、細川氏が守護職として領国支配をしたものとしては、土佐国以外としては備中国がある。
同国における細川氏の支配は、初期に細川頼之の末弟・満之を始めとし、その後幾多の争乱により勢力を弱め、その間、阿波細川氏や、野洲細川家などが断続的に繋いだりしているが、永正年間ごろより事実上細川氏による守護職補任はなくなってしまう。
【写真左】八幡宮本殿
最高所の二ノ段に祀られているもので、地元氏子のみなさんによって代々受け継がれているようだ。
このあと裏側(西)に廻る。
しかし、同国の中には、辛うじて細川氏の命脈を繋いだ一族もいた。その一人が軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)を居城とした備中・天竺氏である。
【写真右】軽尾城遠望
応仁の乱後、細川氏の勢力が弱まったものの、備中の軽尾城における城主として、天竺氏が戦国期に至るまで続いたのは、やはり地理的なものがあったからだろう。
この地は北に伯耆国、西に備後国を控える山深いところで、特に軽尾城の西麓は成羽川上流にあって、切り立つ溪谷が延々と続き、容易に人を寄せ付けない所である。
戦国期
さて、土佐の守護職・細川氏が応仁の乱において、当地の支配から離れることになると、天竺氏は後ろ楯を失うことになるが、それでも自力によって暫く続いたようである。
しかし、戦国期の天文13年(1544)11月20日、長宗我部国親の夜襲によって落城、当時の城主であった天竺右近守花氏は当城にて討死したとされる。
【写真左】土塁
八幡宮の南西隅に残る土塁で、石積の施工が残る。
この奥には堀切があるが、この場所からは急傾斜のため、直接行かず、一旦南側の参道まで降りて、向かうことにする。
高知市大津と愛知県西尾市天竹にある地名
先述したように大津・天竺城の所在する高知市大津の南方には、介良乙・甲があり、以前紹介した源希義墓所(高知県高知市介良)がある。
同稿でも述べているように、室町・戦国期に至ると、希義後裔として吉良氏が登場してくる。戦国期、吉良氏が活躍する場は高知市の西方、仁淀川東岸の弘岡(吉良城・春野町)だが、おそらく始祖はこの高知市介良辺りを本拠としていたのだろう。
【写真左】堀切・その1
当城最大の堀切で、右側が二ノ段(八幡宮)で、左側が三ノ段に当たる。
なお、天竺城にはこのほかの堀切としては、更に西に向かった三ノ段と四ノ段の間にもあり、詰ノ段と併せて3か所設置されている。
これに対し、前段で紹介している天竺氏元祖の地・愛知県西尾市天竹(町)付近を見てみると、天竹の東方を流れる矢作古川を境に、東岸には吉良町がある。この地は御存じ「赤穂浪士」で有名な吉良上野介の所領地・吉良荘である。
こうしてみると、土佐の天竺・吉良(介良)、三河の天竹(天竺)・吉良とほぼ同じ地名が隣接して所在していることになる。これは単なる偶然ではないだろう。明らかに両国当該地との密接な関連があったものと考えられるが、残念ながら詳細は分からない。
【写真左】堀切・その2
先ほどの堀切を北側から見たもの。ところどころに岩塊が見える。
【写真左】三ノ段側の腰郭
三ノ段から四ノ段にかけては、ごらんのように竹が繁茂しているため分かりにくいが、三ノ段北側には腰郭が付随している。
ただ、この写真の右側から西にかけては斜面が崩落しているようで、遺構は殆ど残っていない。
【写真左】井戸跡か
西に向かう参道脇にあったもので、水の手としては、これ以上低い場所では海水が混ざるため、この附近しか確保できなかったと思われる。
【写真左】西に降りる参道
写真の右側が四ノ段に当たるが、おそらくこの参道は当時、犬走りに使われていたと思われる。
このまま降りていく。
【写真左】西側の参道
参道を降りて振り返って見たものだが、おそらく手前の宅地となっている箇所が船着場となっていて、ここから舟で舟入川を使って、出入りしていたものだろう。
下山後、再び北側に戻る。
【写真左】舟入川
右に天竺城があり、北麓を舟入川が流れる。
現地は今では陸地だが、当時は殆ど海と接近していたと思われる。
左側に見える水門は、そのための干満調整のものだろう。
【写真左】天竺神社
天竺城の東端部には、昭和60年代改築されたという天竺神社が祀られている。
この祠の後ろに、天竺右近守花氏の墓が建立されているが、その墓の裏には、
“天文13年11月20日 自刃
昭和3年2月改設 ”
と刻銘されている。
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土佐・中村城・その2(高知県四万十市中村丸之内)
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