本山城(もとやまじょう)
●所在地 高知県長岡郡本山町本山
●高さ 372m(比高120m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 八木氏(吉良氏庶流)か
●城主 本山養明・清茂・辰茂、及び長宗我部氏
●指定 町指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月17日
◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
本山城は、前稿土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)の南麓を走る国道439号線を、東に約10キロほど向かった本山町本山に所在する。
【写真左】本山城遠望
北麓にある本山土居跡から見たもの。なお、本山土居跡は次稿で紹介する予定である。
現地の説明板より・その1
“ 田井山の東端近く北にのびた尾根の先端部を利用した中世の山城跡・詰ノ段・二ノ段、三ノ段と小さな郭一つが残るが、土塁などの遺構は残っていず、三ノ段西方部はかつて射的場として造成されたものである。
詰ノ段南下の尾根には、幅20mの堀切が残っている。土佐の戦国七雄の一、本山氏の城であるが、築城年代ははっきりしない。
【写真左】本山城及び十二所神社案内図
北麓の本山町内に設置されているもので、現在地と書かれた所から、南に真っ直ぐ行くと、十二所神社(②)があり、その脇から西に向かって山を目指すと本山城がある。
ただ、この案内図はこの箇所にしかないため、十二所神社にいきなり行くと、本山城の方向が分からなくなるかもしれない。
本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとも(「南路志」ほか)、平氏であるとも(「土佐名家系譜」)・但馬(兵庫県)国造八木氏とも(「本山城懐古史」)いうが、いずれも決め手を欠く。
平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏が、のちに地名にちなんで本山氏を名乗ったものであろう。
【写真左】十二所神社参道
ご覧の通りほぼ直線の坂道だが、街中も含め幅員が狭いので、慎重な運転が必要。
運転に自信のない方は、街のほうに観光用の駐車場があったと思われるので、そこに停めて歩いて向かわれることをお勧めする。
なお、十二所神社については後段で紹介したい。本山城はこの写真でいえば右側にある。
戦国時代、養明次いで清茂(茂宗・梅慶・梅渓と号す)が出て、嶺北地方一帯に勢力をのばし、やがて南の高知平野に進出、土佐郡朝倉城(現高知市)を築いてここに移り、本山城は子の茂辰に委ねた。
朝倉城に拠った清茂は、天文年間(1532~55)、現在の高知市域の支配を確立するとともに、機をみて荒倉山を越えて弘岡(現吾川郡春野町)に進出して、吉良氏を滅ぼし、更に仁淀川を渡って高岡郡に兵を出した。
こうして西は幡多郡中村(現中村市の一条氏、東は長岡郡岡豊(現南国市)の長宗我部氏と対峙することとなった。
【写真左】本山城へ向かう。
十二所神社の手前に西に向かう道がある。少し行くと「城山の森・展望所」などと書かれた看板があるが、そこをスル―して道なりに向かう。
天文24年(1555)、清茂が没し茂辰があとを継いだが、永禄3年(1560)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧船を襲ったことから、本山・長宗我部両氏の土佐中原をめぐる戦いが本格化し、吾川郡長浜(現高知市)の戦・土佐郡朝倉の朝倉合戦を経て、長宗我部氏の圧迫に耐えきれなくなった茂辰は、永禄6年朝倉城をすてて、本山に退いた。
【写真左】城域に入る。
本山城は南北に伸びる尾根先端部に築かれており、南北に長く東西幅は短い。
写真は、そのうち北端部最下段に当たる郭の一部で、東・北・西へと回り込んだ形となるため、帯郭といえる。
本山城は要害の地にあるとはいえ、相次ぐ長宗我部氏の攻撃は本山家中に動揺と離反を引き起こし、茂辰は没し、子の親茂が防戦に努めたが、ついに長宗我部氏の軍門に降った。
本山氏が長宗我部氏の配下に入った年についてははっきりしないが、元亀元年(1570)とも、元亀2年ともいわれている。”
【写真左】本山城から北方に本山の街並みを見る。
当城の主要部からは眺望は期待できないが、東側の入り口付近からは本山の街並みが少し見える。
吉野川は特にこの箇所で大きく蛇行している。
本山氏の出自
説明板にもあるように、築城者である本山氏の出自については不明な点が多いが、この説明板では「平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏」がのちに当地名から本山氏を名乗ったのではないかとしている。
八木氏といえば、説明板にもあるように、但馬(兵庫県)の八木氏が思い起こされる。
以前紹介した八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、さらには但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)でも、八木氏及び朝倉氏が出てくる。
こうしてみると、但馬国の八木氏と、そこから遠い土佐国にあった本山氏(八木氏)との間に、何らかの接点があったのかもしれない。
【写真左】北側最下段の帯郭
説明板にある「三ノ段」という箇所に当たるが、実際は細かく見ると、4段の構成となっている。
長さは周囲を取り巻くのでもっとも規模が大きい。なお、この写真では右側が北を示し、左側(南側)上部に本丸が控える。
安芸(高知)朝倉に進出
ところで、前段で紹介した説明板は街中に設置されたものだが、これとは別に本山城の二ノ段付近にもある。本山氏がのちに安芸・朝倉に進出し、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)を築城した経緯も書かれている。
内容は重複する箇所もあるが、全文を紹介しておきたい。
現地の説明板より・その2
“この地の豪族本山氏の居城跡で、標高は377.5m、町並みからの比高ほぼ130mの所に詰の段を構える山城である。
土佐の戦国時代、本山養明、茂宗(梅慶)、茂辰と隆盛をきわめ、「土佐戦国の7守護」の一人に数えられた。1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
【写真左】安芸・朝倉城
所在地:高知市朝倉字城山 写真:本丸附近。別名・重松城。
本山梅慶が天文年間中に土佐中央部を支配し、同9年(1540)ここに移ったとされ、永禄3年(1560)頃より始まった長宗我部氏との攻防が約3年続き、死守困難とみた梅慶の嫡男・茂辰(しげとき)は、同6年(1563)1月、城を焼いて、本拠・本山城に退去した。
しかし、長宗我部氏との激しい攻防戦に敗れ、本山城に撤退、さらに瓜生野城に退き、1571年に降った。
山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、もとの形をそこねているが、詰の段南尾根の堀切と、その西側斜面にのびる竪堀は原形をとどめている。また堀切から尾根を38mほど登ったところに小規模な堀切も確認できる。”
【写真左】石積
射的場として使われたというが、いつのころだろうか。
土佐七雄と本山氏
さて戦国期における本山氏についてはこれまで、高知市朝倉にあった朝倉城でも紹介しているので、改めてご覧いただきたいが、土佐七雄の1人とされている。
◎土佐七雄の一族名称と当時の本貫地
一族名称 おもな支配地
●所在地 高知県長岡郡本山町本山
●高さ 372m(比高120m)
●築城期 鎌倉初期か
●築城者 八木氏(吉良氏庶流)か
●城主 本山養明・清茂・辰茂、及び長宗我部氏
●指定 町指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月17日
◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
本山城は、前稿土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)の南麓を走る国道439号線を、東に約10キロほど向かった本山町本山に所在する。
【写真左】本山城遠望
北麓にある本山土居跡から見たもの。なお、本山土居跡は次稿で紹介する予定である。
現地の説明板より・その1
“ 田井山の東端近く北にのびた尾根の先端部を利用した中世の山城跡・詰ノ段・二ノ段、三ノ段と小さな郭一つが残るが、土塁などの遺構は残っていず、三ノ段西方部はかつて射的場として造成されたものである。
詰ノ段南下の尾根には、幅20mの堀切が残っている。土佐の戦国七雄の一、本山氏の城であるが、築城年代ははっきりしない。
【写真左】本山城及び十二所神社案内図
北麓の本山町内に設置されているもので、現在地と書かれた所から、南に真っ直ぐ行くと、十二所神社(②)があり、その脇から西に向かって山を目指すと本山城がある。
ただ、この案内図はこの箇所にしかないため、十二所神社にいきなり行くと、本山城の方向が分からなくなるかもしれない。
本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとも(「南路志」ほか)、平氏であるとも(「土佐名家系譜」)・但馬(兵庫県)国造八木氏とも(「本山城懐古史」)いうが、いずれも決め手を欠く。
平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏が、のちに地名にちなんで本山氏を名乗ったものであろう。
【写真左】十二所神社参道
ご覧の通りほぼ直線の坂道だが、街中も含め幅員が狭いので、慎重な運転が必要。
運転に自信のない方は、街のほうに観光用の駐車場があったと思われるので、そこに停めて歩いて向かわれることをお勧めする。
なお、十二所神社については後段で紹介したい。本山城はこの写真でいえば右側にある。
戦国時代、養明次いで清茂(茂宗・梅慶・梅渓と号す)が出て、嶺北地方一帯に勢力をのばし、やがて南の高知平野に進出、土佐郡朝倉城(現高知市)を築いてここに移り、本山城は子の茂辰に委ねた。
朝倉城に拠った清茂は、天文年間(1532~55)、現在の高知市域の支配を確立するとともに、機をみて荒倉山を越えて弘岡(現吾川郡春野町)に進出して、吉良氏を滅ぼし、更に仁淀川を渡って高岡郡に兵を出した。
こうして西は幡多郡中村(現中村市の一条氏、東は長岡郡岡豊(現南国市)の長宗我部氏と対峙することとなった。
【写真左】本山城へ向かう。
十二所神社の手前に西に向かう道がある。少し行くと「城山の森・展望所」などと書かれた看板があるが、そこをスル―して道なりに向かう。
天文24年(1555)、清茂が没し茂辰があとを継いだが、永禄3年(1560)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧船を襲ったことから、本山・長宗我部両氏の土佐中原をめぐる戦いが本格化し、吾川郡長浜(現高知市)の戦・土佐郡朝倉の朝倉合戦を経て、長宗我部氏の圧迫に耐えきれなくなった茂辰は、永禄6年朝倉城をすてて、本山に退いた。
【写真左】城域に入る。
本山城は南北に伸びる尾根先端部に築かれており、南北に長く東西幅は短い。
写真は、そのうち北端部最下段に当たる郭の一部で、東・北・西へと回り込んだ形となるため、帯郭といえる。
本山城は要害の地にあるとはいえ、相次ぐ長宗我部氏の攻撃は本山家中に動揺と離反を引き起こし、茂辰は没し、子の親茂が防戦に努めたが、ついに長宗我部氏の軍門に降った。
本山氏が長宗我部氏の配下に入った年についてははっきりしないが、元亀元年(1570)とも、元亀2年ともいわれている。”
【写真左】本山城から北方に本山の街並みを見る。
当城の主要部からは眺望は期待できないが、東側の入り口付近からは本山の街並みが少し見える。
吉野川は特にこの箇所で大きく蛇行している。
本山氏の出自
説明板にもあるように、築城者である本山氏の出自については不明な点が多いが、この説明板では「平安時代の末に当地に入り、吾橋庄の地頭職などを足がかりとして成長した八木氏」がのちに当地名から本山氏を名乗ったのではないかとしている。
八木氏といえば、説明板にもあるように、但馬(兵庫県)の八木氏が思い起こされる。
以前紹介した八木城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)、さらには但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)でも、八木氏及び朝倉氏が出てくる。
こうしてみると、但馬国の八木氏と、そこから遠い土佐国にあった本山氏(八木氏)との間に、何らかの接点があったのかもしれない。
【写真左】北側最下段の帯郭
説明板にある「三ノ段」という箇所に当たるが、実際は細かく見ると、4段の構成となっている。
長さは周囲を取り巻くのでもっとも規模が大きい。なお、この写真では右側が北を示し、左側(南側)上部に本丸が控える。
安芸(高知)朝倉に進出
ところで、前段で紹介した説明板は街中に設置されたものだが、これとは別に本山城の二ノ段付近にもある。本山氏がのちに安芸・朝倉に進出し、朝倉城(高知県高知市朝倉字城山)を築城した経緯も書かれている。
内容は重複する箇所もあるが、全文を紹介しておきたい。
現地の説明板より・その2
“この地の豪族本山氏の居城跡で、標高は377.5m、町並みからの比高ほぼ130mの所に詰の段を構える山城である。
土佐の戦国時代、本山養明、茂宗(梅慶)、茂辰と隆盛をきわめ、「土佐戦国の7守護」の一人に数えられた。1527年頃には現在の高知市朝倉に進出し、朝倉城を拠点にほぼ20年間土佐中原を支配した。
【写真左】安芸・朝倉城
所在地:高知市朝倉字城山 写真:本丸附近。別名・重松城。
本山梅慶が天文年間中に土佐中央部を支配し、同9年(1540)ここに移ったとされ、永禄3年(1560)頃より始まった長宗我部氏との攻防が約3年続き、死守困難とみた梅慶の嫡男・茂辰(しげとき)は、同6年(1563)1月、城を焼いて、本拠・本山城に退去した。
しかし、長宗我部氏との激しい攻防戦に敗れ、本山城に撤退、さらに瓜生野城に退き、1571年に降った。
山城の遺構は総じて各曲輪とも後世の手が入り、もとの形をそこねているが、詰の段南尾根の堀切と、その西側斜面にのびる竪堀は原形をとどめている。また堀切から尾根を38mほど登ったところに小規模な堀切も確認できる。”
【写真左】石積
射的場として使われたというが、いつのころだろうか。
土佐七雄と本山氏
さて戦国期における本山氏についてはこれまで、高知市朝倉にあった朝倉城でも紹介しているので、改めてご覧いただきたいが、土佐七雄の1人とされている。
◎土佐七雄の一族名称と当時の本貫地
一族名称 おもな支配地
- 本山氏 長岡郡
- 長宗我部氏 長岡郡
- 大平氏 高岡郡
- 津野氏 高岡郡
- 香宗我部氏 香美郡
- 吉良氏 吾川郡
- 安芸氏 安芸郡
【写真左】三ノ段
西側に廻り、左側の二ノ段を見たもの。
このあと、東(左)に戻り二ノ段に向かう。
【写真左】二ノ段
【写真左】二ノ段から一ノ段へ向かう
当日の踏査は順を追って進んだものでないため、写真の位置が今一つ整理できていないが、二ノ段の西側から繋がる坂道で、一ノ段に繋がる。
石積された階段跡のようだ。
【写真左】一ノ段
この奥にはさらに高さ1.5m程高くなった小郭状のものがある。
【写真左】主郭・その1
この郭を含めると、下段から数えて4つの段が構成されている。
【写真左】主郭・その2
石碑
「大正元年十一月建立」と刻まれている石碑だが、その下の石積もこの時期のものだろう。
【写真左】南側から主郭を見上げる
主郭の南に続く尾根は一旦ここで断ち切られている。
ここからの比高は10m以上はあるだろう。
【写真左】本山土居跡
本山城の北麓には、本山氏の土居跡とされる「本山土居」が見える。
天正17年(1586)当時は、本山采女が住んでいたという。
土居跡については次稿で改めて紹介したい。
なお、本山城の北麓から西へ500m程向かったところに「山内刑部墓所」があるとの標識をみつけたが、この日はむかっていない。
山内刑部は山内一豊の一族だろうか。
このあと、本山城から西に回り、麓に出て再び下の方から登城始点の十二所神社に戻る。
【写真左】十二所神社
本山城の北麓側から登城始点である十二所神社にもどるべく、あぜ道のようなところを歩く。
縁起を見ると、今から800年以上前にはすでにあったというから古刹である。
“『十二所神社』
うっ蒼たる巨杉老樹に囲まれたこの神域に鎮座する神社の祭神は、伊弉册尊・速玉男命・事解男之命・天照大御神・天忍穂耳尊・彦火瓊々杵尊・彦火火出見命・鸕鵜草不合尊・軻遇突知命・埴山姫命・岡象女命・稚産霊命の十二柱を祀る。
当社の沿革は「長徳寺文書」承元2年(1209、鎌倉前期)の「十二所、供田」が初見で、建治2年(1276)、弘安11年(1288)正月、同年2月及び応安7年(1374)等の古文書がある。
殊に弘安11年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、その創建が古代であることを記録している。
『土佐州郡志』に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて帰全山に鎮座して居たことが示されている。
戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15年5月に再建され、寛永15年(1638)12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷る。
明治元年、十二所大権現を十二所神社と改称した。
明治41年、本山字番匠屋敷に鎮座の若宮神社。同、東土居の地主神社。同、野々田の稲荷神社。同、帰全山の別宮神社。及び西山鎮座、天満宮の五社が本殿に合祀された。大正9年11月郷社に列せらる。
年間祭事 ⋇夏祭 旧暦 6月8日 ⋇例大祭・護神幸祭 11月23日
平成23年度 住民生活に光をそそぐ交付金事業
本山町教育委員会”
主郭の南に続く尾根は一旦ここで断ち切られている。
ここからの比高は10m以上はあるだろう。
【写真左】本山土居跡
本山城の北麓には、本山氏の土居跡とされる「本山土居」が見える。
天正17年(1586)当時は、本山采女が住んでいたという。
土居跡については次稿で改めて紹介したい。
なお、本山城の北麓から西へ500m程向かったところに「山内刑部墓所」があるとの標識をみつけたが、この日はむかっていない。
山内刑部は山内一豊の一族だろうか。
このあと、本山城から西に回り、麓に出て再び下の方から登城始点の十二所神社に戻る。
【写真左】十二所神社
本山城の北麓側から登城始点である十二所神社にもどるべく、あぜ道のようなところを歩く。
縁起を見ると、今から800年以上前にはすでにあったというから古刹である。
“『十二所神社』
うっ蒼たる巨杉老樹に囲まれたこの神域に鎮座する神社の祭神は、伊弉册尊・速玉男命・事解男之命・天照大御神・天忍穂耳尊・彦火瓊々杵尊・彦火火出見命・鸕鵜草不合尊・軻遇突知命・埴山姫命・岡象女命・稚産霊命の十二柱を祀る。
当社の沿革は「長徳寺文書」承元2年(1209、鎌倉前期)の「十二所、供田」が初見で、建治2年(1276)、弘安11年(1288)正月、同年2月及び応安7年(1374)等の古文書がある。
殊に弘安11年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、その創建が古代であることを記録している。
『土佐州郡志』に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて帰全山に鎮座して居たことが示されている。
戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15年5月に再建され、寛永15年(1638)12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷る。
明治元年、十二所大権現を十二所神社と改称した。
明治41年、本山字番匠屋敷に鎮座の若宮神社。同、東土居の地主神社。同、野々田の稲荷神社。同、帰全山の別宮神社。及び西山鎮座、天満宮の五社が本殿に合祀された。大正9年11月郷社に列せらる。
年間祭事 ⋇夏祭 旧暦 6月8日 ⋇例大祭・護神幸祭 11月23日
平成23年度 住民生活に光をそそぐ交付金事業
本山町教育委員会”
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