2009年1月19日月曜日

田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)

田内城(たうちじょう)

●登城日 2008年2月3日
●所在地 鳥取県倉吉市 巌城
●築城期 建武4年(1337)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 山名時氏
●標高 40m前後か
●遺跡の現状 本丸跡 郭等

◆解説
 場所は、倉吉市市街を流れる天神川と、小鴨川が合流する地点で、小鴨川西岸にそそり立つ大岩(巌城・いわき)の上部に建っている。
 この城の概要については、現地本丸跡に設置された説明板によると、下記のとおり。

“ 田内城は、今を去ること六百五十年、山名時氏公(1299-1371)約二十年間の居城であった。
 公は、清和源氏の名流で、上野国多胡郡山名(群馬県高崎市山名町)の出身で、全国六十六か国のうち十二ヶ国を領し六分一殿と称せられる程の隆盛を見た南北朝時代の知勇兼備の武将で、侍所長官として幕政にも重きをなした。


 建武四年(1337)伯耆守護に任ぜられ、その治所としたのが、この仙石山頂に築いた田内城である。急峻な岩山で、東の山裾には国府小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」といわれる程に繁栄した。


 時氏公の嫡子師義公は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、当城は廃城となった。
 この遺跡は簡素で、小規模な山城の元の形を今によく残しているが、当時の建物の姿は明らかでないので、後世の諸城を参考にして櫓風に造ったものである。 ”(以上)

【写真左】田内城登山口
登山口は西側と北側(東側)の二つあり、写真は西側付近で、すぐ左には「オムロン」の工場がある。








【写真左】本丸跡地南側の巨石に掘られた南無阿弥陀仏の大文字。 江戸時代に倉吉の町民が天文13年の大洪水による死者を供養するために刻んだものと伝えられている。
 この山を含めた後ろに控える山も、こうした巨石が多く、切り立ったものが不揃いに並んでいる。 特にこの岩などは、地震が起きたらひっくり返るのではないかと思われるような様相を見せている。


【写真左】本丸跡にある模擬天守
 本丸跡そのものの大きさはコンパクトで、地形上からもこれ以上大きくはできない。現在はどちらかといえば、公園のような用途になっているが、あまり使用されているとは言い難い状況だ。
【写真左】本丸付近から北方向へ下りる途中にあった二の丸の標識。
 規模はさほど大きくはないが、遺構の保存度は割といい状態で、草木を整理すれば相当はっきりと形状が見て取れると思う。

 このほかに、さらに下に行くと三の丸などがあり、現在は郭跡に不揃いな墓地が点在している。なお、このときは訪れていないが、田内城から小鴨川の川土手を上って600m程度行き、特養ホームから山に向かっていくと、「山名寺」という寺がある。

 南海宝州を開山として、延文4年(1359)伯耆守護山名時氏が自分の菩提寺として建立した大雄山光孝寺の跡とのこと。機会があったら訪れてみたい。

【写真左】本丸跡から小鴨川上流部を見る。
確認はしていないが、この写真に見えるどちらかが、吹城のある打吹山(右の山か)と思われる。








◆まとめ
 説明板によると、山名時氏は建武4年に当地に守護として現在の群馬高崎から下向している。
 参考のため、山名氏の動きを記しておく。

◆この山名氏は、太平記特有のめまぐるしい動きの流れの中で、多くの武将の中でも時流にうまく乗った方といえる。
 とくにこのころは、時氏(ときうじ)がその真っ只中にあり、彼の時代に山名氏の基礎がある程度できたといってもいい。

 山名氏の詳細な動きについては、太平記等関係資料をご覧いただいて、山陰で関係する部分として取り上げたいことは、出雲の守護・塩冶高貞を自害に追い込んだ人物が、この時氏であることである。

◆建武4年(1337年)7月、これまでの軍功に対して時氏は、伯耆守護に補任された。この時点で、山名氏がいわば、メジャーな武将として認知されたことになる。

 続いて室町幕府創立の功労者であり、出雲・隠岐両国の守護職塩冶高貞が、幕府執事高師直と対立し、暦応4年(1341年)に尊氏に討伐を受けた。 その際に出雲に戻り立て篭もろうとした高貞を、時氏とその子師義が追って出雲白石で自害させた。この功によって時氏は出雲・隠岐、さらに丹後の守護職に補任されたが、出雲・隠岐の守護は3年ほどで佐々木高氏(導誉)に交代した。 この交代は康永2年(1343年)8月のことであったが、それに代わって同年12月には仁木頼章の後の丹波守護となっている。
 
 その後の動きについては、他の文献資料に書かれているので、この稿では省略する。


◆ということで、この城を築城した山名時氏が、出雲の塩冶高貞を追って自刃させた張本人であることを思うと、何とも感慨深いものがある。

 ちなみに、山名時氏、師氏父子が300騎を引きつれ、現在の島根県安来市まで追ってきたが、ここでいったん、出雲国中にフレを出して、「彼の首を持ってきた者には、官職・身分を問わず、恩賞をとらせる」という作戦に出た。これを聞いた地元の武将や、高貞の縁者までもがそれに乗せられ、彼はいよいよ孤立無援の状態になった。

◆壮絶な自害の理由は、愛妻の自刃もあるが、むしろ地元の武将たちが、上記のように恩義を忘れ、懸賞金に目がくらみ、信頼していた人たちまでが、刃(やいば)を抜いて自分を待ち伏せているということに、大きなショックを受けたこと、これが最大の理由かもしれない。

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