◆歴史の調べ物をする際、いつもの癖でどうしてもスポット的な記録・記事を追ってしまい、全体の流れを体系的に読むというスタンスがいまだにできない。そんなことから、知識はいつも「つまみぐい」の感が拭いきれない。
平成15年10月 塩冶クラブ”
以上。
どちらにせよ、大廻城が、「城跡・山城」であることは、間違いないので、今後改定の際、データに入れて欲しいものである。
◆山城を訪ねる際も、そのときいろいろな情報を調べている際に、たまたま目にとまり、気になったものから訪ねて行くので、前後の関係もあまり考慮していない。いわばその時、その時が、「一点主義」で、目指す山城の登城を成就すれば、それで満足してしまう。
★さて、今回はそうしたことを多少は改善すべく、前回登場した山城探訪の続編として、出雲市にある「塩冶氏」関係の史跡について、少し踏み込んで取り上げたい。
前回、塩冶高貞を中心として、城跡は「半分(はんぶ)城」、塩冶氏館跡などを取り上げたが、今回は塩冶氏初期の居城といわれている「大廻(だいさこ)城」と、塩冶氏を祀る「塩冶神社」などを取り上げる。
(1)大廻城
●所在地 島根県出雲市塩冶町 登城日2009年1月26日
“大廻城
この上の小高い山が大廻城跡です。おもな郭が3か所あって、土塁などが残っています。
今から約800年前、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられました。その孫・頼泰が弘安年間(1280~)に築いたのが、大廻城だと伝えられています。
この上の小高い山が大廻城跡です。おもな郭が3か所あって、土塁などが残っています。
今から約800年前、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられました。その孫・頼泰が弘安年間(1280~)に築いたのが、大廻城だと伝えられています。
頼泰は塩冶郷に守護所を移し、地名を氏とし「塩冶頼泰」と名乗りました。
それから約50年後、南北朝の争乱の時、塩冶判官高貞(頼泰の孫:筆者注)が活躍したことは世に有名です。城跡南麓には高貞を弔った頓覚寺(とんかくじ)跡があり、、上塩冶築山には高貞社跡があります。
高貞は、江戸時代の劇作家・竹田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。
高貞は、江戸時代の劇作家・竹田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。
平成15年10月 塩冶クラブ”
以上。
上の写真は、城郭南の民家が麓にある位置から撮ったもの。
下の2枚は、郭(本丸?)から東南下斜面のもの。
◆ところで、島根県の山城関係のデータを調べる際、いつも活用しているのが「島根県遺跡データベース」だが、どうしたわけか、この大廻城についてはデータに入っておらず、腑に落ちない。単純な記載漏れなのか、それともこの史跡を山城と認めていないのだろうか。
◆確かに、塩冶氏の山城として最も大きい「半分城」よりはその規模において、1/3にも満たない。もしそれが理由だとすれば、同程度の「向山城」も同じことになるが、こちらは取り上げている。
ただ、藤岡大拙氏によれば、塩冶氏の守護所として大廻城には異説(現:大井谷城=大廻城とする)もある、とのこと。
どちらにせよ、大廻城が、「城跡・山城」であることは、間違いないので、今後改定の際、データに入れて欲しいものである。
◆大廻城の現状は写真のように、周辺には杉の木が植えられ、上部方向の傾斜部は雑木が生えている。下の道のわきにりっぱな説明看板があったので、当然要所ごとに矢印などがあるかと期待していたが、周辺をウロウロするものの、そのようなものが全くない。
◆仕方がないので、藪状の隙間から入っていくと、急傾斜の部分のみで、上の郭に上れるようなものが見当たらない。しかも、このときももう一人?の相棒(四足のトミー)が、このあたりから盛んに登るのを拒否し出す。こういうときは大体、ほかの獣(タヌキか、野犬)がいる場合が多く、その上雨が降り出してきたので、残念ながらここで断念した。
◆今回は案内板のある坂道(南側)から歩いて行ったが、案外北側に登り口があるかもしれないので、次回は天気のいい日にじっくりと挑戦してみたい。
(2)塩冶神社
●所在地 島根県 出雲市 上塩冶町 167 ●探訪日 2009年1月26日
塩冶神社は、大廻城から南南西に直線距離で約500mほど行った小高い山に祀られている。
“出雲隠岐守護
塩冶判官高貞公
顕彰の碑
塩冶判官高貞公は鎌倉末期から南北朝の激動する世相の中を、出雲の守護として「天長、地久、国土安泰」を念じ懸命に生きようとした我が郷土の誇るべき武将である。
世に言う元弘の乱(1331年)以来、後醍醐天皇の親政を救け、京都還幸のの先達を務め建武の中興を支えるにない手となった。その後室町幕府の要職にあったが、いわれなき讒訴(ざんそ)にあい、京都を出奔、最愛の妻西台の局をも失い、自らも馬上で妻子の後を追った。
人間味豊かな武将である。
後世、高貞公夫妻の名は歌舞伎の名作「仮名手本忠臣蔵」によって脚色され、民衆の人気の的となった。
本年高貞公没後650年に当たり、全国各地の塩冶氏、高貞公の末裔、南條氏、地名を氏とした塩冶郷の人達と語らい古墓を整備し御霊を慰め子孫の繁栄を願い、その生き方をしのび、ここに後世に伝えるものである。
祭霊
塩冶頼泰、貞清、高貞公夫妻及び一族
事業内容
神門寺境内の高貞公の墓の整備、祭典及び法要
塩冶神社境内に顕彰碑の建立 歌舞伎の主催
寄付者ご芳名
塩冶一族
(以下省略)
南條一族
(以下省略)
高貞公所縁の寺社
出雲市 塩冶神社
姫路市 円通禅寺
倉吉市 定光禅寺
出雲市 神門寺 、観音寺 浄音寺
平成3年9月吉日
塩冶判官高貞公650年祭実行委員会”
以上
★この石碑に、南條氏が出ているが、これは伯耆にある「羽衣石城」城主・南條氏の祖が、高貞の子・貞宗であるということらしいが、一説によると、南條氏そのものは塩冶氏とは関係なく、最初から伯耆に南條氏の祖が居たというのもある。
【写真左】塩冶神社から向山城及び大廻城を見る
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